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●Blue eye |
「トラ?」
がさり、と茂みをかき分けるような音と共に自分を呼ぶ声がして顔をあげると、暫くの後に見知った人物が顔を覗かせる。目が合うと、眉根を寄せて一瞬足を止め、ついで深々とため息をつきながらこちらへ近寄ってきた。
「やっぱり。こんなことだろうと思ったわ」
はい、と、差し出されたハンカチはご丁寧にも濡れている。トラ、と呼ばれた赤毛の少年は、サンキュな、と例を言うとそれを受け取った。
「あなたを探していたら、あなたがこっちの方へ誰かと行くのが見えたって聞いたから」
「あー」
ハンカチを差し出した少女――撫子は、校舎に背を預けるようにして座っていた寅之助と目線を合わせるようにしゃがみこむ。そして見当違いのところを押さえている寅之助からハンカチを取り戻すと、彼の傷が痛まぬようについた泥を落としてやった。
「負けたの?」
「は? 馬鹿言え。返り討ちにしてやったっつーの」
「それにしては、いつもより怪我が多いわ」
「人数が多かったんだよ。中学を卒業する前に倒すだのなんだの、どこの女だっつーようなきっかけで喧嘩売ってきやがってよ。 おかげでここ数日休むヒマもねえ――っていってえ!」
「もててるようで何よりだわ」
「バカてめっ、人の話聞いてたかって、おいいてえっつうの!」
寅之助の言うとおり、ここ最近喧嘩の数が増えている。元々良く分からない理由で絡まれることも多いが、断ったり逃げたりしないせいで更にエスカレートしているようが気がする。
長年の付き合いで気を揉んでも無駄だということは承知しているが、それにしたって心配はするのだ。なのに、そんな自分の心配を無視されたような答えにむっとし、撫子はあえて強めにハンカチで傷を押さえた。
「今更言ったってどうにもならないって知ってるけど、少しはしなくてもいい喧嘩は避けるとか、工夫してもいいんじゃないかしら」
「うるっせーなあ。耳タコ。オレが売ってる喧嘩じゃねーよ」
「それこそ耳タコだわ。買わなきゃいいじゃない」
汚れた面を裏返し、綺麗な面で汚れと血を拭っていく。眼帯の縁ギリギリについた傷もあり、気がつけば紐も緩んでいるようだった。
初等部中等部高等部と、エスカレーター式の学園は敷地もばか広く、目の届きにくいところなど数え切れないほどある。今回喧嘩の場所となったここもその一つで、校門で待ち伏せされたものの下手に外部の目につくよりは、と、寅之助が選んだ場所でもある。
卒業を間近に控えた真冬の今は、上を見上げても枯れ枝とくすんだ色の空しかない。吐く息は白く、無駄に傷も痛む。
「卒業ねえ……別に、何が変わるって訳でもねぇだろうが」
「同感だわ。でも、節目って言うのはあるし、あなたに喧嘩を売る人たちだってそういうことじゃないの?」
「人の迷惑も考えろっつー話だよな……ああ、んなもんいらねえ」
絆創膏を取り出そうとした撫子の動きを止め、寅之助は又一つ息を吐く。卒業。撫子たちと出会った頃は初等部の六年で、共に進学した中学での生活ももう三年経ったということか。
「お前も肝がすわったよな。大抵のことじゃ驚かなくなったっつーか。昔なんて、こんな怪我みたら真っ青な顔してたくせによ」
からかうような声音に、撫子が半眼で睨み返す。
「顔に出さない術くらい嫌でも覚えるわ。もし私が泣いたり怯えたりしようものなら、トラは手当てだってさせてくれやしないでしょ」
心配なんて今だってしてる。肝は確かに座ったが、寅之助が怪我をすることに慣れたわけでは決してない。
喧嘩を止めろといったところで聞きやしない。自分が代わりに戦えるわけでもない。なら、出来ることなんてこれくらいしかないから。
寅之助の金色の目が、ぱちりと大きく瞬いた。良くも悪くも予想を裏切ってばかりの「お嬢様」には大分慣れたはずだったが、いまだに不意をついて予想外の事を言ってくる。
「お前も変なヤツだな。お前みたいなお嬢様が、オレみたいなのと付き合うこともねえだろうに」
「自分でもたまにそう思うわ」
「ぶっ! わっかんねえなあお前」
ならさっさと離れればいいのに、と、寅之助が噴出しながら緩んだ眼帯を外す。殴られた時に眼帯の縁で頬を切ったらしく、何かを喋るたびに地味に痛むのが腹立たしい。
光に慣れさせるように、ぎゅ、と強く瞑ってからゆっくりと開かれた左の眼は、頭上に広がる空よりもずっと綺麗な色をしていた。
「いってぇなクソッ。あーったく、面倒なところ切っちまった」
