「あらあら。終夜とケンカでもしたの?」
彼女の後を追うようにキッチンへと入った私の顔をみて、零さんがいたずらっぽく笑う。
先に終夜の家に御邪魔していた私達のお茶が冷めていたのに気付き、仕事から帰って来た零さんが「いれなおすわね」とコートを居間のソファにかけてキッチンへと向かってくれた。本当なら、私がすべきことを零さんがしてくれることを申し訳なく思ったから、というのも事実だけれど、それ以外の理由があって追ってきたのも確かだ。
すっかり元気になった零さんは、芸能界への復帰はせずに普通の一般人として生活を送っている。けれど、彼女の持つ雰囲気は相変わらず華やかで、こんな風に何気なく笑っただけでも空気が変わる。
華やか、と言っても派手なわけではなくて、なんていうか、場の空気を明るいほうへと変えてくれる、そんな笑顔だ。
その笑顔と今自分が胸に抱えているもやもやがあんまりに違いすぎて、少しばかりバツの悪さを覚えながら私は首を左右に振る。ケンカなんて、そんなものじゃない。
「そんなんじゃないです」
「あらそう? それにしては、あなたは頬がふくれているし、あの子もなんだか困っていたように見えたけど」
とっさに両手で頬を押さえた私を、零さんは噴出しながら見る。ほら、そんなにも素直なんだもの、と、馬鹿にするでもなく言われてしまえば反論のしようがない。
二脚用意されていたティーカップに、更に零さんの分もともう一脚追加する。すぐに意図に気付いた零さんが「ありがとう」と又笑ってくれて、ようやく私も笑顔になれた。
「でもお邪魔していいの? 普段ならともかく、今日はあなたたちにとって特別な日でしょう」
その言葉に、折角浮かんだ笑顔が又ひっこもうとする。のを、必死で繋ぎとめながら返事をした。
「ケーキを作ってきたんです。もし良かったら、零さんにも食べてもらいたくて」
「喜んで、と言いたいところだけど、本当にいいの?」
「……あの、出来ればいてくださったほうが嬉しいです。私、今凄く心が狭くなってるので」
つい零さんに甘えてそういうと、浮かべていた笑みをゆるやかに収めた彼女が真っ直ぐに私を見た。
彼女の向こう側で、ケトルがしゅんしゅんと音を立て始める。その口から白い吐息がゆるやかに漏れ始めるのを視界の端に映しながら、まるで独り言のように私は言葉を続けた。
「凄く、今更なんですけど」
「うん?」
「……終夜って、もてるんだなあって」
彼と知り合ってから、何年もの間の今日という日――バレンタインデーに沢山の贈り物をもらっているのは知っていた。
普通の学生と違い、直接渡すという方法の他、彼が属する事務所に送られてくるものも沢山ある。そして、年々その数が増えているということも私は知っていて、そして同時に、向けられる想いの質が変わっていることにだって気がついていた。
単に見目がいい、個性があって「好き」というだけでなくて、時折ふとしたときに垣間見れる、彼の優しさに向けられた気持ちは、純然たる「想い」だ。私が、終夜に対して持っているものと同じもの。
そして彼はとても優しいから、そういった感情を向けられることを嬉しく感じることも知ってる。特別な気持ちじゃなくて、ただ喜んでるんだってわかる。でも、なんだかそれがとても面白くない。
じゃあ、終夜がそういった気持ちを無碍にしたほうがいいのかと聞かれれば絶対にそんなことはなくて、誰の気持ちも大切にする彼をとても好きだと思うし誇らしくも思うけれど、同時になんだか言葉にならないもやもやが広がって困る。
(私、いつからこんなにわがままになったのかしら)
どんなときだって後悔しないように、できるだけ感情的にならないように。
気持ちに理屈をつけて割り切って、そりゃあ完全には割り切れないけど、少なくとも相手に向ける言葉にだけは気をつけてきたつもりだった。なのに、最近私はどうしてもそれを上手にすることが出来ない。
終夜が優しい人で嬉しい。でも、なんだか嫌。
終夜に人気があって嬉しい。でも、やっぱりなんだか嫌で。
かちん、と、細い指がコンロの火を消す。するとゆるやかにケトルの口が零す吐息は量を減らし、音も小さくなる。
