** Happy C×2 **
銀の針


 クリスくんの眼差しが、優しいだけじゃなくなったのはいつからだろう。
 教室から、窓越しに景色を眺めるのはクリスくんのくせ。頬杖をつきながら外をみる彼の顔にお日様がきらきらと柔らかい光を投げかけているのを見るのがわたしは大好きで、部活中もよく筆が止まっては我に返ることが多かった。
 その、眼差しが日々違うものへと変わっている。
 相変わらず、優しそうなのには変わりない。けれど、それだけじゃない。
 時々ふ、と見せる泣きそうにも見えるゆらめき。かみ締めるように行われるまばたき。
 理由を知ったのは、それからすぐのこと。


『卒業したら、父ちゃんの仕事手伝うためにイギリスに戻んねん』


 仕事は大好きだという。だから、決して無理ではないと。




(じゃあ、どうして)












 そんなに、寂しそうなの。















 部活も終わり、暗くなった空にせかされるように家へと急ぐ。
 昇降口の下駄箱。クリスくんが色を塗って怒られた場所。
 校庭の二ノ宮像も、きんぴかにしたりカラフルにぬっちゃったり。それでやっぱり怒られて。


(怒られてばっかりだ)


 思い出して笑う。クリスくんのやることはいつも突拍子もなくて、そのたびに驚かされた。それから、暫くするとしょんぼりしたクリスくんを見るのもいつものこと。
 勝手に緩む口元を隠すために、マフラーに顔を半分埋める。零れた息が、白く舞い上がった。

「もう……2月かあ」

 卒業まで、あと一ヶ月。
 クリスくんと一緒にいられるのも……あと、それだけしかない。
 一人で歩く帰り道。いつからだったろう、隣には必ずクリスくんがいて。忙しくて一緒に帰れない日も、次の日の朝には「昨日はごめん〜」って、ちっとも悪くなんかないのに謝りにきてくれたりして。
 だからきっと、明日の朝もいつもみたいに、ごめんって来てくれるかも。たとえ、わたしが先に勝手に帰ったのだとしても。

「…………」



(卒業しちゃったら?)



 わたし、ずっと一人で帰るの?
 それでも、次の日にごめん、なんて来てくれない。その次の日も、その次の次の日だって、わたしとクリスくんが一緒に帰ることはもうない。大学が違うからだとかじゃなくて、だって、住んでいる場所がもう全然違っちゃうんだもん。

「――っもう! 泣かない!」

 ずるい。わたし、ずるい。
 クリスくんがずっと隣にいないのは、住んでいる場所のせいじゃない。その前に、わたしたちはそんな約束された関係じゃない。
 クリスくんの優しさに甘えて、隣が居心地良くて、言葉にできない意気地のない自分をすり替えてた。


(だけど)


 たとえ、口に出せたとしても。想いが、通じたとしても。







『イギリスに戻んねん』









(いやだ)









「……やだよ」

 行かないで。一緒にいて。

「やだぁ」

 でも、言えない。


 お父さんの仕事が好きだという、そのために、やりたいことはこの3年でやりつくすんだって一生懸命きらきらしていたこと、否定する言葉なんて言えるわけない。





(好き)





 クリスくんが好き。


(大好き)


 むちゃくちゃなことばっかりしてるけど、いつだって皆を楽しませてくれてたクリスくんが。
 やりたいことも、やらなくちゃいけないこともみんな全力で頑張ってたクリスくんが。

「……っく、ううう〜〜」

 頬をぬらす涙が温かいのは一瞬で、冬の冷たさに負けてわたしの頬を凍らせるものに変わる。
 クリスくんとの思い出も一緒。あんなに楽しかったのに、今じゃ思い出すだけで苦しくて死んじゃいそう。大好きだった笑顔が、こんなにも苦しい。泣きたく、なる。
 酸素を求めて空を見上げる。滲んだ目に、星の光がまぶしい。



「可愛いコちゃん、はっけーん」



 ふわふわした優しい声が耳に届く。振り返らなくても誰かなんて分かるから、だから振り返れなかった。

「キミと一緒に帰りたい思っとったのにな、先帰ってしもたから、急いであと追ってきたんや」

 追いつけてよかった、なんて、わたしとは逆の気持ちを口にしてクリスくんは近づいてくる。
 足音が、大きくなる。だめ、泣いてるのばれちゃう。今何か言われたら絶対がまんなんかできないよ。

