** Happy C×2 **
 ●甘露の日和

  政府軍に投降する。
  そっと陣外に呼び出された千鶴は斎藤からその決定を伝えられ、顔面から血の気をさっと引かせて目の前の男を凝視した。
  政府軍への投降という言葉は、近藤の最後を土方に聞かされて以来どうしても斬首に直結してしまう。
  嘆願も聞き届けられなかった。せめて切腹をとの願いも手ひどい言葉と共に振り払われた。その事実が重くのしかかる。
  いやだ。
  声にならない想いを、首を力なく振ることでしか訴えられない。
  このひとが、そんな風に扱われるのはいやだ。
  身に受けた恩義に報いるために、ただひたすら走り続けてきた真っ直ぐなひとが、その志に唾を吐きかけるような扱いをされるのは耐えられない。
  それになにより、このひとを失いたくはなかった。
  取らないで。
  これ以上、私から奪い取っていかないで。
  土方と別れ、共に在ることを認めてもらえてからまだいくらも経っていない。ようやく手に入れた、ほんとうにほんとうにささやかな幸せだったのだ。
  傍にあることを望まれ、許される。
  たったそれだけの事さえこの手に残して貰えないのかと、みるみる瞳の内で盛り上がった涙が零れ落ちるその手前で、音もなく、月の光のような密やかさで身を寄せた男の唇でその雫が掬い上げられた。
「……うっ……」
  それでも、一度決壊したことに変わりはない。臨界点を超えたことで抑えきれなくなった嗚咽が漏れると、やんわりと抱きしめられる。
「心配するな」
  低く囁かれる。けれどそれは無理な要求というものだった。
  以前ならば自分が心配などおこがましいとも考えられたが、今は心配することが許される身なのだ、いくら心配したってし足りないくらいだった。それどころか、心配を通り越して、あまりの胸の痛みに自分こそがどうにかなりそうだ。
「心配しなくていい。俺は死にに行くわけではない」
  耳元に落とされる声は優しくて柔らかい。けれど千鶴にはそれを信じきることが出来なかった。だって、それは近藤さんも同じだったはずです。そう言いたくて、けれど喉は嗚咽以外の音を発そうとはしてくれないものだから、やはり首を振ることでしか返答できない。
  北の秋は早い。今陣を張っている場所が山であるから、それは尚更だ。陽が落ちれば急速に冷え込んでいく空気の中で、斎藤の腕はとても暖かい。羅刹であろうとなかろうと、このひとの腕はいつでも暖かかった。一度手に入れたそれを、今更失うことなどできようはずもない。
  必死に拒否の意を示すと、斎藤は千鶴の肩の上で嘆息してから、そっと互いの身体に隙間を作った。思わず身構えた千鶴の目の前で、けれど彼の瞳は優しく、そしてどこか気恥ずかしげに細められた。
「千鶴。話を聞け」
「……」
  予想とは違った斎藤の空気に呑まれ、思わずこくりと頷く千鶴にもう一度ささやかな笑みを閃かせ、斎藤は唇を開いた。
「お前は先ほど同席していなかったからそう思ってしまうのも無理はないが、投降した後は謹慎が申し付けられることになっている。今投降すればその程度で許そうと言うことらしい」
  先ほど、とは使者との会談の話だ。斎藤自身はいてくれて構わないと言ってくれたのだが、どうにも場違いに思えて茶を出した後千鶴の方から席を外したのだ。
  だから、確かにその場でどのような遣り取りがあったのかはわからないのだけれど。
「……謹、慎」
  彼の言葉を疑うわけではないが、本当にそれだけで済ませてもらえるのだろうか、との問いかけを内包する呟きに、斎藤は微苦笑で頷いて見せた。
「ああ。短くて半年。長ければ……そうだな、もっとかかるかもしれないが、」
  待てるか。
  そう問われて、頷く以外の何ができただろう。
「ならば、待っていてくれ」
「はい……っ」
  斎藤は、自分から離れて普通の娘として暮らせとは言わなかった。
  彼が簡単に自分を手放して背を向けてしまわなかった事が何よりも嬉しくて、千鶴はもう一度泣き出してしまい、そんな中で斎藤が唇を塞ぐものだから、息苦しくて、けれど幸せで笑った。
  それからの斎藤の謹慎生活は、思った以上に長引いた。それが会津の藩士達と共に謹慎することになったとばっちりなのか、彼らこそが「新選組三番組組長斎藤一」のとばっちりを喰う羽目になったのかは、千鶴にはわからない。
  年明けに塩川から場所を移ると知らされた時、よもやこれで謹慎生活も終わりかとぬか喜びしかけたことすら遠い日の事のようだ。
  すまないと苦笑する斎藤に、おかしいと思ったんです、謹慎生活が始まってから然程経ってないのにって、とわざとらしく唇を尖らせては見たものの、半ば以上は本心だった。
  それから高田に移動して更に一年半。再び移動の知らせを受けて「またか」と落胆した千鶴は、けれどそれを告げる斎藤の表情が笑顔であることに首を傾げた。
  そして彼は、淡い微笑みとともにこう告げた。
「待たせたな」

