「……はっ、」
塊のような短い吐息を薄い唇から吐き出したのが、終わりの合図だった。一瞬遅れて腕の中でくたりと弛緩した撫子の柔らかい身体を抱きしめながら、円はその上に自分の身体を投げ出す。
撫子の肩口に顔を埋めれば、汗ばんだせいで彼女の香りが一層強く香る。うっすらと光る雫を舌先で舐め取れば、びくりとその身体が跳ねたのが分かった。
「なんですか、まだ足りないんですか?」
耳のすぐそばで聞こえた問いかけに、とんでもないと撫子は首を振る。足りないなんて、どの口が言うのか。
「そ、んなこと……思っても、ないくせに」
「ぼくとしては誠心誠意尽くしたつもりですけど、こればっかりは相手次第ですし、はっきり言ってもらわないと分からないですからねえ」
で、どうなんです? なんてしゃあしゃあと聞いてくる顔が憎たらしくてたまらない。なんで、肌を合わせたあとにこんな会話をしなければならないのか。
自分に覆いかぶさる男の身体をぐい、と押しやりながら、毛布を奪い取るようにくるりと巻き込んで背中を向ける。否、正確には向けようとして失敗した。互いに短い悲鳴のようなものを残して。
「……っ、あなた、馬鹿ですか」
「……自分でもそう思ったわよ……っ」
円の軽口に乗せられる形で日常を取り戻したが、身体の方は情事の名残を残している。ぶっちゃけてしまえば、繋がったままだ。
「もう、離して!」
動いてしまったせいで生まれた刺激が、双方の下腹部を再び挑発し始める。身体の反応とは、気持ちも体力も別問題だ。これ以上「続き」をされてしまっては、はっきりいって撫子のこれからの時間はゼロになる。
「わかりましたから動かないで下さいよ。それとも、これも作戦ですか? どうせならはっきりとわかりやすく誘っていただいたほうがぼくも嬉しいんですが」
「そんなはずないでしょう!」
真っ赤な顔の恋人を満足げに見下ろし、円がゆっくりと身体を離す。その際に短く漏れた声は自分を刺激するのに十分だったけれど、さすがに撫子も辛いだろうと自制した。
怒った顔のままで、くるりと自分に背を向けた撫子を、その背中から包むように抱きしめる。始めこそ抵抗を見せた恋人は、それ以上自分が何もしないとわかったのかやがて安心したように全身の力を抜いた。
撫子の長い髪を身体で踏み敷いてしまわないように注意しながら円は撫子を抱きしめる。それはとても気を遣う行為であったが、撫子の綺麗な髪は円も気に入っていたので邪魔だとは思わない。
指に馴染んで心地よい感触を確かめるように指先に絡めては解く。出会った頃よりはやはり痛んでしまっていたけれど、それでも美しいと表現するには十分すぎる髪だ。
「……円は」
「なんです?」
細い肩を手の平で包んでやりながら、几帳面に返事を返す。が、名を呼んだほうがその先を続けることに抵抗を見せ、しばしの沈黙がベッドを包んだ。
ベッドのスプリングに面していたほうの腕をてこにして、円が身体を持ち上げる。ぎしりと軋んだ音と共に体重が一点に集中し、その分だけ撫子の身体が円の方へと傾いた。
「言いたい事があるなら言ってください。気になるじゃありませんか。あ、先に言っておきますけど、別れ話なら聞きませんよ。あなたが今更逃げたいだとか馬鹿なこと言い出しても、ぼくはあなたを離す気なんて毛頭ありませんから」
「そんなんじゃないわよ、大体、別れたいならこんなことしたりしない」
「でしょうね、あなたの性格じゃ」
わかってての質問は、明らかに自分に否定して欲しいからで、まんまとその作戦にひっかかった自分が腹立たしくて仕方が無い。図らずも振り返ってしまった撫子の頭の左右には円の腕がおかれ、これではもう、顔をそらすことが出来ない。
「じゃあ白状してもらいましょうか。『こんなこと』した後にも関わらず、あなたの顔が不満そうな訳を」
ただでさえ細い目が更に細められる。まっすぐにその瞳を見つめることが出来ずに視線を上にそらせば、前髪の根元がうっすらと汗で光っているのが見えて、急激に心臓が暴れだす。恥ずかしさと共に湧き上がるのは愛しさで、だけど同時にどうしても消化出来ないもやもやも残る。
「…………の?」
「はい?」
聞えるはずのない大きさでした質問は、やっぱり聞えなかったらしい。もごもごと口の中で丸めた質問は、広げられることなくごくりと飲み込まれる。その硬さに、撫子の顔が一瞬しかめられた。
(やっぱり、こういう質問ってマナー違反よね?)