「終夜の仕事はわかっているつもりですし、邪魔をするつもりもないんです」
「でも、あなたは終夜が他の女の子に騒がれるのは嫌なのよね?」
「嫌というか……なんなんでしょう」
途方にくれて思わず言ってしまった言葉に、零さんが噴出した。我ながら、今の発言はなかったと思うけど、それで余計に自分が途方にくれていることがわかってうなだれた。
「あなたは昔から大人びていたけれど、時折本当に小さい女の子に戻るのね」
あの子と付き合い始めて何年経ったのかしら、と、零さんはおかしそうにくすくすと笑う。
「なのに大人びたあなたが邪魔をするから、無理に言葉にしようとして出来なくて、顔にだけ出る。あの子は思ったままを言葉にしすぎて困ることがあるけれど、それであんな顔をしていたのね」
「う……」
「まあ、それだけじゃないと思うけど」
え? の問いかけは、カップに注がれるお湯の音に消される。白く湧き上がった湯気と共にカップは温められ、役目を果たしたお湯を一度捨てると麗さんが棚を見上げながら私に何にするかを聞いてきた。紅茶でいいかしら、の問いかけに頷くと、とっておきなのよ、と棚の奥の方から零さんが四角い缶を取り出す。
「親馬鹿かもしれないけど、あの子、多分あなたがそう思っていることはちゃんとわかってると思うわ。あなたがちゃんと応援してくれていることも、だけど恋人として寂しく思う気持ちも、その二つに葛藤してるってことも」
「それはそれで複雑です」
「あらいいじゃない。あなたは女の子なんですもの。男なんてね、女のわがままで振り回して丁度いいくらいなのよ。まああの子の場合は、大抵のことは悟る機微もあるし、そうじゃない場合はあさっての方向に行くから大変といえば大変でしょうけど」
自分の子供に対してとは思いづらい容赦のない評価だけれど、その通りすぎて笑ってしまう。
会話をしてる間に十分蒸された茶葉は綺麗な琥珀色を生み出し、ティーカップへと注がれていく。僅かに柑橘系の香りがするそれにくん、と鼻をならすと、オレンジピールが入っているのよと零さんが教えてくれた。
「だから、大抵のことじゃ困らないからうんと困らせてやりなさい。何かあっても、私が撫子ちゃんの味方をしてあげるから」
笑うとほんの少し、目尻に入る笑い皺が零さんを可愛らしく見せる。そういう時の眼差しは終夜を思い出させて、改めて零さんと終夜が親子なんだって実感させられるからなんだかくすぐったい気持ちになった。
「でもね、あの子の人気にはあなたにも責任があるのよ?」
「え? 私、ですか?」
「そう。あなた」
注ぎ終わったのを確認してトレーに手を伸ばした私を制して、零さんが紅茶を運ぶ。歩き出す彼女の斜め後ろについていきながら、どうして私が関係あるのかとわからずにいたら、ほんの少しだけ肩越しに私を振り返り、やっぱり零さんは笑う。
「あなたの存在を隠しもせずに公言するものだから、その一途さがいいって言う女の子が増えてるのよ。だからこそあの子に向けられる気持ちが真摯になるから、あなたは複雑でしょうけど」
思い当たる節があり、私は言葉を失う。
以前雑誌のインタビューでそんなような記事を読んだ時、あまりに堂々と恋人――つまりわたしなのだけれど――の存在を公言していたものだから、仕事に支障がでるかもしれない、と言ったこともある。
元々周囲に交際を隠してはいなかったけれど、私達の事を知らない人たちにまで広げることはないんじゃないかと。
けれど終夜は心底不思議そうな顔で何故だと問い返してきた。悪い事をしているわけでもないのなら、誰に対しても嘘をつくつもりはないとそうはっきり言い切られてしまってはそれ以上何も言えなかった。
それに、終夜がそう言ってくれたことが嬉しくないと言ったら嘘になる。結果、こうなってしまったとしても、もし終夜が私の存在を隠していたらいたで別のジレンマが生まれていたことも確かだし、だからもうこれは、私のわがまま以外の何ものでもない。
(わかってはいるのよ)
零さんの後について居間に向かいながら、どんな顔をすればいいのか困る。今日は終夜と会ってからずっとこんな調子で、折角のバレンタインだというのに笑顔のひとつも終夜に向けられていない。