 

 移り住んだ斗南でささやかに挙げた祝言は、貧しい生活の中でも、斎藤が謹慎時代に親しくした人たちが心を尽くしてくれたおかげで、千鶴には充分すぎる程のものとなった。
  斎藤が新選組時代に残した金子は、投降時に千鶴が預かっていたおかげで然程目減りさせずに彼に返すことが出来ていたが、そもそも物資そのものが不足しているこの地では金より米の方がよほど物を言う。折角手に入れた土地なのだ、これから作り上げていけばよいと意気込んでいる者も少なく無かったが、当面は政府の救援に頼るしかない。そのような中で、斎藤はわざわざ江戸から取り寄せた反物で精一杯千鶴を着飾らせてくれた。
「斎藤さんの袴はないんですか」
「俺はいい」
  いい、と言いながらもすっかり見慣れた洋装の姿で「これがある」と指し示すのは、千鶴の着物同様に、新しく千鶴が縫った濃紺色の着物である。濃く暗い色を身に付けるのは与えられた役割をこなしやすくするためかと思っていたが、どうやら本人もそういった色合いを好むようだと、今更ながらに気付いた事実が嬉しくもこそばゆかった。
  そして今、二人は真新しい着物を身に纏い、一人、また一人と去っていった祝い客の見送りもすんだところで、向かい合って茶を啜っていた。
  こうしていると、もう長らくそうしてきたような日常の続きのようですらあるが、互いが見につけているまっさらな着物がそれだけでは無い事を主張している。
  湯のみを傾ける斎藤もだ。今のこの時間ならば、普段の彼であれば湯のみではなく杯を傾けているはず。
  常ならばお茶を煎れましょうかと問うた時点で不要を告げたであろう彼の唇は、けれど言葉を発することなく、斎藤はちいさく、そしてどこかぎこちなく首を縦に振ったのだ。
  自分よりいくつも年上の、新選組で組長として剣を振るい続けてきたこの男が可愛いと思ってしまうのはこんな時だ。
「斎藤さん、緊張してますか」
  自分こそがそうであるくせに、わざわざ相手に問い掛けてしまうのは、こちらの緊張を紛らわせたいためだ。
「いや」
  即座に否定した斎藤は、そのあと決まり悪げに千鶴から視線を逸らした。
「おまえが緊張しているから」
  うつった、と呟いた後しばらくして、ふ、と口元から笑みをこぼす。
  その笑みが、穏やかで優しくてけれどどこか諦めのような、むしろ諦めさせたおまえが悪いとでも言っているような複雑すぎる色をしていて、千鶴は凍りついた。この男が【安全】ではないことを、千鶴はもう知っている。
「千鶴」
「は……はい」
「茶はもういいな」
  狭い部屋だ。互いが座している座布団には、湯飲みと急須をを置く盆一つ分しか隙間が開いていない。飲み干した後所在なさげに両手で抱え持っていた湯飲みを取り上げられ、千鶴の口が「え」の形のまま固まる。
「あ、あの、斎藤さ……」
「斎藤、ではない」
  ことん、と盆の上に湯飲みが二つ置かれ、それを置き去りにしたまま、斎藤は腕を引いて立ち上がらせた千鶴の膝裏に腕を差し込んだ。
「ひゃあっ」
「これからは、下の名で呼べ」
  足で襖を開けるなどという、彼らしくもない仕草で続きの間に千鶴を運び込んだ斎藤は、その荒々しさのまま押入れの中の布団を適当に引き摺りだす。
「ま、待ってください!」
  確かに夕餉の時間は済んだとはいえ、まだ床に就くには早い時間で、表には人通りだってあるのだ。何より片づけが残っている。思い留まらせようと声を上げれば、返るのはにべもない返答。
「充分待った」
  けれど布団に身体を下ろす仕草は、それまでとは全く違って壊れ物を扱うがごとき丁寧さで、少し安心する。千鶴が身体の力を抜いたのがわかったのだろう、斎藤は柔らかく微笑んだ。それに流されてしまうのがどこか悔しくて、腕だけで己を囲っている男を軽く睨みつける。
「……お片付けが、まだです」
「明日でいい。気にするな」
「気にします」
「ならば後で俺がやろう」
「私のお仕事です」
  最終的には斎藤が折れた。
「……無理はさせない」
  武士に二言は無い、はずだ。言質を取ってまた一つ安心する。けれどまだだ。
「襖、開きっぱなしです。押入れも」
