** Happy C×2 **
 ●Catch up with you

 この先、又こんな穏やかな、泣きたいくらいに満たされた時間が訪れるかもしれない。
 けれど、もしかしたら今のこの時間が最後かもしれない。
 人工転生の影響で脳に損傷を負ってしまった終夜は、昏々と眠り続ける時間が日常のほとんどを占める。時折、泳ぐことに疲れた魚がふうと水面に上がってくるかの如く意識を覚醒させては、すぐに水底へと戻ることもあり、地上にいる撫子らと会話を持つこともある。
 終夜の手が伸びて、撫子の長い髪を撫でる。とても優しく、何回も何回も繰り返される動きは、寂しかった時間を埋めるには十分だった。
「前に目覚めた時から、どれ程経った?」
「8日よ。その前も同じ。更に言えば、その前は5日だし、少しずつだけれど間隔も短くなってる」
 最初の頃など、半月も目覚めないことだってあったのだ。それを思えば、今のこの状況は涙が出るほどに嬉しいと撫子は思う。
 目覚めた時全部が全部会話を出来る状態ではないけれど、一瞬でも終夜の目が開くのは嬉しい。綺麗な色の眼差しが見られるだけで嬉しい。
 贅沢を言えばきりがないことは知っていて、それでも今、こうして会話が出来ること自体が二人にとってみれば最高の贅沢だった。
「そう、か……。撫子、すまぬが水をくれぬか」
 半身を起こした状態で願われた内容に、言われた方の心臓が一瞬跳ねた。以前同じ事を言われた際の事を思い出して。
「み、水ね。わかったわ、少しだけ待ってちょうだい」
 あの時と違って、ごく自然な願いに違いない発言に勝手に動揺してしまう自分を恥ずかしく思い、撫子は努めて冷静に振舞った。 大体、水を飲みたいといわれるたびにあんな行為をせがまれてると勝手に変換していては、この先どうしていいのかわからない。
 枕元にあった水差しからコップに水を注ぎ、終夜に手渡す。否、手渡そうとしているのに、終夜は一向に受け取ろうとしない。
「? 終夜?」
 透き通る眼差しは真っ直ぐに自分を見ており、撫子は何か間違ったかと自分の手を見、言われたことを反すうし、改めて間違っていないことを確認する。終夜は水が飲みたいと言って、自分が水の入ったコップを準備して。
「あの……終夜?」
 戸惑う撫子を見て、終夜の目が細められる。
(う、嘘よね?)
 その様子に、彼女の脳内で先ほどの想像がむくむくと復活してくる。
 まさかまた、あの時と同じ事をしろと?
 押さえつけたはずの動揺が再び全身を支配し、一瞬で熱が生まれる。かっと熱くなった身体はあっという間に撫子の頬も耳も赤く染め、コップの中で水がはねた。
「じ、自分で飲めるわよね? だって身体だって起こしてるし、私が飲ませてあげる理由なんて……っ」
「クッ……」
「…………終夜?」
 思い切り動揺した撫子を前に、終夜が突然顔を伏せた。そんな彼から聞えたのは、明らかに噴出した声。
「かっ、からかったのね?」
「すまぬ。そなたが余りに可愛らしいのでな」
 他意のない依頼に勝手に動揺したのはバレバレだったらしい。終夜にしてみても最初からからかうつもりなど毛頭なかったのだが、撫子の瞬間的な反応をみて思わず、と言ったところだ。大体、隠し事などに向く気性ではなく、しかもその隠し事の内容を知ればこそつい意地悪をしてしまいたくなるのだ。
 努力の結果が全く実らなかった撫子にしてみれば、恥ずかしいやら腹立たしいやらでつい拗ねてしまう。意地悪、ともらせば終夜の唇は優しい声で「すまぬ」と繰り返す。その言い方に、撫子が弱いことを知っているように。
 わずかに掠れていた声が、水を飲んで本来の声音を完全に取り戻す。空になったコップを受け取ってもとの位置に置き、撫子は改めて終夜に向き直った。
「皆の様子はどうだ?」
「元気よ。今、零さんは楓と外に出てる。ここ最近は政府も主だった動きを見せてないし、有心会も同じ。前に報告した、各地で旗揚げしている小規模なレジスタンスが、近々第七地区で会合をするという噂はあるけれど、詳しいことはわからないわ」
 終夜が知りたいであろうことを、できるだけ簡潔にまとめて報告する。静かなこの隠れ家に、時計の音とその声だけが響いた。
 一通りのことを報告し終えてから、撫子はふと昨日起こった珍しい事象を思い出して目を輝かせ、改めて終夜を見る。今度終夜が起きたら、と思っていたその日が思ったよりも早く来たせいで、今の今まですっかり忘れていたのだ。
「あのね、虹が出来たのよ」
 終夜の目が、きょとんと見開かれる。期待通りの反応に撫子は嬉しくなり、言葉を続けた。