手の甲でぐい、と傷を拭えば、乾きかけた傷が再びこすれて新たな血を流す。失敗した、と、苦々しい顔をしてふと撫子を見ると、何を見ているのか分からない眼差しで自分を見ていた。
「? おい、お嬢?」
金と青の瞳が自分を見る。自分が知っているのは、金の瞳。もう片方の色は、今日初めて見たはずの色。
「あーそっか。お嬢、これ見るの初めてだったよな」
「え、ええ……そう、ね」
思考がまとまらぬまま曖昧に返事を返すと、どこか気まずげに寅之助が襟足を掻き毟る。
「別に隠してた訳じゃねぇけど、これつけねえとクソ親父がすげぇうるさくてよ。忘れようもんなら容赦なくぶん殴りやがるんだ」
「な、殴る!?」
「ん? ああ、それこそ隣の部屋にまでぶっとんで、柱に背中ぶつけてようやく止まるっつーくらいだな」
とても想像できない親子関係に、撫子はただただ閉口するしかない。そんな撫子に、まあお嬢様には無縁の世界だからな、と、けらけらと笑い飛ばしながらなれた手付きで眼帯を青の瞳にあてた。
「? お嬢?」
「もう少し、見せて?」
撫子の指が眼帯に触れ、変わりに寅之助の指がそこから離れる。重力に従うように撫子の手の平に受け止められた眼帯は、音も立てずにそこにあった。
幼い頃から何かと殴られる原因にもなった色違いの瞳は、興味本位で触れられたいものではなかった。普段なら振り払う為に動くはずの腕は、けれど動かずにいる。
撫子の眼差しは、じっと青の瞳へと注がれる。それを通して何かが見えるのではないか、と、自分でも思ってしまうほど彼女の眼差しは真剣で、同時に何も在りはしなかった。
暫くして、撫子の瞳がふと落ちた。そしてゆっくりと眼帯が寅之助の手に渡され、なんとか聞き取れるほどのボリュームで「ありがとう」と告げてきて。
「綺麗ね。トラの目」
どこか泣きそうな顔で、そう言ってわらった。
吹いた風が、撫子の長い髪をなびかせる。戻った髪は、さらさらと肩を撫でて背に戻った。
「このままここにいても風邪を引くわ。今日は皆との集まりもないし、一緒に帰らない?」
「お嬢」
先に立ち上がった撫子を呼び止める。先ほどまでの儚げな印象はどこへやら、すっかりいつもの彼女らしさを取り戻してはいたが、寅之助の方は違った。
どこか遠くをみるような眼差し。ずっと当たり前にいると思った存在、在ると思った時間にふいに何かが滑り込んできたような違和感。
何? と肩越しに振り返る撫子を見つめる。節目、と呼ばれるものに乗っかるような形になるのは不本意だが、どうだっていい。
「お前さ、オレの女になれよ」
見開かれる、薄茶の瞳。映しているのは、間違いなく今の自分だけ。
その事実が無性に何かをかき立てる。彼女が見る何か、なんて知らない。あったとしても、強引にでもこっちを向かせてやる。
そう思いたい女は多分――こいつだけだと。
「いきなり、何」
「何って、告白してんだろーが」
「そういうことじゃなくて……! こっ、告白って、何」
「あん? お前が好きだってこったろーが」
「好っ……え、だって、トラそんなそぶり一度だって」
「ぎゃーぎゃーうるっせぇなあ。いいから端的に答えろ。YESかNOかどっちだ」
なんでこんなに偉そうなのかと思うほど不遜な態度で問われ、く、と唇を噛む。自分の内にある言葉にも形にもなっていない淡い何かが、今の一言で輪郭を浮き上がらせたような感覚に戸惑って、すぐに答えなんか出せるわけが無い。
後ろ手についた腕で身体をもちあげて寅之助が立ち上がる。出会った頃よりも高い位置にある金の瞳が、撫子を真っ直ぐに捕らえた。
「オレのモンになれ」
あなたが私のものになってくれるなら、の言葉は、果たして返事になったのだろうか。
寅之助が噴出す。伸ばされた手が、撫子の前髪を握りつぶすように頭を撫でる。
「っとに、かっわいくねえオンナ」
そしてそのまま、引き寄せられた。
二人の間に挟まれた冬の空気が、押し出されるように宙へと逃げる。濁った灰色の空からわずかに降り注ぐ陽の名残がきらきらと舞っているのが嫌に印象的で。
似たような光を見たと思った。今は失ってしまった、記憶の片隅で。
自分を抱きしめる腕の温もりと、自分が抱きしめ返した温もりは、その代わりに得たものなのだと何故だかわかった。
だから、零れそうになる何かを押さえるように、撫子はぎゅうと固く眼を瞑った。
Fin
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Comment:
トラが告白するきっかけが、撫子がトラのもう片方の瞳を見た時だったらいいなと思って。
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