マナーなら色々と円に破られているけれど。そりゃあもうさらっとまるで当然のように破られているけれど。
だからといって自分まで同じ土俵にあがっていいという話ではない。それをしたら最後、相手を責めたり叱ったりする資格を自分は失う。
けれど今の状態からすると「なんでもないの」で済まされる事態ではないのは明白だった。円は焦れながら自分の言葉を待っており、このままいけば力ずくでもといった流れになるだろう。
「――っ」
思った傍から、円の指が耳の後ろを撫でた。身構えるよりも早く目の前の顔が近付き、耳たぶを食む。吐息が、耳に入る。
「ちょ、まっ」
「ええ、待ちますよ。だからごゆっくりどうぞ」
「ちがっ、円っ!」
頭の左右に置かれた片腕が、逃げることを許さないとでもいうように撫子の頭を抱え込む。もう片方の腕で撫子の左腕を押さえ、残りの右腕は自身の身体自体で反抗できないように押さえ込んでいる。要するに、撫子の逃げ道は何一つ残されていなかった。
信じられないほど丁寧な耳朶への愛撫に、身体がぎゅっと縮こまる。くすぐったいような気持ち悪いような、だけどそれだけじゃないのは生まれ始めた熱が答え。
「ねえ、お願い、本当に、まって」
途切れ途切れの懇願にも、円の動きはやむことがない。それもそうだ。そんな泣きそうな声で言われたって煽るだけだと、何回同じ事を繰り返せば彼女は学ぶのだろうかと円は思う。
撫子が何を思っているのか聞きたいけれど、先にもう一度彼女を味わうのもいいかもしれない、と、円が思考を変化させたのがわかったのかどうか、搾り出すような声が撫子の喉から漏れた。
「だ、から! いままでどうだったのかしらって思ったのよ!」
何がだからで、なにがどうだったのか、が全くわからず一度動きを止めると、これ以上押さえつけては腕が痛むだろうという本気の抵抗が見えて円が拘束の力を緩める。
途端、ば、っと撫子が自分から距離をとり、涙のにじんだ目で睨みつけてきた。
「だって! だって円慣れてるんだもの、いつだって私ばっかりおかしくなるんだもの」
「ちょっ、と、待ってください。あなた何言ってんですか」
「なによあなたが言えって言ったんじゃない、だから言ったんだわ、もういやよ、いつも私ばっかり恥ずかしい思いさせられて、今だってこんなこと言うつもりなかったのに!」
急に起き上がったせいで乱れた髪が、撫子の白い肌に散る。抜け目なくひっぱった毛布はしっかりと彼女の肢体を隠していたけれど、おかげでこっちが大変なんですけど、とは、やはり場にそぐわぬ反論のような気がして、円は胸にしまった。
どう見ても彼女は混乱している。というか、動揺している。うっかり手を伸ばそうものならひっかかれそうなほどに毛を逆撫でられては、一旦距離を置くしかない。
「小さいころはあんなに純真だったのに、可愛かったのに、どうしてそんなふうになっちゃったのよ!」
「確かに幼い頃のぼくは純真で可愛かったと思います。そこは否定しません」
「ひっかかって欲しいのはそこじゃないわ!」
最早自分が何を言っているのかわからない。ただ、恥ずかしいという感情だけが全身を占めている。円が珍しく強引に距離を詰めてこないことに後押しされ、撫子は更に言い募った。
「だって明らかに慣れてるもの、絶対、絶対」
(私以外の人にも、こんなふうにしたんだわ)
見も知らぬ誰かに妬くなんて愚かだと思う。けれど、恋なんて大概愚かだ。
今だけじゃ足りなくて、未来は当たり前に欲しくて、過去にだって手を伸ばしたい。伸ばせるはずがないと知って、駄々をこねる。こんな風になるのも自分ばっかり。
違う理由でにじみ始めた涙が悔しくて、毛布を頭から被った。涙を零すところも、拭うところも見られたくなんかない。
「……あなた、どんだけ意地っぱりなんですか。ぼくの前でくらい、素直に泣いたらどーです」
泣いてなんかない、と声に出したら本格的に泣き出してしまいそうでただただ頭を振る。毛布の中で髪の毛はぐしゃぐしゃだ。
しゃくりあげる声すら聞えず、毛布の向こう側から聞えるのは感情の高ぶりを吐息にまぜて吐き出す音だけ。本当に、どれほど意地っ張りなのかこの娘は。
「……あのですね、経験だけで言うならご想像通りですよ。別にぼくは、あなたが初めてって訳じゃありません」
想いを通わせたか否かに関わらず、それなりの経験をした。経験の為の経験もあれば、興味本位のものあったし取引のような関係すらあった。それは撫子のような潔癖な女性から見れば、嫌悪されても仕方のない類だ。
汗で乱れた前髪をかき上げて、ため息1つ。すると、毛布の塊がびくりと震える。全く、怯えているのはどっちだと思っているのか。
「こんな話聞いて楽しいですか? あなたがお望みなら、全部聞かせて差し上げますけどどーします?」