「昨日の……何時頃だったかしら。通り雨が降って、すぐに。かすかなものだったけれど、凄く綺麗だった」
「虹? だが、この世界で虹など」
「楓もそう言ってびっくりしてたわ。世界がこんな風に壊れてから初めてだって。だからね、少しずつだけれど、この世界も力を取り戻してるんだって思うの。毎日毎日同じ時間を過ごしていると変化には気付きにくいものだけれど、それでも確かに変わっているんだわ」
 元の世界でもそうそう見られるものではなかったけれど、見ることが出来るのはそれこそ当たり前だった。水と、太陽の光。それと角度。その条件さえ満たしていれば見ることが出来た虹。けれどこの壊れた世界では、その条件こそが揃わないことが多い。そもそも、条件が以前と同じだと考えていいのかも。
 まだ驚きを残したままの終夜の瞳を真っ直ぐに見ながら、撫子はその手をそっと握る。するとそれで我に返ったように、長い睫がふと揺れた。
「そうか……それは、私も見たかったな」
「きっと又出るわ。そうしたら、今度は一緒に見ましょう?」
 いいながら、今彼が考えているであろう事を先回りして言葉を続ける。握った手の甲を、そっと撫でながら。
「その時にあなたが起きてなくても、そうしたらその次に一緒に見ましょう。その時も寝てるようなら、その次でもいいわ」
 色素の薄い髪が彼の肩で揺れる。撫子を見る瞳の色も、同じ色。光の色。
「いつか、でいいから。私、終夜と一緒に見たい」
 それが明日でも1ヶ月後でも1年後だとしても。
 全く構わないのだと言外に告げながら、それが彼にとっての希望であって重荷にならなければいいと撫子は願う。自分が信じていることが、彼の信じるところの力になればいい。祈ることしか、今の自分には出来ない。
 両手で包んでいた彼の手が動き、指が絡まる。華奢な体格には似合わない大きな手。長い指。
 その指が、とても好きだと思った。
「そなたは、優しいな。そして強い」
「あなたほどじゃないわ。それに私は優しいんじゃなくて、欲張りなだけよ。虹を見られただけじゃ満足できなくて、あなたと一緒に見ないと嫌なんだもの」
 絡んだ指が動いて撫子の手をなぞる。くすぐったくて逃げるように動けば、追われて捕まった。そしてそのまま引き寄せられ、気がつけば撫子は終夜の腕の中にいた。
「すまぬな」
「何で……謝るの」
 つむじに落とされた終夜の響きには、複雑な感情が絡み合っていてそのどれもが自分の胸を締め付ける。謝って欲しくて言ったんじゃないのに、上手く伝わらない気持ちがもどかしくて苦しい。
「そなたは本当ならばあの世界で、普通に一生を終えるはずだった。普通の小学生として残りの半年を過ごし、中学にあがり、高校、大学と進学して……当たり前の生を、当たり前の思い出と共に過ごせる権利があった。だが、それを我々が……私が奪った」
 抱きしめられているせいで、撫子には終夜が今がどんな顔で話しているのかは見えない。けれど、決して笑顔なんかじゃないことくらいはわかる。
「ここに残ると、私の傍にいてくれると言ったそなたの覚悟を軽んじているわけではない。だが、その覚悟と気持ちに応えられるだけのものが、私にはないのがもどかしいのだ」
 自由にならない身体と記憶。撫子がこの世界に残ると決めた理由が自分自身であるというのに、その自分がこの有様だということが苦しい。
 記憶がなければ、自分が自分であるという証が立てられぬというのに、そうなれば彼女がこの世界に残った理由自体がなくなってしまうというのに、どうもならないもどかしさ。
 こうして自分の意思で、強く彼女を抱きしめることが出来るのもあとどれ程の間だろうか。それが増えるのか、それとも最悪これきりになるのかすら、自分にはわからない。
 だと、言うのに。
「それでも私は、そなたが傍にいてくれることを嬉しく思う。返せるものが何もないというのに、与えられるだけの身だというのに、傍にいて欲しいと願ってしまうのだ」
 どれ程あさましいのかと、苦笑に滲んだ声が撫子の耳朶をうつ。
 撫子は抱きしめられたまま頭を左右に振った。
「違うわ。それを言うなら、私が傍にいることでそうやってあなたが苦しむことが分かっているのに、離れられない私こそ酷い人間だわ」
 時計の秒針が刻む音がやけに部屋に響く。私達がどんな状況であろうと、一切乱れることなく時を刻むその音は、残酷なまでに心地よい音を立てる。