  斎藤という男は、細やかに相手を気遣う性格をしている割には妙なところでおおざっぱで、時折千鶴が許容しかねることを平気でする。千鶴にとってはこういった行為は密やかに行われるべきものであり、どこもかしこも開けっ放しで耽ってよいものではない。
  いい加減そういった互いの感性の違いは心得ているらしい斎藤は、素直に頷いて立ち上がった。
「わかった、閉めよう」
  タン、タンと小気味いい音を響かせて襖戸を立てる。向こうの部屋で灯っていた行灯の光が途切れ、障子の向こうの月明かりが唯一の光源となった。千鶴が闇に目がなれずまばたきをしている間に、再び戻ってきて傍らに座した斎藤は、他には? とでも言うように、瞳を覗き込んできた。
  言い訳を、ひとつひとつ潰されていく。いや、潰してもらっているのだろうか。
  本心から拒めば、絶対に斎藤はこれ以上は続けないだろう。けれど、拒めるはずがない。それを斎藤も分かっている。分かっていて、千鶴が完全に諦めるのを根気よく待ってくれる。
  ずるいです、と心の中で呟く。そんなひとだから、千鶴もいつまでも駄々を捏ねるのが申し訳なくなってきてしまうのだ。
「……着物は、皺にしたくありません」
  しばし黙考した後、腕を引かれ、斎藤と同じように布団の上に座らされた。
「それは了承の言葉と取るが」
  いいな、という問いは、もはや問いではない。頷く前に抱き寄せられ、首筋に顔を埋められる。気がつけば襟元は緩んでいて、いつの間にと思う間も無く首筋から離れた顔が耳朶に迫っていた。
「さいと、さんっ……! 順番が」
  そこからなのか、唇から触れるのが普通ではないのか。そう訴えるも、斎藤は怯みはしない。順番はこれでいい、と耳朶に触れたままの唇が吐息とともに震動を伝える。その振動が耳から体の中心にまで一直線に伝わって、千鶴はひくりと小さく肩を揺らした。
「俺がおまえに触れることが許された初めの場所はここだ」
  だからここから触れるので合っている、そう断言した唇からするりと這い出てきた舌先が孔に忍び込んできて、千鶴は震え上がった。無意識に開いた唇の隙間から、悲鳴にもならないか細い声がこぼれ、それは時折声にもなれずに弱々しい吐息として吐き出される。
  何かから逃げたくて脚に力を込めて伸び上がってみても、がっしりと巻きついた男の腕がそれを阻んでどうにもならない。
  耳元で響く水音が、その他の音の強弱の聞き分けを出来なくさせる。自分がどれだけの声量であられもない声を上げているのか判断できず、少しでも声を堪えるために斎藤の着物をありったけの力で握りしめた。
「こ、……こえ、……そ、と……っ」
「……それはおまえが頑張れ」
  俺は別に聞こえてもいい、と笑った声は、やはり屯所で唯一の女子である千鶴をいつも細やかに気遣ってくれた男のものとは到底思えなかった。
  結い上げた髪の簪をそっと外し、邪魔にならないところに置いた手が頬にあてられる。それだけでちいさく震える己が恨めしい。まったく、いつの間にこんなことになったのだろう。
  斎藤に身体を開くのはこれが初めてではない。心を通わせ、風間との因縁に決着をつけた後、果ての見えない戦いの最中で幾度か身体を重ねた。愛おしさが抑えきれず、時には恐怖に耐え切れず、互いの熱を求めた。
  けれど流石に謹慎生活中にはそのような意味合いで逢瀬を重ねてはいない。
  充分待った、とはこのことかと今更ながらに理解する。
  そして、自分もまた彼を待っていたのだと、否応なしに気づかされた。千鶴の心の外側を埋める良識や羞恥を取り払った奥底の本心が彼を望んでいる。だから身体は正直に想いを熱に変え、身体の芯を溶かしている。
  羞恥に頬を染め、けれど逃げることも出来ずに千鶴は斎藤を見返した。それを受け止めた斎藤は、瞳を一瞬見開いた後、艶と熱とをそれ以前よりも色濃くさせた。
「こちらの意味でも、待たせていたようだな」
  らしくない軽口への反応に困る。その隙に千鶴の困惑の原因であるところの唇は、彼女のそれを塞ぐために忍び寄ってきていた。千鶴もまた、瞳を閉じて受け止める。
  初めはそっと触れるだけ。次は少しだけ長く、押しつけるように。最後に千鶴の唇をちろりと舐めて離れた彼の要望に応えて少しだけ隙間を作れば、斎藤の身のこなしのような素早さとなめらかな動きで舌先が侵入してくる。