ちゃん?」


(呼ばないで――)



「ひ、とりで帰る練習してたの」


 ひ、で声がひっくり返る。かっこわるい。かわいくない。


「あと一ヶ月で卒業だし、だけどいきなりはやっぱりきついし、だからちょっとずつ練習するの」


 クリスくんが側にいなくなって寂しくないように、泣かないように。だってあと一ヶ月ある。一ヶ月、泣きながら帰ったらきっともう大丈夫。からからになって泣きたくなって涙なんか出てこなくって、だから泣かないもん。




 ――そしたら笑って行ってらっしゃい、っていえるでしょう?





「だから、ばいばいっ」


 ふいうちを狙って地面を蹴る。思い切り前に踏み出した身体は、けれど掴まれた二の腕を起点に願いは叶わない。バランスを失って転びかけた身体がぐるんと180度回転して、目の前に色とりどりのリボンが見えた。







 クリスくんとのスキンシップは、女友達みたいな『ぴったんこ』。




(こんなの知らない)










 痛いくらい掴まれた腕とか、息ができないくらい抱きしめられてる背中だとか。
 甘いお菓子みたいなハグとは違う、男の子の――。

















「……なんでそないな意地悪、言うんや」













 先のとんがった、銀色の冷たい針でちくりと刺されたみたい。
 クリスくんの声、聞いたことのない響き。泣きそうで、どこか怒っていて。

「ボクにどうして欲しいん? 言って? ちゃんの願いなら、何だって叶えてあげる」

 多分わたしは分かっていたんだ。クリスくんの中で、『本当』が二つあることを。
 お父さんの手伝いをしたいのも本当。だけど、まだ遣り残した、やりたいと思うことも沢山あることも本当で。


 きっと今、わたしの返事でその本当の片方が捨てられてしまうことを。




 苦しくて、苦しくて、酸素を求めて仰ぎ見た先に翡翠の瞳。
 失敗した。見なければ、良かった。
 反射的に目を逸らす。だけど見てしまった眼差しは消えることはなくわたしの心臓を鷲掴みにして拍動を止める。もう、やだ。

「クリスくん、ずっとまえに、女の子は皆好きって言ったよね」
「……うん、言った。けどな」
「だからね、わたしはクリスくんに嫌われたいって思う」

 彼の言葉を遮って言い返した言葉に、わたしを抱きしめる腕がびくりと震えた。その隙に、わたしは自分の両腕を彼との間に割り込ませ、ぐい、と距離をとる。
 温かさを覚えた腕が、冬の風にさらされて凍える。

ちゃん?」
「クリスくんにとって、世界で一番大嫌いな女の子になりたいよ。大好きな女の子たちの中で、わたしだけ嫌いって」
「何言うて……」
「だってそしたら」

 かさかさにひび割れた唇から、我侭な願望を口にする。クリスくんは何が何だかわからないと言った様子で呆然と立ちすくんでいた。
 クリスくんが女の子全員好きなのは、本当だと思う。だけど、多分、好きになっちゃいけないと思っているからこそ皆好きなんだ。
 全員を、平等に、皆大好きで大切で。だけどそんなのはクリスくんにとって通り過ぎる景色と一緒だもの。そうじゃないって言ったとしても、わたしはそんなのは嫌だ。
















「そしたらずっと、覚えていてくれるでしょう?」















 少しでも、特別になりたい。
 好きじゃなくたっていい。好きになれないのなら、大嫌いでいいから。



(わすれないで)



 こんなにもこんなにもクリスくんが大好きだった女の子が、日本にいたこと。
 ずっと一緒にいた三年間を、ただの思い出になんかしないで。
 クリスくんの頭が、左右に振られる。その緩慢な動きで、金色の髪がのろりと揺れた。


「……出来ひんよ、そんなの。出来るわけ、ないやんか」


 その返事に、不思議と笑いがこみ上げる。このやり取りがどれだけ滑稽か、多分わたしが一番わかってた。

「無理やわ。せやって、大好きな女の子に嫌いなんてよう言われへん」
「だけど、わたし他の女の子と一緒なんて嫌なんだもん。我侭だって分かってるけど、大好きな女の子で一括りにされたくなんかな……っ」
「してへん!」