「……っ、ききたく、ないわ」
「奇遇ですね、ぼくも話したくありません」
冴え冴えとした眼差しで毛布の塊を睨みつける。全くもって面倒だ。いらいらする。こんなにも自分の感情を振り乱しておきながら、何を被害者ぶっているのか。今自分が持っているこの感情全て、ゼロから百まであなたのせいだって言うのに。
鍛え上げられた腕が伸びて、毛布の端を掴む。発作的に被った毛布は乱雑な包み紙に等しく、端をひっぱればあっという間に中身が姿を現した。
「酷い顔ですね」
髪が乱れて涙でぐしゃぐしゃの顔。睨む眼差しだけが爛々と光っていて、かみ締めた唇だけが赤い。
「泣いてる女はめんどーなんで嫌いです」
「だったらほっとけばいいで――」
「なのに、あなたはほっとけないから更に面倒です」
今までなら、勝手にしろとすぐに背中を向けられたのに。
反抗されないように手首を押さえ、眦にキスをする。ぎゅ、と硬く瞑られたせいで長い睫が唇に触れてくすぐったい。次いで頬のてっぺん、こめかみ、鼻の頭と、軽く音を立てながら口付けを繰り返していく。
抵抗する力が弱まったことを確認し、手を解放する。案の定、細い手は自分をひっかくことも、殴ることもなかった。
「ああそうだ、1つだけ教えてあげますよ」
唇を離して、15cmの距離をとる。ああ、この顔だ。今にも泣き出しそうな顔が、たまらなく愛しい。
「こんなにも優しくするのはあなたが初めてです。自慢していいですよ」
そしてこれからもこの一人だけで十分だと思う。こんなにも感情をかき乱される存在など、二度とごめんだというのは正直な感想だ。
初めて抱く身体ではない。けれど、初めて心を預けて抱いた身体だ。
押し倒した身体がベッドに沈む。若干の怯えを見せた眼差しは、けれどすぐに伏せられた。
伸ばされた手をとり、爪に口付けを。身体だけでなく気持ちもちゃんとついて来られる様に、キスも愛撫も飽きるほどに繰り返す。全く、こんな面倒くさいことを自分が誰かにするなんて思いもしなかった。
「愛情を疑われたのなら不本意ですからね。優しくしてあげます――さっきよりもね」
白い毛並みの猫が笑う。研いだ爪を今だけ隠して。
撫子の瞳が白い猫を映した。気まぐれで、わがままで、だけどとびきり甘えたがりの猫を。
「ごめんなさい、円の気持ちを疑ってるわけじゃないの」
相手の瞳に傷付いた色を見つけて、撫子の手が円の頭を優しく撫でる。
「悪かったわ」
どこまでも自分は子供なのだと思い知る。経験だけじゃない、中身が子供だったからじゃない、否、それも関係あるかもしれないけれど、だからってそれを理由に逃げたら駄目だ。
「あなたって、本当に嫌な人ですね」
折角人が虚勢を貼ったのに、簡単にそれを引き剥がして本当の気持ちを読み取ってくる。傷付いてなんかいない、不機嫌なだけ、と装ったのに、その無意識の装いすら突きつけてくるからたまらない。
「あなたなんて、せいぜいぼくに執着されててください。そうしたらさっきみたいな馬鹿な考えなんて二度と浮かばないと思いますから」
「それは……どうかしら」
「は? なんですかそれ、ぼくの愛情を馬鹿にしてるんですか?」
だったら痛い目みますよ、と、脅しではなく言い切った言葉を撫子はさらりと受け止めた。
「だって私だってあなたが好きだもの。好きなら、やっぱり欲張りになるわ」
跳ね返された言葉は自分から言葉を奪う。そして脱力した後に湧き上がる感情は。
「あなたね、少しは学んだほうがいいですよ」
「え?」
「自分の立場わかってます? これからぼくに何されるか分からないわけでもないでしょう。なのにそんな挑発めいたこと言って、ただですむと思ってるんですか?」
「ちょ、挑発って、え、ちょっと円?」
じりじりと詰められた距離に撫子の表情が固まる。これは、まずい。
「や、さしくしてくれるのよね?」
「あーさっきまではそんなことを思ったりしてましたね」
「何遠い昔みたいに言ってるのよ! ついさっきあなたが言ったことじゃない!」
「残念ですが1分だろうが一ヶ月だろうが過去は過去です。諦めてください」
「諦めろって、ちょ――うそ、でしょう?」
静かな部屋に、ベッドの軋む音が響く。
あえやかな声がそこに重なり、暫しの後に一切の音が消えうせる。
残るのはただ、穏やか過ぎるほどの寝息ふたつだった。
Fin
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Comment:
ツイッタ派生。
トラと円のあっち側は、きっと経験あるよねっていう話と、2/22はにゃんにゃんの日だよね、って、
言う。
……うん。
20110222up
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