「傍にいたいと、願ったのは私よ。失った時間だって、奪われたんじゃないわ、私が捨てたの。両方を選べないなら、全部を選べないなら、私は終夜を選ぶ。そのことで終夜が苦しんだって、悲しんだって、離れたりなんかしない」
 言っているうちに鼻の奥がつんと痛んで声がゆれそうになったのをぐっとこらえてそれだけを言い切る。ここで泣いたりなんかしたら、終夜はもっと苦しむだろうから泣かない。
 そんな撫子の強さも、優しさも、終夜はわかっていた。だから抱きしめる腕に力をこめて想いを返す。言葉にしたらきっと、優しさの分だけ互いに傷つけあうとわかっていたから。
 この世界で過ごした24年と、人工転生をして過ごした14年の間に手に入れた思い出の、幸せなものだけを取り出して彼女が捨てた10年に当てることが出来たらどれほど幸せだろうと終夜は思う。
 一番多感な時期に得るべきであった経験の全てを得られず、危うい自我のまま一気に大人へと立場を変えられて、どうして彼女は己でいられるのだろう。そしてそのことに、どれ程自分が救われているかなど、万の言葉を尽くしても伝えきれない。
 こんなにも大切で愛しい存在が願うものは自分そのものだとわかっているのに、それすらも約束できないこの身が歯がゆくてならない。希望を捨てているわけでも全てを諦めているわけでもないけれど、撫子を愛しく思えばこそすぐにでも安心させてやりたいのに。
 彼女に与えられることもなく、自分で留めておくこともできずに消えていくだけの思い出という記憶。形あるものならば、受け止めて保存しておくことも出来ように。
「傍にいて、笑ってくれたら私は幸せなの。だから、笑っていてくれないかしら」
「……笑っておる」
 撫子の旋毛に頬をよせ、負担にならぬよう気をつけながらそっと重みを預ける。じんわりと地肌から撫子の熱が伝わって終夜の頬に温もりを分ける。とても、あたたかいと思った。
「私もそなたの笑った顔が好きだ。どんな表情をしていようとそなたのものであれば好ましく思うが、やはり笑っているのが一番良い。悲しんでいる顔みるのは、辛い」
 撫子の背にまわした片腕をあげ、長くまっすぐな髪を撫でる。彼女の心根そのままのまっすぐな髪を。
 身じろぎをした撫子にあわせ、ベッドがぎしりと鳴った。終夜が腕の力を緩めると、顔をあげた撫子とごく近い距離で視線が交差する。
 じ、と、透き通った真っ黒な瞳が自分を映している。見目は大人の女性のものでありながら、心根は魂がそうであるという以前に無垢な存在のまま。きっと撫子ならば、順を追って成長したとしてもこの眼差しの透明度を失わずにこの姿になったであろう。
 満天の星空を見上げているように、くらりと眩暈がしてその瞳へと吸い込まれそうになる。それでもいいかもしれない、と片隅で思いながら終夜は微笑む撫子を見つめた。
「私、笑っているでしょう?」
「……うむ」
「あなたが笑ってるからよ」
 まっすぐに、まっすぐに。
 向けられる眼差しと想い。それに声。
 幸せで胸が痛い。
「そうか、ならば私はいつも笑っていることにしよう」
 綺麗な笑みを終夜が浮かべて、穏やかさの滲んだ声で言う。その声があまりに優しくて、嬉しいのに胸が苦しい。
 初めて覚えた恋は、気付くと同時に愛になっていた。
 それはきっと、相手から向けられる想いが最初からそれだったから。
 恋しいのではなく、愛しいのだと。痛みと共にもたらされる幸せが教えてくれる。
「終夜?」
 背に回されていた腕がゆる、と降りたのに気付き撫子が名を呼ぶと、見つめていた瞳に睫の影が落ちる。
「すまぬ……母上や皆に、よろしく伝えておいてくれぬか」
「わかったわ」
 ベッドから身を起こして終夜の半身をささえ、横たわるのを手伝う。最後に髪の流れを整えて頭を枕に預けさせると、眼差しで乞われるままにキスを落とした。
 唇を離すと同時に目を開いたのは撫子だけ。
 カチコチと時計の音が響く。空気の動く音さえ聞えそうなほどの静寂。
 腕を伸ばして、自分のものよりも細いのではないかと思う、やわらかな月の光色の髪をそっと撫でた。
「又ね、終夜」
 約束どおりに撫子は微笑む。
(だからきっと、又笑ってね)

















Fin



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ペーパー用に書いたら思いのほか長くなってしまったのでサイトに。


20101228up



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