両手のひらの指先を合わせて、胸の前で力を入れる。
肘は地面と水平に。呼吸を意識することが大切。
柴崎から教わったことを実践しながら、郁は途方に暮れ始めた。
「これ……どの程度力を入れたらいいわけ?」
自慢ではないが、職業柄身体は常に鍛えている。それこそ、女性が日頃使わないであろう筋肉まで。
だからこそ「一般女性向け」にアナウンスされている運動など、どのように活用すべきなのか――否、やるだけ無駄だというのが柴崎の判断ではあるが、本人の熱意に負けた――で、迷う。
自宅のキッチンで、それでも諦めずに郁は指先を互いに押し合わせながらうなり声を上げる。
『あんたには必要ないと思うけどねー』
もう少し女性らしい部分を女性らしく保ちたい、という、郁にしては上品な言葉で郁にとっては無駄な依頼を受けた時、さすがの柴崎も面食らう。いや、正直に言えば予想の範疇ではあったのだが、提案できるソリューションが手持ちにはない。
とりあえず無駄だとは思いつつも、考え直しなさいという意味も込めて前述の台詞を告げた訳だが、やはりそんな提言は無駄に終わった。
『そ、そりゃ、篤さんはこのままのあたしで良いって言ってくれたけど、それに甘えるのもどうかと思うのよ』
相変わらずの純粋培養乙女は、結婚しても変わらないらしい。
だいたい、その手の悩みを結婚後に抱く辺り、どれだけ「恋愛期間中」に余裕がなかったかを伺わせ、可愛いヤツと思わないでもないけれども。
『一言で言うけどさ、大きくしたいのか綺麗にしたいのかで全然対処方法も違ってくるんだけど。あんたはどっちなの』
『両方でお願いします!』
返って来た答えは実に欲張りだが、世の女性共通の願望である以上責める気持ちも起きない。
しかし言われた方としては、さてどうしたものか、である。大きくもしたいし綺麗にも保ちたい。言うのは簡単だが、前にも言ったが努力の他に素質というものも絶対条件なのだ。
実に真剣な眼差しで自分をみる郁を見、柴崎は知らず苦笑する。あの教官は、本当に幸せものだな、と。
こうして頑張って綺麗であろうとする郁を知らずに、だけどきっと分かっていて、そうしてあの人は笑うのだ。いつものように、身長の割に大きな手を彼女の頭に乗せて。
言葉とは裏腹の気持ちのままに「あほう」、と。
わかってしまうからこそ、苦笑するしかない。
『幸せって……いいわよねえ』
思わずついて出た言葉に、郁が「へ?」と間抜けな声を出す。なんでもないわよ、と、手をひらりと振った柴崎は、とりあえず郁に冒頭のストレッチを教える。もう一つの目的に関しては、自分ではなく堂上にでもなんとかしてもらえばいいだろう。
そんな柴崎の思惑を知る由もなく、郁は大人しく言われたとおりのストレッチをするに至るという訳だが、もともと十分な筋肉が発達している郁にとってみてば実感を得られない運動は辛い。
挙句。
「……何をしているんだ?」
「きゃああ!」
背後からかけられた声に郁が悲鳴をあげると、パジャマから自宅用のジャージに着替えていた堂上が不本意そうに顔をゆがめる。
「おい、俺は猛獣か何かか」
「だ、だって急に声かけるから!」
「俺が俺の家で自分の嫁に声をかけて何が悪い」
いちいちお伺いを立ててから声をかけろとでも言うのか、と、こんなところまで正論で攻めてくるあたり大人気ないとぶちぶち思いながら、郁は素直に謝った。最後のほうの、嫁という単語で全てチャラになった事実は否めない。嫁。そうだ、自分は堂上の嫁なのだ。
「大人しく朝食の準備をしているかと思えば……お前、それ以上胸筋鍛えてどうするつもりだ」
バストアップのストレッチをしていたなどと、恥ずかしくていえない。堂上の台詞から、単なる筋力アップの運動だと思われたと安心した郁に、追い討ちの言葉が突き刺さった。
「何の為にやってるか知らんが、わずかな丸みすらなくなるぞ」
「えっ!? 何でですかこんなに頑張ってるのに!!」
「……やっぱりか」
ば、っと口元を押さえたがもう遅い。っていうか、何で篤さんそんなこと知ってるんですかこれって乙女の秘めたる部分じゃないんですかああと内心叫びながら、どれ一つ言葉にはならない。
「あほかお前は。バストは脂肪でお前が鍛えているのは胸筋だ」
「だ、だからっ! その、ないならないなりにですね、形くらいはと」
「だから、鍛えすぎたら脂肪を燃やすぞと言ってるんだ。わかるか?」
自分は筋肉を鍛えている。筋肉は脂肪を燃やす。そして鍛えている筋肉の直近にある脂肪は。
「うええええっ!! だ、だめっ、そんなのだめっ!」
「どうせ柴崎あたりの情報だろうが、お前みたいにすでに鍛える必要の無いレベルにまで達してる女にその手のストレッチは効かんぞ」
実に冷静に、淡々と。
郁はがっくりと頭をたれる。それじゃあ自分は無駄な努力どころかマイナスな行動をせっせとこなした挙句、見られたくない相手に見られた上に事実を突きつけられたという、単なる間抜けではないか。
目に見えて落ち込んだ郁に堂上はため息をつくと、彼女の傍まで歩み寄り、俯いたせいで正面に見えるつむじを包むように手のひらを置く。
「あほう。俺は今のままのお前で良いと言わなかったか?」
「言いました……でも、もっと好きになってもらいたかったんです」
「俺は別に、お前の胸に惚れた訳じゃない」
そんなのわかってます、と、言って気付く。これはきっと、堂上のためじゃない。堂上にもっと好きになってもらいたい、女性として、妻として魅力を感じてもらいたいと思う自分の我侭だ。
堂上は、郁から相談を受けた柴崎と同じ笑みを浮かべる。
「頼むから、あんまり可愛いことしてくれるな。結構俺だって色々大変なんだ」
「? 何がですか?」
「お前のいい旦那でいることが、だ」
柴崎曰く無農薬、の郁の相手は存外大変なのだ。特に、無農薬では決して無い大人の身としては。
今だって言われたことが分からないという瞳で、言葉の限りに自分を褒めちぎってくれる妻を前に、朝だと言う時間軸関係無しに抱きしめたくて仕方が無い。
(俺はお前が思うほど出来た人間じゃないんだ)
そんな気持ちは、ぎりぎりまで胸の奥にしまっておく。
「俺は構わんが、お前がどうしても大きくしたいというなら協力してやらんでもない」
芽生えた悪戯心すら素直に受け取る彼女に、どうしてそんな情けないことを口に出来ようか。
笑顔を向ける郁の脇から手を伸ばし、コンロの火を消す。
そして何かを察し始めた妻の腕を取り、キッチンを後にして。
「幸い時間はたっぷりあるからな。二度寝もたまにはいいだろう」
「って、ちょ、あつっ、篤さんっ!?」
叫ぶ口をふさいで。暴れる身体を抱きしめて。
うって変わった音階の声を漏らす郁に、これ以上綺麗になるなと囁く。もう十分だから、俺だけに分かる魅力があればいいと、エゴ以外何者でもない願望をそっと告げた。
Fin
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Comment:
やっとこ堂上の出てくる堂郁。
初出:20080610
再掲:20090213
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