あの事件があってから私は、おばあちゃんの家で叔父さんと3人で暮らすことになった。
あの家ではもう暮らせない。同じように、あの学校にはもう、通うことは出来ない。
どこから漏れたのか、事件のことはあっという間に学校中に知れ渡り、それこそ見事な尾ひれやらはひれやらがくっついていたし。
まあ、別にいいんだけどね。
付き合っていた人がいた訳でもないし、それほど仲が良かった友達がいるわけでもないし。
(……雪乃)
そこまで考えて私はふと、雪乃のことを思い出した。
雪乃。小学校からずっと一緒だと思っていた、私の親友。
私の、シロウサギ。
「アリス?」
「ううん、なんでもないよ、チェシャ猫」
2階の一室を自室としてもらい、前の家から持ってきた勉強机の前に座りながら、膝に抱えた灰色の猫の頭を撫でる。
チェシャ猫は、相変わらず頭だけの状態だ。身体が砕け散ってしまったのだから、当然と言えば当然なんだけれど。
「ねえチェシャ猫」
「なんだい、アリス」
「チェシャ猫は、お腹、空かないの?」
私はずっと抱えていた疑問を口にする。不思議の国で一緒にいた時も、こうやっておばあちゃんちで一緒に暮らすようになってからも、チェシャ猫がお腹を空かせているところを見たことがない。
身体がないのだから、自分で捕りに行くことも出来ないだろうし、かといって何かをリクエストされたこともない。
まあ、ネズミを捕って来いとか言われても、困るんだけど。
「猫はお腹を空かせないよ」
「そ、そうなの?」
「そうだよ」
「で、でも、その、例えばネズミ、とか」
「ネズミを食べるのは、四本足の猫だけだよアリス」
チェシャ猫は相変わらずのにんまり顔でそう言う。そもそも、四本足じゃない猫を私はチェシャ猫しか知らないわけだから、そんなので常識を問われても、困る。
「えっと、じゃあネズミはともかくとして……本当に何もいらないの?」
チェシャ猫は何も答えずに笑ったままだ。
私は思わず腕組みをしつつ、そのにんまり顔から何かを探ろうとしたけれど無駄だった。
そしてある事に気付く。気付かなかった方が良い事に気付く。
『アリスは美味しいよ』
ハリーや絆創膏親方に食べられそうになった私に向かって、チェシャ猫までもが言い放った言葉。
それを思い出し、私はがたん、と音を立てて慄いた。その弾みで、膝の上にあったチェシャ猫の頭が床に転がりそうになって、慌てて腕を伸ばす。
「わ、わたっ、私は駄目だからねっ!?」
「何がだい、アリス」
「お腹が空いてもっ、私は食べちゃ駄目だからねっ!」
心持ちチェシャ猫の頭と距離を置いて、フードに隠れて見えない顔に向かって強く言い聞かせる。見慣れたはずのチェシャ猫の黄色い尖った歯が、なんだか急に恐ろしいものにさえ見えてきてぶるりとした。
「アリスがそれを望むなら」
「望む! 望むから、食べちゃ駄目」
チェシャ猫はにんまり顔だ。……油断できない。
このにんまり顔にも大分なれたつもりでいたけど、やはり越えられない常識の壁というものが時々私の邪魔をする。勿論チェシャ猫は大好きだし、大切な友達だと思うけれど、ふと言葉を間違えようものなら大変な目に会いそうな気もする。そういう意味では油断ならない。
「明日から学校、かあ」
気分を切り替えるように呟いた言葉は、別の意味で私の気を重くした。
もとの場所から大分離れているし、あの事件を知っている人はいないだろう。そうはわかっていても、やはり気は重い。
(雪乃がいたら……なんて言うかな)
雪乃はシロウサギだとわかった今でも、失った親友の存在の重さは私を苦しめる。
雪乃みたいな友達が、私に出来るだろうか。
そもそも、友達を作ることが出来ないから、シロウサギは雪乃の姿になって私の側にいてくれたんじゃないの?
だとしたら、新しい学校で友達なんか、作れないんじゃないだろうか。
そう考えれば考えるほど私の中で不安は広がっていき、胸を重くする。
「アリス」
チェシャ猫の声にはっとする。
「だっ、大丈夫! 大丈夫だから、だめだよチェシャ猫。約束したでしょう?」
「でもアリス」
「でもも何もないの。言ったでしょう? 私、チェシャ猫があんな風に砕けるのなんて、見たくないんだから」
私の不安や悲しみ。憎しみや恐怖。
生まれる負の感情を彼らは吸い取ることで安寧を私にくれる。けれど、そうしたものは彼らの中に留まり、凝り、やがて歪みとなる。
そしてその歪みはいつか彼ら自身の歪みとなって――壊れてしまう。
わたしは膝の上の猫の顔を持ち上げて、ぎゅう、と抱きしめる。こんなときでもやっぱり、灰色のフードはぴくともずれない。
うずめた鼻先に届く、すっかり慣れ親しんだケモノの臭い。
「……安心する」
「僕は何もしてないよ?」
「うん……でも、安心するよ、チェシャ猫」
チェシャ猫は理解できないと言った様にもぞりと一度だけ動く。私はそれがおかしくて、愛しくて、ふふ、と笑みを零した。
「もう少しだけ、こうしててもいい?」
「僕らのアリス。アリスがそれを望むなら」
チェシャ猫の頭を包み込んだまま、猫の襟足をさすれば、ぐるぐると喉を鳴らす音が聞こえる。
「ありがとう、チェシャ猫」
「アリス。アリスが僕たちにお礼を言うのは間違ってるよ」
猫はそう言う。私は返す。
「うん。じゃあ」
じんわりと伝わる温もりに、心地よく目を閉じて。
「幸せになるからね」
大切な大切な、あなたの為に。
大好きな、不思議の国の住人達の為に。
END
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Comment:
チェシャ猫とアリスのやりとりがたまらなく大好きです。
本当は転校先にシロウサギというか、雪乃そっくりな子がいて、
彼女と親友になる話とかいいなあ、と思って書き始めたのですが
気付いたらこんなんなってました。
20080402up
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