この家にあがった途端、事務所から配達で届けられた贈り物の数々が目に留まり、それからずっとこんな調子だ。一昨年より去年、去年より今年、その数が増えれば増えるほど、私の笑顔も複雑なものになってとうとう笑えなくなった。
自分がこんなにも心の狭い人間だったなんて、情けなくてがっかりする。こんなんじゃ、終夜に呆れられたって仕方ないじゃない。
「お茶が入ったわよ」
居間にいた終夜がその声に顔を上げる。三つならんだティーカップを見て「母上も一緒か」と言ったその顔からは、彼がいまどんな気持ちでいるのかを伺い知る事は出来なかった。
「ケーキを頂いたら退散するわ。心配しないで頂戴」
「母上は空気を読むことに長けておるゆえ、何も心配しておらぬ」
「あらあら。上手い返し方ね」
終夜と私が向かい合って座る形になり、その間に零さんが座る。持ってきたケーキを食べやすい大きさに切り分けて借りたお皿に載せると、その横に零さんが紅茶を置いてくれた。
「終夜も幸せ者ね。こうして毎年、バレンタインを祝ってくれる相手がいるんだもの」
からかう響きを載せるでもなくさらっと発せられた言葉に私が反応するよりも早く、終夜がこくりと頷く。
「毎年毎年、時間を重ねるたびにこの身の幸せを実感する。母上がいて、彼女がいて、幸せそうに笑っていてくれるだけでなく、私の傍にいてくれるのだ。これ以上の幸せはないと心から思う」
穏やかに口元に浮かんだ笑みと、僅かに寂しさのようなものが滲む目許はどこまでも透明な空気を孕んでいる。
終夜の手が銀色のフォークを取り、私のケーキを一口大に切って口へと運ぶ。飲み込んだ後に私を見、ゆるりと頬を弛緩させた。
その視線があまりにまっすぐで透明で、私は自分が恥ずかしくなって視線をそらす。知ってるわ。ちゃんと、終夜がまっすぐ私だけを見てくれているって。
このもやもやした気持ちだって終夜のせいなんかじゃない。私が終夜に向ける気持ちはいつだってプラスのもの。大切で、大好きで、ずっと一緒にいたいただ一人の人。
「そなたの作ってくれるものは、いつも優しい味がするな」
笑うことができないままの私の前で、終夜がそういって微笑む。優しいのは終夜の方だわ。いつだって、そう。
「良かったわ」
それだけを言って私は紅茶を飲む。オレンジの香りが鼻腔をくすぐり、なんだか胸がぎゅっとなった。
「ご馳走様。撫子ちゃん、お料理どんどん上手になるわね」
「あ、ありがとうございます。お口に合いましたか?」
「勿論」
向けられた笑顔にほっとして、私も笑う。すると零さんは、空になったお皿とまだ飲みかけのティーカップを持って立ち上がってしまった。
「じゃああとはごゆっくり。お邪魔虫は退散するわ」
「え、そんな、もっとゆっくり――」
「母上は決して邪魔でも虫でもないが、後で又声をかけるゆえ暫しそうしてもらえるとありがたい。少し、撫子と話がしたいのでな」
止めに入った私の声にかぶせるように終夜がそういうと、零さんはおもしろそうにくすくすと笑って「はいはい」と居間を出て行く。本来ならこの家に一番縁遠いはずの私のせいで零さんを追い出してしまったようで落ち着かずにいると、終夜がさらりと髪を揺らしながら首をかしげた。
「撫子。ケーキがちっとも進んでおらぬぞ」
「え? あ……」
「いらぬのなら私が食べるが」
「食べたいなら、新しいのがまだあるわ。半分くらい残ってるから、良かったらあとで又零さんと食べて」
促されるように自分のケーキにフォークを刺して口へ運ぶと、程よい甘さがじわりと広がる。
「うまいであろう?」
「……そうね」
でも、なんでそれをあなたが言うのかしら。
微妙な心地になりながら二口目を食べ、又紅茶を飲む。チョコレートの甘さに、オレンジのさわやかさが丁度いい。
(ほっとするわ)
とっておきなのよ、と笑った零さんの顔が浮かぶ。カップに唇をつけたままそっと終夜を覗き見れば、相変わらず穏やかな、嬉しそうな顔でこっちを見ていた。
「撫子の作るものは、世界一おいしい。味もだが、なんというのだろうか、口にした途端優しい気持ちになるのだ。きっと、作り手の心根が料理にも出るのだな」
