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●Sincerely |
帰りたくない、と彼女は言った。
とても大人の女性とは思えないような、子供のような泣き顔で。ああ、でも彼女は子供なんでしたっけ。
一番自分が知っているはずのことを思い出し、ビショップという役職をもっていた男は自虐的に笑う。
『彼女』を元の世界に帰して、再び深い眠りについた九楼撫子の身体を地下へ残し、彼は鳥籠を後にした。一瞬、その身体をどうするべきか迷ったけれども、あの状態を彼女を維持する事は、自分には出来ない。というか、意味がない。
自分が好きだと思った彼女は、決して彼女ではないのだから。
見上げた夜空は、相も変わらずにごった色をしている。けれど目をこらせば、こんな空でも星が見えると言っていたのは誰だったか。
鳥籠を出た後に合流した、兄を主体とするレジスタンスの隠れ家をそっと抜けて、見回りがてら散歩をする。暗い道は、ただでさえ視力の弱い自分には厳しいものがあるが、最早幼い頃からの慣れとも言うべき勘で、特に歩くのにも困らない。
「あれー、どうしたんですか、こんなところで」
不意に右前方からかけられた声に、円が機敏に反応を返す。その声から振り向かずとも相手が誰かはわかっていたが、相手がそうと思ったように、自分にとってもその人物がこの時間にこの場所にいることが信じられない思いだった。
「よう、裏切り者」
相変わらず左手にはめているカエルは、空気を読んでいるのか読んでいないのかわからない発言をする。あまりに変わらないそのいで立ちに、円は警戒を残しつつ自分に声をかけた人物との距離を詰めた。
「それはこちらの台詞です。いーんですか? 政府の重要人物が、護衛もつけずにこんな時間に歩き回って」
「だって、ボクがそういう位置にいるってことを知っている人なんて限られてるじゃないですかー。まあ万が一何かあっても、ボク逃げ足だけは速いんで」
大きな瓦礫に腰掛けたまま、そういって幼い顔立ちの元上司は長靴の足をぷらぷらさせて見せた。そうする姿は大層可愛く映るだろうが、中身と実年齢を知っている円にしてみれば、うんざりする以外の何者でもない。
「っていうかですねえ、あの人放置していくのやめてもらえませんかねー。面倒なんですよ、あれからずーっと塞ぎこんでまともに働いてくれませんし、困ってるんですよねえ」
「知りませんよ、そんなの。ぼくはもうそっちの人間じゃないんで。先輩が勝手になんとかしてください」
「おっとー。張本人が言いますねえ」
「オレは別にどうでもいいけどなー」
言葉を挟んできたカエルに、君だってめんどくさいって言ってたじゃないですかーと応酬する元上司を、円は黙って見やる。
一定の距離を保って足を止めた自分に、相手はもっと近くに寄れともそれでいいとも言わない。相変わらず、心中の読みにくい相手だ。
「彼女。眠ったままですよ」
笑顔のままで告げられた言葉に、一瞬心臓を素手で掴まれたような気がした。一度の瞬きでその衝撃をごまかし、円は「そうですか」とだけ返す。
「まあ当然ですよねー『中身』が帰っちゃったんですし。一度目覚めたことで何らかの刺激が生まれて、こちらの彼女も目覚めるかな、なんて期待もしましたけど、まあそうそう上手くは行きませんよねえ」
「言っておきますけど、もう一度同じ事をしようとしても無理ですよ。彼女の身体はあの人工転生で限界です」
「牽制ですか」
「事実ですよ」
細い眼差しで射抜くように見下ろしたところで、相手の表情は崩れもしない。否、円の発言が面白いとでもいうように、機嫌が良くなっているようにも見える。
けれど。
「君は思った以上に『いい子』だったんですねえ。彼女が欲しいなら、もっと傲慢になればよかったのに」
口調こそいつもの砕けた感じではあったが、その声音は普段と違っていた。傲慢になればよかったのに、と口にした時に彼の瞳に浮かんだ、暗い炎の様なものの正体は一体何なのか。
「ぼくはこれ以上ない程、傲慢ですよ」
「おやおや〜、そうですかぁ?」
意外、を装った態で元上司が笑う。どこか馬鹿にしたようなその笑みも、特段癇に障るものではなかった。
「そうですよ。じゃなきゃ、あの人を帰す訳ないでしょ。ぼくはぼくの好きにした、それこそあの人を泣かせてまでね。これ以上の傲慢なんて、あるわけないじゃないですか」
一緒にいたいと望んで涙を流してくれたあの少女を、自分は拒んだ。
