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●Uneasy |
自分の世界には、央と両親だけ。
彼らを守り、彼らの家族として恥じぬ自分でいられれば、それでいいと思っていた。
その世界が少しずつ開き始めたのは、小学の五学年も半分以上過ぎた晩夏の時だ。いきなり放課後に集まって課題をこなせ、という命を下され、初めて顔を見る面々を含めての時間は自分には全く無意味だと――そう、最初の頃は思っていた。
「円ー! 僕今日用事あるから、ちゃんと撫子ちゃんのことを送ってあげるんだよっ?」
元々学年が違うからクラスも違う、今となっては小学部と中学部ということで校舎ですら違うのだが、兄である央がわざわざ自分のクラスにまで顔をだしていきなりにそう叫ぶ。
央の行動がとっぴなのは今に始まったことではない。そのことは彼のクラスのみならず、何かと彼と行動を共にすることが多い円のクラスにおいても周知の事実だった。普通の神経であれば、誰かに頼んで教室の入り口まで呼び出してもらうとか、伝言を頼むだとかの方法を取るであろう。だがそれは、央には全く当てはまらない。
「わかりました。ですが、何故わざわざ央がそれを言いに来るのか納得いきません。忙しい央の貴重な時間をこんなふうに無駄にさせることは許されることではありませんし、そうならそうで、撫子さん自身が来るべきだと思います」
クラスメイトの視線など微塵も気にせず、入り口に立つ兄に近付きながら淡々と言葉を紡ぐ。そんな弟の言い分を耳にし、兄である少年は困ったように笑った。
「僕が今日一緒に帰れないって言ったら、じゃあ一人で帰るって言ったんだ」
「は? 誰が?」
「撫子ちゃん」
「…………」
だってどうしたって円の方が早く終わるし、央がいるならともかく、私の為だけに待たせるわけにはいかないわ。
そんな声が聞える気がして、表情の薄い円の眉間に皺が寄っていく。
「どっちにしたって、僕がこうやって連絡するまで円は残ってくれているわけだしって言ったんだけどね。円も円で忙しいだろうからって」
円が五年、央と撫子が六年。学年こそ違っても同じ「小学生」でいた頃はこんな問題など起こらなかった。当たり前のように一緒にいて、一緒に帰り、それはこの先もずっと続くものだと心のどこかで思っていたのに。
実際は思った以上に小学生と中学生の差は大きかったのだ。同じ敷地内とは言え校舎は別、授業の時間も別、部活こそ同じ種類であれば合同で行うこともあったが、自分と撫子らにその手の接点はない。
「……彼女はどこにいるんですか?」
「一応待っててって言ったから、いるとしたら正門のところかな?」
「わかりました」
淡々と必要な情報を兄から引き出すと、淡々と鞄を掴んで歩き出す。が、その速度は明らかに速い。そしてその小さな肩に、わずかながらの怒りがにじんでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「うーん……言い方がまずかったかな」
ぽりぽりとこめかみの辺りを指でかきつつ、若干の困惑を含んだ笑みで央が弟を見送る。自分と両親しか受け入れていなかった円の世界が広がるのはいいことだが、CZの他メンバーに対するそれと、撫子に向けるそれとはいささか――否、大分趣が違っていることを、弟自身は気がついているのだろうか。
「お兄ちゃんは応援するよ、円」
彼女と知り合って、円はようやく「個」を出し始めた。それがなによりも、自分は嬉しい。
だけどどっちかというと、応援が必要なのは撫子ちゃんの方かなあ、などと、妙に的を得た感想を抱きつつ、央は用事を済ませるべく廊下をゆったり歩き始めた。
●●
「おおい、英!」
背後から自分を呼ぶ声が聞こえ、円は胸中で舌打ちをする。自分が急いでいることが見てわからないのだろうか。
「おい、英って!」
聞えないふりをして逃げ切ろうと思ったのだが、肩を掴まれてしまっては仕方がない。努めて感情を面に出さないようにしながら立ち止まり、円は義務感たっぷりに振り返った。
「なんでしょう」
