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● Steps |
「ここが駄目なら、他の場所へ行けばいいだけですし」
それを口にした時、君が泣きそうな顔をしたのに気付いていた。
そして君のその顔をみて、酷く胸が痛んだ反面、嬉しかったことを覚えている。
誰かに固執してはいけないという自戒と。
君に求められたいという欲求。
頭がいいと持て囃されていた僕は見事に、一回り近く年下の君のせいで、馬鹿になっていたんだ。
「先生。若王子先生」
僕を呼ぶ声に、意識が浮上する。まず視界に飛び込んできたのは、空に浮かぶピンク。ついで、その色に溶け込むような淡い髪の毛と、くるくると動く大きな瞳。
「そろそろ起きないと風邪引きますよ? いくら春でも、まだ風、冷たいですし」
言いながら彼女――さんは、持参したポットから注いだコーヒーを僕に渡してくれる。僕はお礼を言いながら起き上がり、それを受け取ると、強くなってきた午後の風に踊らされる桜の花を見上げた。
「綺麗ですねえ」
「はい。満開の桜も綺麗ですけど、ちょっと散りかけた頃が好きです。こう、ひらひらって花びらがたくさん舞って、綺麗」
心底そう思っているんだろうな、と伺い知れる表情で、彼女は笑う。そうして、僕のほうに手を伸ばすと、髪についている花びらを優しく落としてくれた。
「そういえばさっき、僕のこと『先生』って呼びましたね? ちょっとびっくりしました」
「だって貴文さん、呼んでも起きないんですもん。先生って呼んだほうが、責務に駆られて起きるかなあって」
「見事な推察です。そして先生、ひっかかりました」
「作戦大当たりですか」
「大当たりです。ご褒美は何がいい?」
テンポ良い会話に、褒美に見せかけた自分の庇護欲を織り交ぜてみれば、彼女は無邪気に笑いながらも真面目に考え始める。その様子を微笑ましく思いながら、気付けば適温になっていたコーヒーを口に運んだ。
彼女と『恋愛』を始めて、丁度一年。
それをきっかけに、僕と彼女の関係は、先生と生徒から恋人同士になり、互いを呼ぶ名も変わった。
僕自身にとって、恐らく初めての恋。それは知識としてあった想像通りである反面、どうにも制御しきれない感情に戸惑う日々でもあって。
時折怖くなる。これでいいのかと自問しても答えが出ない。
こんなにも一人に心を許し、信頼し、依存する。その状態がどれほど危険なものかを、僕は多分知っていたから。
そして経験したことのないそれに、自分がどうなってしまうのかわからなかったから。
「決めました!」
「はい。何でしょう」
「3択です。間違えたら居残りです」
在学中の僕を真似た仕草で、彼女が指を3本立てながら努めて真面目な顔をするけど、どう贔屓目に見たって威厳が足りない。僕は噴き出しそうになるのを堪えながら、彼女の希望に沿うように居住まいを正し、生徒役に徹する。
「いち。そろそろさんじゃなくて、名前で呼んでください」
けれど、その予想外の言葉に、僕はほんの一瞬前まで完璧に演じていた生徒の顔が崩れるのを感じた。なのに彼女は、僕の顔が素に戻っているのがわかっているだろうに、まるで気付いていないふりで――いや、最初からこうなることがわかっていたように、言葉を続ける。
「に。もっとちゃんと、甘えてください」
「いや、あの……さん?」
「さん。若さがたりないです」
最後の言葉なんて、願いというか僕へのクレームに思えてがくりとへこむ。どうせ先生は君ほど若くもないしセンスもないです、と心の中で愚痴れば、3つ目の台詞と共に立てられた指をそのまま広げて、僕の手を包んだ。
「貴文さん、まだ難しいこと考えてるでしょ? 先生はお見通しです」
「さ……」
「ちゃんと恋愛しようねって言ってくれましたけど、しよう、しようって頑張ってる。あのね貴文さん、恋愛ってしようと思って出来るものじゃないですよ。もっと馬鹿にならなくちゃ」
「馬鹿……ですか?」
「そうです。馬鹿です。馬鹿って頭が悪いってことじゃないですよ? 若いってことです」
ああ、だから若さが足りないって言ったのか。
幾分納得しながら、僕は自分の手を包む彼女の温もりをぼんやり感じている。こんな風に、君の手に初めて触れたのは、いつだったかな、なんて思いながら。
今僕は、どんな顔をしていたんだろう。でも、君の僕を包む手に、きゅっと力が入ったのがわかったから、きっと頼りない顔だったのだと思う。
僕たちの重なった手の上に落ちてきた桜の花びらが、風に吹かれてまたどこかへ旅立って行く。それを、ぼんやりと見ていた。
「わたしも、怖いです。貴文さんがこうしてそばに居てくれて、こうやって手を握っていても、次の瞬間にはどこかに行ってしまいそうで」
「さん」
「覚えてますか? 一昨年もこうやって一緒に桜を見て、先生が消えちゃった気がして、わたしが泣きそうになったの」
怖いくらいの花びらが先生を攫って行ったんだって、本気で思ったんです、と、昔の思い出をたどったせいか、呼び方まで昔に戻る。
彼女は僕の手を何度も握りなおし、僕の存在を確かめているようだった。僕はコーヒーの入ったカップを脇に置き、空いた手で彼女の身体を引き寄せた。どうしてか、僕が言いたい言葉は「ごめんね」の一言で、でも同時にそれは、絶対に言いたくない一言で。
謝るのは、卑怯な気がして。
「もうどこにも行かないと約束したでしょう。行きませんよ、君を置いてなんて」
幼いものが持つ特有の聡さは、敏感に心のうちを感じ取ってしまうことを忘れていた。
僕はいつだって君よりもずっと大人のつもりで、君を守っているつもりでいて、だけど気付けば恋に落ちていたように、自分の立ち位置を見失う。
「君を不安にさせるつもりなんてなかった。僕は恋人失格ですね」
腕の中で左右に振られる頭が愛しい。握り締められたままだった手を優しく解き、今度は逆に僕が彼女の手を握り締めた。
「わたしも、ごめんなさい。ちゃんとした恋愛初めてだから、どうしたらいいのかわからなくて」
「……’ちゃんとした’?」
「! ご、誤解しないで下さい! ふざけた恋愛もしたことないです!」
微妙なニュアンスに固まった僕の心中を即座に察した彼女が、がばりと顔をあげて否定する。ああよかった。さんにそんな過去があったら、泣いちゃうところでした。
ほう、と胸を撫で下ろした僕がおかしかったのか、頬の赤みを残したまま彼女が微笑む。その顔が余りに可愛くて、愛しくて、柔らかく唇をおとした。
「で?」
「はい?」
「三択の答えは、どれでしょう」
くすぐったそうに、繰り返される口付けを受けつかわしつ、僕を見据えて彼女が問う。
だから僕は、もう一度だけ生徒のフリをして手を上げた。
「答えは全部です。ピンポンですか? ――さん」
舞い散る桜が、もう寂しい思い出にならないように。
彼女の笑顔と、僕の笑顔で染めかえた。
Fin
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Comment:
ラブラブモード突入!してると思ったのに、告げられたこの台詞に打ちのめされ、
リベンジとばかりに書いた消化(昇華)SS。
若王子先生は、本当にいい先生だなあと思います。
20080228up
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