見上げた夜空に星ひとつ。
「一番星だね」
赤と紺色が混ざり始めた空に、ほつりと目立つ白いひかりを指差して鷹斗が笑う。
夕暮れの温い風が撫子の髪を攫うように吹いては襟足を撫でる。自然と髪を手で押さえながら、撫子も同じ空を見上げた。
「今度学校で、林間学校に行くんだ。ここよりもずっと田舎の方に行くから、多分星も綺麗に見える」
「そう、楽しみね」
「うん。撫子が一緒じゃないのは残念だけど」
「仕事でしょう? 仕方ないわ」
その類の及ばない頭脳から、ゆくゆくは何らかの科学者になると思われていた鷹斗は、大方の予想を裏切って一切の研究から手を引き、今では一介の教師になっている。彼がその選択をしてからもう随分と時間が経ったけれど、今こうして、普通に自分の隣を歩いていてくれていることに、撫子はふとした瞬間に感謝したくなる。
鷹斗に限って、偉い役職や職業についたからといって自分やCZの皆と距離を置くとは思わない。けれど、負う責任が大きければ大きいほど自由になる場所も時間も限られてしまうのは、自分や理一郎の父を見ていれば容易に想像できることだ。
こんな風に互いの仕事のあとに気安く待ち合わせたり、のんびりと散歩を楽しんだり出来る事が、ただただ嬉しい。
「次は一緒に行こう。それまでに星の勉強もしておくからさ……って、そもそも林間学校に行く前に一通り調べておかなくちゃ、生徒に示しがつかないなあ」
「本屋にでも寄る?」
「ううん、今日はいい。次の休みにでも、探しに行ってみるよ」
「鷹斗は本当に真面目ね。理科の担当でもないのに、ちゃんと自分でも調べるだなんて」
足元から伸びる影が、周囲の闇に溶け込み始めると同時に街灯が目を覚まし始める。ぱちぱちと気だるげに瞬きをすると、歩くのに困らない程度の光を投げかけてくれた。
「んー……でも、一応クラスを持っている身だし、聞かれて答えられないのってかっこ悪いじゃない? 先生っていう肩書きがついている以上、聞かれたことには答えてあげたいって思うし、聞かれるだろうなってことが分かってるなら、尚更さ」
そう答える彼の手には、重そうな鞄が握られている。言葉よりも彼の姿勢を雄弁に語るそれを見て、撫子は相好を崩した。
「鷹斗みたいな先生に教われる子供たちは、幸せね」
「えっ、そうかな」
「ええ、そう思うわ。教えてくださった先生に不満があるわけじゃないけれど、あなたみたいな先生がいたら、色々聞けて楽しかったかもしれない」
素直に思ったことを口にすると、薄暗くなった今でも分かるほどに鷹斗の顔が綻ぶ。御世辞でも嬉しいよ、との言葉は、撫子にとっては不本意だったけれど。
「さすがに今のクラスに、君のような子はいないなあ。理一郎っぽい子もいないし」
「……いなくて良かったわ」
御世辞にも、あの頃の自分や理一郎が大人にとって扱いやすい子供であったという自覚はない。むしろ、反対の自覚ならある。思わず半笑いになっている撫子に気付いているであろうに、鷹斗は残念そうな顔付きだ。自分たちのようなとっつきにくい人種の人間に興味を持つ辺り、昔も今も変わってはいないらしい。
「君が俺の生徒だったら、きっと毎日楽しいだろうな」
「海棠先生?」
おどけて呼んだ声に、鷹斗は照れくさそうに笑う。何ですか撫子さん、と返して、これじゃ違うと二人で笑った。
「先生と生徒だったら、九楼さん、かな」
先生っぽくそう呼ぶと、恋人の眉が寄る。
「どう? 先生っぽいかな」
「え? ええ、そうね。すごく、先生っぽいわ。全然違和感ないもの」
呼ばれたことがあるような、ないような。けれど、親しくなってから彼はずっと撫子のことを下の名前で呼んでいる。九楼さん、などと呼ばれたのは、記憶にある限り鷹斗が転入してきた初日くらいだろう。
「君の事はずっと下の名前で呼んでたから、何だか新鮮だな」
――ね、九楼さん。
そう、ふざけて笑う。その鷹斗に、同じように先生と呼び返そうとして感じる違和感は何だろう。
「か……せんせい」
呼びきれなかった名前。
「もう大分暗くなってきたね。手、貸して?」
鞄を反対の手に持ち替えて、撫子に近いほうの手を伸ばす。その手を取って、ぎゅうと握った。
「鷹斗」
「ん? 何、撫子」
気がつけば、頭上には沢山の星。こんな空でも星は見えるのだと、教えてくれたのは誰だっただろうか。
「ここで見える星も、綺麗ね」
どこかに行かなくても、そう思えるきっかけは隣にいる人のおかげ。
「うん。君と一緒だからかな」
同じ気持ちだと、何も言わなくてもわかってくれる人のおかげ。
チョークの石灰で荒れた手が愛しい。楽しそうに今日の出来事を話してくれる声が好き。
並んで歩く二人の頭上に、星が又一つ増えた。
Fin
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Comment:
遠い記憶に。
20110423up
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