「おまえさ、合気道やってるって本当か?」
予想外の質問に一瞬回答が遅れる。それをYESととったらしい少年が、ぱ、と顔を輝かせて片手を顔の前に立てた。
「来週末に大会があるんだけど、助けてくんね? 一人怪我でぬけちゃってさ」
「お断りします」
検討の余地もないとばかりにすぱりと斬り捨て、では、と軽い会釈の後に再び歩き出す。まるでプログラムされたかのような無駄のない動きに取り残された少年は、けれど己を取り戻すと円を追いかけるように足を回転させる。
「そう言うなって! 頼むよ!」
「すいませんが、見ての通りぼくは急いでるんです」
「なんでだよ。おまえの兄ちゃんは今日一緒じゃねーんだろ?」
それ以外の誰のために急ぐのかと、言外に問われてぴたりと足が止まった。
「っと! お、おまえなあ、マイペースもいい加減にしろっつーの」
図らずも目標を追い越してしまう羽目になった少年がそうクレームをつけるが円の表情はぴくりとも動かない。
「お、おい? 英?」
「そう、ですね。確かにその通りです」
自分が動くのは央の為。他の誰かの為に、何かをすることはありえない。
こうして、央以外の誰かのために急いでどこかへ向かうなんてことも、ありえないはずなのに。
(じゃあなんで、ぼくはこんなに急いでるんでしょう)
早く早くと心が急く。向かう先にいるのは、央ではない別の人物だというのに。
知らず落ちた視線が、上履きのつま先を見る。けれど心が向かう先は、心根そのままの、まっすぐで綺麗な髪を持つ少女にだ。
「おいって、え?」
固まってしまった円を不審に思い、声をかけた少年が肩を叩こうとした瞬間に、それまで俯いていた円の顔が勢い良く上げられる。危うくぶつかりそうになり慌てて仰け反れば、自分の存在など始めからなかったとでも言うように円は再び歩き出してしまった。先ほどまでよりも、五割増しのスピードで。
「おい!」
「すみませんが先を急ぎます」
歩く。歩く。最早、走るに近いスピードで。
昔から合気道で鍛えた身体は、基礎体力も十分だ。だから、多少急ぎ足になったところで息など切れるはずがない。なのに、もう胸が苦しい。
(全く面倒です)
なんでこんな思いをしなければならないのか。自分が世界で一番大切な、家族以外の誰かのために。
秋霖学園は各校舎ごとに最寄の門が設けられているが、敷地全体としての正門が別に存在している。央が言っていた撫子が待っているとすれば、の場所はそこであり、円は昇降口で靴を履き替えると誰に遠慮するでもなく走りだした。
視力の弱い自分に、遠くの誰かの姿など見えるはずがない。走った距離と身近な景色からの距離を換算した結果、あのあたりがそろそろ正門であり、その近くにいる誰かが撫子であろうという予測を立てることは出来ても。
心臓がはねて、息が固まる。撫子の姿は見えないのに、何故か身体の方がその存在を認めた。
駆け寄る気配に撫子が顔を上げる。一年前は同じ位だった身長は、小学校と中学校という差を笑うかのように逆に開いた。
近付いた円の顔を見上げて首をかしげる。その目がいつもより鋭く見えるのは、気のせいだろうか。
「何、考えてるんですか」
「……は?」
開口一番浴びせられた言葉に撫子が言葉を失う。普通、こういう時は「待った?」とか「ううん大丈夫」とか、その手の会話が定石ではないだろうか。
何を考えているのか、と問われても、特段考えていたことなどない。強いて言えば、1ヶ月後に迫った学力テストのことくらいだろうか。
「嫌がらせですか。それとも何かの作戦ですか。あなたはぼくの事が嫌いなんですか」
「ちょっ、ちょっと待ってちょうだい。話が全く見えないわ」
自分はただ央に言われて円を待っていただけだ。それ以前に彼に会ったのは昨日の帰り道で、その時はいつもどおり央を含めた三人で帰り、特におかしな出来事があった記憶はない。
「あの、良く分からないけれど、私が円を嫌うなんてありえないわ」
「じゃあどうして一人で帰るとか言い出すんですか。央がいなくてもぼくはぼくでいいって言ったのはあなたでしょう。それとも、やっぱり央がいないとぼくには一緒に帰る価値もないと、そう言うんですか」