無理矢理に連れて来て無理矢理に返した。最後は納得してくれていたけれど、あの自分を見た眼差しを忘れることは一生ないだろう。気丈に振舞いながら、殺した声で泣いていた彼女の眼差しを。
「君は、彼女を好きだったんですよね?」
「そうですよ」
だけど。
「それ以上に、大切だったってだけです」
恋だとかなんだとか。形にはめる言葉なんてどうでもいい。
思いやりなのか優しさなのか、自己満足なのかすらどうでもいい。ただ、彼女だけが大切だった。
――だから、帰した。
「傲慢でしょう?」
ふ、と唇の端だけで笑ったのは、誰に対してだろう。
レインは黙ったままその笑みを受け止めて苦笑する。腕にはめたカエルは、珍しく何も喋らない。
「傲慢と言うか……難儀な性格してますねえ君も」
まあ人の事は言えませんけどー、の言葉には頷きもせず、円はレインに問いを続けた。
「で? 脱走した裏切り者のぼくをどうしますか? 捕まえてキングの下にでも連れて行きますか?」
「まさか。確かに君に抜けられたのは痛手ですけど、そこまであのひとに義理立てする必要もありませんしー? 大体、大人しく捕まるようなタマじゃないでしょ?」
「当たり前です」
「ボク、肉弾戦嫌いなんでー。今日はちょっとお話してみたかっただけですよ。可愛い後輩がどうしてるかなーってこれでも心配してましたし」
「胡散臭いことこの上ないですね。あなたが心配なんてするタマですか」
「あはは、ひどいなあ。これでもボク、お兄ちゃん属性なんですけどねえ」
「気持ち悪いから止めてください。兄は一人だけで十分です」
どんな悪い冗談かと薄ら寒くなり、両腕を擦る。そしてこれ以上話すことなどないと踵を返した背中に、相変わらず緊張感の無い声がぶつけられた。
「君の時間は止まらない。大丈夫、ボクが保障しますよ」
円の足が止まる。靴の下で、砂利が鳴いた。
「君はキングとは違う。もちろん、ボクともね。どれだけ今君の胸が痛んでも、これ以上辛いことなどないと思っても、時間が経てばそれらは全部薄れます。それこそ、憎らしいほどにね」
「別に痛んでなんかいませんよ。ぼくはぼくの望むことをしただけですから」
「それはそれは」
こちらに背を向けたままの彼の表情は、いまどんな色を浮かべているのだろう。
レインはただじっと、薄闇に影を濃くする白いファーの背中を見る。初めて会った時から苦労ばかりしている子だった。口の悪さばかりに意識を奪われるが、屈折しながらも真っ直ぐな子だった。
(だから、嫌いじゃなかったんですよ。君のことも――彼女のこともね)
「じゃあ、ボクが覚えててあげますから、君は忘れてしまいなさい」
不器用な彼は、きっとずっとその痛みを覚えているだろう。彼女の幸せの為に傲慢になった青年は、それが本当は優しさと呼ばれるものだということを知らない。
容貌に似合わぬ生真面目さを持った彼だ。ならば、忘れてしまえとレインは思う。
「『彼女』は本来、この世界には存在し得なかった人間です。君が覚えた感情も、幻だと思えば楽でしょう」
ぴくりとも身動きしなかった肩が、盛大なため息と共に下がる。そして気だるげな動作で、鳥篭から逃げ出した白い鳥が振り返った。
「馬鹿にしてんですか、あなた」
今までに何度か向けられた、呆れを含んだ侮蔑の目とは違う。心からの怒り。
向けられたほうの口元が、僅かに緩く持ち上げられる。
(やっぱり、君ならそう言いますよね)
真っ直ぐで馬鹿正直で、愚かな子。だけど――とても強い。否、強くなったのだろうか。
自分やあの孤独な王とはどこまでも違う、生きた時間を歩いていく人種。
「馬鹿になんてしてませんよ。心配してるんです、これでも」
「だったら余計な心配です。っていうか、何なんですかあなた。気持ち悪いんですけど」
「えーひどいなあ。っていうか円君、組織から出た途端なけなしの遠慮すらなくなりましたよねーボク傷付いちゃうなあ」
「もうあなたは上司じゃありませんから。っていうかほんとそれ何なんです、もうぼくのことは放っておいて下さいよ」
まさか彼が彼女を手放すとは思っていなかった。たった一人で組織に乗り込んでくるような暴挙をおかしておきながら、あっさり手放すだなんて。おかげで自分の計画も、随分とずれてしまった。
(そのわりに、なんでボクはこんな呑気なんでしょうかねえ)
彼女がこの世界にいなければ、自分の望みは叶わない。つまり、円が彼女を元の世界に帰してしまった時点で、自分の望みも断たれてしまったようなものなのだ。なのに、そうした目の前の人間に対し、特段の怒りや恨みも湧いて来ない。あるのはただ、己に対する無気力な許容だけ。