  彼のまなざしそのままの熱い舌に差し出した己のそれを絡め取られ、喉奥が鳴る。まだその動きは優しく穏やかで、どちらかと言えばくすぐったいと感じる方が強い。けれど確かに含まれる甘い何かに、千鶴はそっと眉根を寄せた。
  唇を合わせたまま、少しずつ着物が肌蹴られていく。
  帯を緩め、袷に滑り込んだ斎藤の手が一度ぐいと着物を押しやるようにして、ささやかなふくらみが外気に触れた。空気にすら触れさせぬというように、その片方を着物の内に入り込んだままの手のひらが包み込み、そうして触れられることで千鶴自身もその頂きの状態を知る。思わず顔を背けると、唇が離れたのをいいことにもう一度、待たせたなと耳元で囁かれた。睨み付けたところで嬉しげに笑われるばかりだ。
  てのひらを擦りつけるようにして胸の形を確かめられて、その優しい動きが心地よくももどかしく、千鶴の背が撓る。そうしながら帯を引き抜き、斎藤は千鶴の身体を隠していた衣をまとめて布団の上に滑り落とさせた。
  ようやく現れた背筋を、千鶴の肩越しに眺めながら着物を崩した手で撫で上げる。くう、と殺しきれなかった声で千鶴の喉が鳴り、その反応に耳元で嬉しげに吐息が漏らされた事でさらに彼女の中の熱が上がった。普段は感情の発露が乏しい斎藤の表情が、千鶴の些細な反応一つで顕著な喜びに染まるのが恥ずかしくて、居たたまれなくて、でもどこか嬉しい。
  布団の上に落とされたままの真新しい着物が気になったが、その千鶴の目線に気付いた斎藤が身体の下に敷かれないようにと畳の上に避けてくれたので、それ以上口にすることはやめた。その代わりに斎藤の胸に額を擦りつける。くつりと笑う声が聞こえたと思ったらうなじに軽く歯を立てられた。
「ん、」
「痛いか?」
「……いいえ……」
「よかった」
  安心したように頷く声は優しい。けれど再びうなじへとかぶりつくその行為はどこか飢えた獣じみていて、千鶴にもおぼろげながら斎藤の忍耐がぎりぎりまで引き絞られているのが分かるような気がした。
  まだ、我慢をさせているのだろうかと少しずつ靄がかかり始めた頭で考える。
  斎藤は千鶴には優しくて、いつも気遣ってくれてばかりのひとで、けれど男でもあるから時折こうしていつもの忍耐強い【斎藤一】の殻を割り開いて千鶴に触れてくる。それでもきっと、硬く覆った殻の全てをかなぐり捨てているわけではないのだろう。
  それも一重に――千鶴を思うがゆえ。
  そこは間違えないし、疑うこともない。自分はこのひとに大事にされている。
  だから今日くらいは。夫婦となった今日くらいは、その殻を捨てさせてあげてもいいのかもしれない。いや、そうして欲しい。
  千鶴だって女だ。全面的に肯定するのはまだ憚られるが、自分だって彼を求めているのだという事は、認めざるを得ない。彼に指摘されるまでもなく。
「斎藤さん、」
「どうした」
  声をかけて、けれど今し方考えた事をそのまま口にすることが出来ずに口ごもってしまった千鶴を斎藤の真っ直ぐな瞳が真意を探るように見つめてくる。千鶴も瞳の熱が彼に思いを伝えてくれることを願って、その深い瞳を見つめ返した。
「私は、斎藤さんの……妻、です」
「ああ」
「あなたの、ものです」
  回りくどい物言いをしても、きっとこのひとには伝わってくれるはず。そう信じて続けると、斎藤の瞳が困ったように揺らいだ。闇に慣れた目が外の僅かな光を拾って、斎藤の黒目に写り込む光が揺れる様を捉える。ああ本当に、彼の言った通りに瞳は色々なものを教えてくれる――そう千鶴が考えた瞬間、斎藤が緩く拘束していた千鶴の身体を反転させて、背後からきつく抱きしめた。
「……千鶴。顔を俺の方へ」
  言われて仰向くと、顎が捉えられて不自然な体勢のままくちびるが重ねられる。そうしながら斎藤のもう片方の手指の先が千鶴の腰を覆っていた最後の一枚をそっと割り開いて太ももの内側をするすると這い上がってきた。
「ん……!」
  口が塞がれている所為で、思わず上がった声が鼻から抜けていく。急激に甘く跳ね上がった己の声に居たたまれないと感じる暇もなく、斎藤の指先は容赦なく裡に潜り込んでくる。
「は、あ、んぁ……っ」