ものすごいスピードで言い切られ、勢いにのまれそうになりつつも撫子は首を振る。そんな馬鹿な事があるはずがない。
こっちこそ、いまさら何の冗談かと言い返したい。けれど、円の目は怖いくらいに真剣で、そこには怒りと何か怯えのようなものすら浮かんでいる。
一体、何がどうしてこうなっているのだろうか。
「私はただ、円だって円の付き合いがあるだろうし、いつも付き合わせるのも悪いって思ったから」
「悪いってなんですか。ぼくは央や家族以外の命令で誰かに従うことなんてしません。それ以外のことなら、全て自分の意思です。あなたに頼まれて一緒にいるわけじゃありません。ぼくがそうしたいからそうしてるんです」
それをそんな風に言われるのは心外です、と、向けられた言葉は怒りに満ちているのに何故か撫子の胸は熱を持つ。
(なんだか今、すごいことを言われたような気がするのだけど……)
返す言葉を失った自分を、円はまっすぐに見ている。そうしなければ見えないという理由も知っているけれど、なんだかそれだけじゃない気がするのは気のせいだろうか。
「あなたのせいでぼくはこんなに急ぐはめになりました。こんなに疲れるはずじゃなかったのに、どうしてくれるんですか」
「だから、別々に帰ろうって央に伝えてもらって――」
「それこそ何の冗談ですか」
帰りますよ、と、円が歩き出す。納得の行かないまま撫子はその後に続いた。
「あなたが一人で帰るだなんて、ぼくはどうやってあなたが無事に帰れたかを確かめればいいんですか」
歩く足から伸びる影は、まだ短い。周囲には同じように家に帰る者、塾へ向かう者、それぞれでにぎわっている。
「帰宅しただろう時間を見計らって電話するなんてとても面倒です。だったら、こうやって一緒に帰って、あなたを家に送り届けたほうが全然楽だと思いますが、間違ってるでしょうか」
そんなこともわからないなんて、あなた本当に自分より年上ですか、とでも言いたげな口調に絶句する。なんだか、論点がすれ違っていると思うのだが。
「あの、円? 私もう中学生だし、それに一人で帰るっていっても、こんなにまだ明るいんだし」
「だからなんですか。そんなの、ぼくが安心できる理由になんてなりません。どこまで勝手な人なんですか」
勝手。勝手? 今の自分の言い分は、自分が知っている「勝手」という語彙にはあてはまらない。それとも知らないうちに、勝手と言う言葉の意味は変わってしまったのだろうか。
「央は明日も用事があるそうです。と、いうことでぼくと二人で帰ることになりますが、なにか不都合はあるでしょうか」
「……別に、ない、けど」
「そうですか。なら撫子さんは用事が終わったら今日と同じ場所で待っていてください。多分ぼくの方が先にいると思いますが、念のため」
「あの、無理しなくていいのよ? 一人で帰るのが心配なら、明日だったら理一郎も部活はないし」
なんだかんだ文句を言いつつも、自分が頼めば一緒に帰ってくれるだろう。その間のやりとりを思うと若干頭の痛い気もするが、慣れたといえば慣れたやりとりだ。
「……りったんさん、ですか」
「ええ」
ぼそぼそと名を呟きながら思い浮かべる人物は、円にとっても信頼に足る人物だ。口ではなんだかんだいいつつも、自分と同じ位に撫子を大切に思っていることは疑いようもない。本人が肯定するかどうかはともかく。
手袋をした手を口元にあてて、暫し考える。けれど、考えようとした傍から、胸から湧き上がる何かがその考えを邪魔した。
「……りったんさんが、いいですか?」
「え?」
ゆえに、口から出た言葉は正体不明のもので。
「やっぱり撫子さんは、りったんさんと一緒の方が楽しいのでしょうか」
先ほどまでの口調が嘘のように、円の声が小さくなる。信じられないほど理不尽に責めてきたかと思えば、よくわからないところで弱気になられ、撫子にしてみればわけがわからない。
「ええと……」
今にも歩みが止まってしまいそうなスピードに反して心拍数があがる。撫子は自分を落ち着かせようと深呼吸を1つして、正直な気持ちを言葉にした。