さんざん拗ねて終夜を困らせて、零さんに愚痴ってしまった身としては頷くことも憚られてしまう。終夜の場合、嫌味じゃなくて全てが本音だとわかるからこそ、居たたまれない。
「……困らせて、ごめんなさい」
両手でカップを包みながら膝の上に置き、視線はそこに注いだままでようやく私は謝罪の言葉を口にする。胸のもやもやは全部晴れたわけじゃないけれど、これ以上こんな雰囲気のまま一緒にいるのは耐えられなかった。
何よりも、折角の時間が勿体無い。
「そうだな。私は大層困ったぞ」
「悪かったわ。でも、別にあなたを疑ってるわけじゃないのよ。終夜の気持ちは信じてるわ」
「異な事を言う。そなたの気持ちを、疑ってなどおらぬ」
予想外のことを言われた、とでも言うような響きに顔をあげれば、そこには声音どおり不審げな顔をした終夜がいた。
「終、夜?」
「そなたはいつも正しくあろうとする。己の損得で物事を量らず、周囲にただ優しくあろうとする。そんなそなただからこそ、私は心から愛しく思うのだ」
細められた眼差しはその分だけ瞳を翳らせたはずなのに、まるで光を凝縮させたような強さで私を射抜く。彼の持つ儚げな色彩と相反するように、私を見る瞳だけがどんどんと強さを増して、胸が苦しい。
「今回の件にしても、私に贈り物をした見知らぬ誰かの気持ちを慮り、私の立場を考え、胸のうちに生まれた感情を押し殺そうとした。なれど、それを突き通せずにいた」
「だから、悪かったと思って――」
「私は、嬉しいのだ」
光が揺らぐ。強さを失わずに、だけど柔らかく。まろみを帯びて。
終夜の伸ばされた手が私の頬に触れる。頬を包んだその指先が、耳朶に触れた。
「優しいそなたが、己の気持ちを制御できぬほどに私を想ってくれているという事実が、ひたすらに嬉しい。そのせいでそなたが苦しい思いをしているというのに、だ」
自嘲にも似た笑みを零し、指先が私の髪を攫う。
終夜の見目が整っているのは昔からで、幼い頃よりも色気のようなものが出てきたのも知っていて、その上でずっと一緒にいたのに。
(どうして)
私はいま、動く事ができないのかしら。息をすることすら、上手に出来ないのかしら。
「機嫌を直してほしいと思う。が、それは別に誤解を解きたい訳でもそなたに笑って欲しいからでもない。いや、笑って欲しいのは確かだが……これ以上可愛いことをされると、私も我慢がきかぬのでな」
――そなたには、優しくありたいのだ
そういった終夜の声は、ほんの少しだけかすれているように聞こえた。
「……ずるいわ。そんな事言われたら、怒ることも笑うことも出来ないじゃない」
悔しくて睨めば、終夜が笑う。おかしそうな、だけどどこか申し訳なさそうな顔で。
そんな顔をするのだって、ずるいわよ。
終夜がテーブルの向こう側で膝を付き、腕を伸ばして私の手からカップを奪う。かしゃん、と僅かな音を立ててソーサーに戻されたカップを追うように動かした顔は、そうした人物の手によって主の方へと向けられた。
「だから、可愛いことを言うなというのに」
「そんなの、知らないわ」
顔が上向かされる。抵抗はしない。出来もしないし、するつもりもない。
角度が上がるにつれ、肩の髪が背へと流れる。さら、と音が聞こえて、私は瞳を閉じた。
「私が愛しているのは、そなただけだ。撫子」
落とされた囁きに、触れる直前に言葉を返す。
「そんなの、知ってるわよ」
続く想いは熱に溶けて。
ほんのすこし滲んだチョコレートの味が、なんだかものすごく、恥ずかしかった。
Fin
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Comment:
バレンタイン企画のお返事でぶわっと。ぶわっと。
こっちの零さんは小さい頃の撫子も知っているので、あえてちゃん呼びにしました。
気になる方がいらしたら御容赦を。
THE ONEと微妙にネタが被ってるのは仕方ないんです…よ…。
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