 荒げられた語尾にびくんと反応する。今まで見たことのない顔つきに、声。
 どんなときでも笑顔を忘れたり、声を荒げることのなかったクリスくんのその反応に驚き、今度はわたしが言葉を失う番だった。

「してへん。ちゃんを、他の女の子と一緒になんてしてへん。やって、ちゃうねんやんか……ちゃんは、ボクにとって一等キラキラしてて、お姫様みたいなコや思うてんのに」

 さっきクリスくんがそうしたように、わたしも首を横にする。いいの、もう。

「そういうの、もう、いい」
「良くなんかあらへん! なあ、わからへんの? ホンマに、ボクがキミのことどう思っとんのか、伝わらへんかった?」
「もういい!」

 あやすみたいに、いつもみたいに無理やりに受け止めてくれなくてもいい。
 そんないっぱいの優しさなんかより、ごめんなって謝られたほうが何倍もいい。
 八つ当たりだってわかってた。あとでうんと後悔するってことも。
 だけどもう辛くて。好きすぎて辛くて、これじゃ本当に嫌われる。

 離れた距離を埋めるように、彼の手がわたしの肩を掴んだ。柔らかな長い髪がわたしの頬にふれて、涙に誘われるようにひっつく。くすぐったくて涙をぬぐうのと一緒に手をやれば、強引に割り込まれたクリスくんの頭が邪魔をして振り払うことは出来なくて。

 吐息が唇に触れた。
 見開いた視線の先で、金糸のような睫が震えているのが見えた。






 少しでも動いたら、本当に触れてしまう距離を残して、止まった――。















「……アカン」




 硬直したままのわたしの肩口に、こつりとクリスくんの額がのる。その動作はひどく緩慢で、油の足りない人形のようにも思えた。
 どれくらいそうしていたのか、やがてのろのろとクリスくんが顔をあげる。


「狼さんになってまうところやった……アカンー」


 ボクのあかんたれー、と、いつものクリスくんで笑う。ぎしぎしと音さえ聞こえそうな動作でわたしの肩をおしやり、距離をとる彼の顔は後ろを向いていて分からない。



「クリ……」
「堪忍な。キミがあんまりに可愛いから、つい悪さしてまうところやった」
「クリスくん」
「又がおーなってしもたら危険やし、狼さんは退場しますー。せやけど、他の狼さんに狙われへんように、気ぃつけて帰ってな?」
「クリスくん!」
ちゃん」

 一度もこちらを見ない彼に不安になって何度も呼びかければ、そのたびにごまかすように言葉をさらわれる。
 もどかしくて叫ぶように呼べば、いつもの声なのにそれ以上何かを続けることを許さない響きで短く名前を呼ばれた。


「カミサマに、怒られるかもしれへんけど」


 すでに歩き出しながら、わずかに顔が見える角度で振り返る。夕闇の中でもきらきらする金の髪が、彼の表情を彩って儚げに浮かびあげた。




「一緒にいたい思うんは……思ってしまうのは、仕方ない思てええかな。せやって、一等大事なコとは、誰だって離れたないねんやんか。
別に無理やり向こうに行くんやない。父ちゃんの仕事だって、早う手伝ってあげたい思うのやって本心や。けど……けどな、せやけど」

 わたしよりずっと大きなクリスくんが、頼りなく見える。冬の冷たい風にさらわれてしまいそうなほどに儚げで、だけどあくまでも身体をこちらに向けない彼の背中が、手を伸ばされることを拒絶していた。










「思い出だけやなくて……これからだって欲しい思ってまうのは…………しゃあないやんなあ」











 欲張りさんやな、と、自嘲するように零して今度こそクリスくんは歩き出す。
 わたしはそっと掴まれた肩を抱いて、吐息だけが触れた唇に指を当てて。



「――――っふ、う……」




 堪え切れなかった嗚咽を、指の隙間から零して泣いた。

















Fin


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Comment:

な、なんっ、なんでこんな暗い話に(呆然)。


up日不明



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