自分の傲慢さも、この程度だったのだろうか。
(別に、全員に不幸になってほしいわけじゃない)
ただ、くだらない世の中であればいいと思う。全てにおいて意味のない世界。だって、自分にとってはそうなのだから。
そして、幸せな場所できれいごとを言い放った神の寵児に、絶望を。
それさえ叶えられるのなら、出来る限り幸せだったらいいんじゃないかと思う。哀れなほどに誰かを思いやれる人間ならば。
こんな事を思ってしまうから、自分は神ではないのだろう。ただの人間。わかってる。だから何も出来ない。過去を取り戻すことも、未来をこの手で作ることも。
そのくせ半端に頭がいいものだから、知ってしまっている。抗うことの無意味さを。奇跡とは、その無意味なことの積み重ねにこそ起こるのだと、信じることにも疲れてしまった。
「若いっていいですよねえ」
「は?」
「いえいえー。歳を取るとね、諦めが良くてそのくせ意固地になるもんでしてねー」
とん、と、腰掛けていたがれきから立ち上がり、レインが笑う。
「まあどっちにしろ、忘れられそうにもないですけどねー。小学生の女の子に振り回された、二十歳過ぎの男の事なんてー」
「そういう言い方止めてくれませんかね。人を犯罪者呼ばわりしないで下さい」
「おやおやー。ボク間違ったこと言いましたー?」
童顔で歳が読めないわりに、賢しい眼差しを向けてくるレインに苛立ち、円が再び背を向けて歩き出す。せいぜい長生きしてくださいね、先輩。そう、憎まれ口を残して。
「君もせいぜい逃げ延びてくださいね、後輩クン」
聞こえても聞こえなくてもどっちでもいいと思いながら、レインはそう返事を返す。片手のカエルが、お前も大概不器用だなと言った言葉こそ、聞こえないフリをした。
彼は忘れない、彼女の事を。彼女と過ごした時間のことを。
そうしてずっと想い続けるのだろう。前に進みながらも、別の時空の過去にいるその存在を。
「だってねえ……もう一人くらい、覚えていてあげてもいいじゃないですか」
この世界では決して生まれるはずのなかった恋。それを育てて成就させるという選択肢もあったというのに、あの二人は「神」によるいたずらを拒んだ。
それぞれの胸にのみ残されるその記憶は、けれど片方は消えてしまう。撫子が抱えた想いは、彼女が戻った世界では存在しないものだから。
つまり円は一人で抱えていくのだ。二人の想いを。誰も知らない二人の間で生まれた様々な感情を、言葉を、温もりを、薄れていく恐怖に怯えながらたった一人で。
「めずらしーのな。どうした、なんか悪いもんでも食ったのか?」
「カエル君までそんなこと言うんですかー。全く、いやになっちゃうな」
「けっ、アイツも言ってたが優しいお前なんて気持ちわりーんだよ」
作り上げた親友の言葉に、レインが笑う。白い鳥が逃げ出した鳥篭へ歩き出しながら。
「優しさなんかじゃないですよ。ただの哀れみです」
「っとに根性歪んでんのな」
「あははー、ありがとうございますー」
「褒めてねえっつの!」
壊れてしまった世界の夜道は歩きにくい。転ばぬように気をつけながら、レインは歩く。雨の降り止まぬ、自分の決めた道を。ピンク色の長靴を履いて。
彼女は元気だろうか。そろそろ自分のことなど忘れてしまった頃だろうか。
「別に恋人でもなんでもないですけど、ボクも君の事は好きでしたよ。撫子君」
二度と喋る事のないストラップでも、彼女は傍に置いていてくれているだろうか。
「おい、とろとろ歩いてんじゃねーぞ」
「はいはい、全くうるさいなあカエル君は」
濁った空に、微かに見えるおぼろな月が影を落とす。
互いに違う方向へと歩き出しながら、円とレインの足元に出来る影の濃さだけは、同じだった。
Fin
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Commnt:
もちょっと円寄りの話だったのに、気がつけばどっちかというと
レイン寄りのお話になってしまいました。怖いよー。
お話を書いていて、レインの真意ってどこにあったのかな、どこまでを
本当に望んでいたんだろうと考えさせられました。
(全ルート同じ「レイン」だとして)
そのあたりも含めて、いつか書けたらいいな。
20110531
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