  唇が離れた瞬間、酸素を取り込むと同時に斎藤の唇を振り払って仰け反る。顎を捉えていた手が伸び上がろうとする肩を押さえつけて逃げ道が奪われ、耳朶が甘噛みされてさらに熱の逃げ場所を失った。すがるように握りしめた斎藤の腕に思わず爪を立ててしまったが、彼は何故か嬉しげな吐息を漏らすだけで、痛みを訴えることはなかった。
  聞こえてくる荒い息が耳元で繰り返される斎藤のものなのか、それとも自分のものなのか、千鶴にはわからない。
  内側に這入り込んでいる異物がするすると内壁を探る度に、身体が耐えかねたようにびくつき、懸命に堪えようとしている声が本当に堪え切れているものか定かではなくなってくる。断続的に小さく声を漏らす千鶴を憐れに思ったのだろうか、斎藤が未だ耳元を彷徨っていた唇を、言葉を発するために開いた。
「千鶴。もういい」
「で、でも、がんばれって、……あ、あ!」
  言ったのは斎藤さんじゃないですか、という反論の後半は、吐息とか細い嬌声で途切れる。中から抜け出していった指の感触に、腰ばかりか肩までも震えてしまう。その反応に甘く笑った斎藤は、少しだけ声を低く落として囁いた。
「おまえも今日くらいは――諦めろ」
  両手で腰を持ち上げられ、まさかと思った瞬間には千鶴の身体は斎藤自身に貫かれていた。
「あ、あああっあ、あ……!」
  さほど慣らされてはいなかったものの、十分すぎる程に溶けきっていた場所は、急激に挿入された事による僅かな痛みと、それを上回る快楽を千鶴に叩きつけた。
  身体を前に倒したいのか後ろに倒したいのか自分でもわからないまま、体中を駆けめぐる嵐のような感覚に身を震わせる千鶴を、ぐるりと腰に回された腕一本が支えている。もう片方の手はといえば、好き勝手にあちらこちらに触れ回って更に千鶴を追いつめ始めていた。
  そんな状況で、自分で動けるかと問われて頷けるはずもなく、首を左右に振ることで答える。その回答は斎藤自身もわかりきっていたらしく、だろうなとあっさり返された。
「ならばやはり、俺が動くしかあるまい」
  もっともらしくそう呟くのは、一体何への、誰への言い訳なのか。
  身体を重ねる時に千鶴自身が動く手ほどきを受けた事もないではないが、もはやこうなってはそれが不可能であるのは、それを教えた斎藤が誰より一番よく知っているはずだ。
  わかっていながら問い、そして千鶴が出来ないというから仕方ないのだと、そんな風に言うのはずるい。けれど抗議の言葉を組み立てることすら今の千鶴には難しいのだ。
「おまえは、【もの】ではない。だから【俺のもの】として扱うつもりはない」
  鎖骨から首筋、顎へと手のひらを擦りつけて肌の感触を味わった後、千鶴の顔をもう一度己に向けさせた斎藤は、唇に吸い付いてから熱を持った瞳で――笑った。
「だが今日は、好きにさせてもらう」
  許可は先ほど、おまえから直接貰った。
  そう嘯いて、斎藤は千鶴の上半身を布団の上に押しつけた。
  体勢が変わったために己から僅かに抜け出して行ったものの感触に震える背中に唇をよせ、再び隙間無く触れ合うために腰を進める。
「今日から、おまえは【俺の妻】なのだからな」
  ぴたりと身体がかちあった事で高く啼いた千鶴は、あられもない体勢で行為を続けようとする斎藤に抗議する間もなく、数度突き上げられてそのまま上りつめた。
  待たせたな。
  もう何度目かのその台詞を、千鶴は快楽に溶けきる寸前の意識でかろうじて掴み取った。

 そういえば、無理はさせないと言ってもらったのではなかっただろうか、と思い出したのは、翌日にとうに高くなっている日を布団の中で見上げた時だった。











--END.

Comment:

野原亜利さん(@ぐりん)から頂きました。
「待たせたな」の言葉は私に対するものだと思います。うん、待ったよ!
お互いにリクエストしあって(…)(見るなよ。俺を見るなよ)頂いたものですが、
何を書いても蛇足になりそうなので控えます笑

野原さんありがとうございました!!!!!!!


20090402


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