「どっちが楽しいとか、ないわ。理一郎は大切な幼なじみだし、円は……その、大事な友達、だと思ってる」
ゆるりと落ちていた視線があがる。人よりも色素の薄い瞳が、まるで鏡のように自分を映していた。
「大切な友達だから、円自身の時間を大切にしてもらいたいって思ったの」
以前から何度も言っているが、撫子は円に円自身でいてもらいたい。央の弟ではなく、英円個人として。
だから、自分が央と一緒にいることで、つられて彼のことを縛ってしまいたくないと思ったのだ。円と一緒にいるのは楽しい。嬉しい。だから本当はずっと一緒にいたい。けれど、それは自分のわがままだから。
顔をあげた円とは対照的に、今度は撫子の顔が俯く。その足は完全に止まってしまった。
円の背後から注ぐ太陽の光が、彼の影を自分の足元に届けているのが見える。それだけで、自分は。
目の前で俯いた撫子のつむじを見、円は困惑する。彼女は何を言っているのだろう。良く分からない。けれど、なんでか心臓が跳ねて、止まってしまったみたいだ。
むかむかする。いらいらもする。なのに、嫌いじゃない。離れてしまえば楽だと思うのに、離れるともっと落ち着かない。
央や両親に対する気持ちとは違う。自分が彼女と過ごす事で新しく覚えたこの感情の正体は何なのか。
「ぼくは、そんなに信用がありませんか?」
あなたと一緒にいて、時間を無駄にしていると主張するような顔をしていたのだろうか。
「先ほども言いましたが、ぼくはぼくの意思で行動しています。それは、あなたがそうしていいと教えてくれたからです。ですが、あなたからみたら、まだぼくは我慢しているように見えるということでしょうか」
あげられた視線が交差する。
互いに困惑のまざった色をのせ、じいと相手の真意を確かめようとするかのように見つめあう。
「ぼくは撫子さんと一緒にいるのは苦ではありません。むしろ、一緒にいないほうが苦痛です」
「え……」
「ただでさえ校舎が離れてしまって以前のように気軽に会えなくなっているのに、下校すら一緒に出来ないなんて、耐え難いことです。……何故でしょう、家にいても、教室にいても、あなたがどこで何をしているのか、困ったりしていないか、気になって仕方がないんです」
「私、そんなにあなたに心配をかけるような行動ばかりしてたかしら」
むしろ自分のほうが英兄弟を心配していた記憶ならある。納得の行かない気持ちになりながら反論すると、逆に円の方がむっとした顔をした。
「そんなことは知りません。とにかく気になって仕方ないんです。だから、ぼくが安心して学校生活を送れるように、出来るだけ一緒にいてください」
勝手な要求を当然のように突きつけ、再び円は歩き始めた。今度は撫子と同じ速度で。
あまりの言い分に二の句を告げずにいたが、呆れはしても不思議と怒りはわいてこない。全身をかけめぐる感情の正体はむしろあたたかなもので。
「仕方ないわね。円がそういうなら、そうしてあげるわ」
「ええ、そうしてください」
円の視線は前を向いたままで撫子に向けられることなく、だけど見えてしまった。彼の耳たぶが日の光のせい以外で赤くなっているのを。
(素直じゃないんだから)
それは、お互いさまだろうか。
並んだ身長は、撫子の視線の位置に円の耳。きっといま、なによりも雄弁に彼の状態を語っているそこが可愛いと言ったら絶対に怒るだろうから口にはしない。
「何笑ってるんですか」
「ふふ、なんでもないわ」
「あなたは本当に、おかしな人です」
「あら、円ほどじゃないわ」
他人で、仲間になって、友人になった。
そこに新しい肩書きがつくのは、更に二年以上の月日を経た早春の日のこと。
Fin
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Comment:
個人的に円×撫子はちっこいころの微妙なやりとりが大好きです。
なにがどうしてああなった笑
20110218up
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