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● 陽炎 |
望美が、倒れた。
それは京から熊野に向かう途中でのこと。今は中立を保つ熊野水軍に源氏方についてもらう為、熊野の別当に会おうと移動していた時の事だ。
「弁慶殿、望美の様子は」
「ああ、朔殿。大丈夫ですよ、今はぐっすり眠ってらっしゃいます」
後ろ手ではなく、きちりと障子に向き直ってそれを閉めながら望美の部屋から出てきた弁慶に、沈痛な表情で待ち構えていた朔が声をかける。そして弁慶の言葉を聞くとほう、と、実に重い溜息を付いた。
「あの子はすぐ無理をするから……私も気をつけてはいたのだけれど」
「朔殿が気に病むことはありません。それに、それはどちらかというと僕がしっかりしてなければいけなかったんです。申し訳ない」
互いに頭を下げ合う様は滑稽と言えば滑稽だが、当人同士は至極真面目だ。
望美が倒れるのはこれが初めてではない。とは言っても今回のように意識を失うように倒れたのは初めてだが、これまでも貧血や疲労で、ふらふらと座り込むことは何度かあったのだ。
そしてその度に無理はするなと、辛ければ先に言えと口を酸っぱくして言い聞かせるものなのだが、当の望美は仲間の気持ちを知ってか知らずか笑顔で「平気」とだけ答えるのだ。
そして今回も同じで。
道中厳しい山道を幾つも登っている途中、望美がふらり、足元をおぼつかなくさせる。その時は全員一致で強制的に休ませたものの、やはり足りなかったのだろう。何とか山を越え、さて宿を探そうとした時に――意識を手放した。
『望美!』
『先輩!!』
朔と譲の只ならぬ声に、望美よりも先頭を歩いていた面々が振り返る。道を良く知るが故に先頭を歩いていた弁慶やヒノエが振り返った時には、すでに長い髪を宙に残し、崩れ落ちる望美の姿がそこにあった。
『望美さん!』
譲がとっさに伸ばした腕のおかげで地面に抱きとめられることを逃れた望美に、弁慶が駆け寄る。駆け寄りながら羽織っていた外套を脱ぎ、それで包むように望美の身体を地面に横たえる。離れようとしない譲を治療の邪魔だと遠ざけ、青白い手首を取ったときに心臓が凍りついた。
――もし、もしも脈がなかったら。
ありえるはずがない最悪の事態にまで想像をめぐらせ、弁慶の心臓が止まる。たった数十秒足らずの出来事でからからに乾いた喉を持て余しながら、無事を確認したときの恐怖と安堵がどれほどのものだったか、きっと望美は知る由もないだろう。
「僕が甘かった……朔殿と同じ女性といっても、封印の力を用いる彼女の負担は、想像以上に大きかったのでしょう」
「私の力が足りないばかりに……望美にばかり負担をかけて」
黒龍が姿を消した今、黒龍の神子である朔の神力はないに等しい。辛うじて怨霊を宥めることは出来るが、封じることは望美にしか出来ない。
自分の無力さを痛感し影を落とす朔を見、弁慶は視線を逸らす。望美が倒れたことだけでなく、朔が今抱えている苦痛の根源は自分だと告げたら、彼女は一体どんな顔をするだろうか――。
(応龍を滅したのは――)
朔に気付かれぬよう、弁慶はそっと瞳を伏せる。そして顔を上げたときには、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「さあ、朔殿もお休みになってください。あなたもお疲れでしょう」
「でも、望美の側にいるわ」
「それは薬師である僕の役目です。望美さんが倒れるのを防げなかった愚かさを、償わせてくださいませんか?」
そう穏やかに微笑みながら言われてしまっては、反論のしようがない。このような時間に女人の部屋に殿方が、と、思わないでもなかったが、弁慶に限ってそれはないだろうと判断し、朔は同じように笑顔を返した。
「では、お願いします弁慶殿」
「はい、可愛らしいお嬢さんのお願いとあっては聞かずにはいられませんね。これ以上不徳を重ねないよう頑張りますよ」
「弁慶殿!出家した身を、からかうのはやめてください」
「ふふっ、からかってなどいませんが」
頬に朱を乗せ、踵を返す少女の背中を見ながら弁慶は心の中で頭を下げる。そして笑う。よくもこんな軽口を言えるものだと。罪を重ねすぎると感覚まで麻痺するのかもしれない、と、他人事のように思いながらすっかり暗くなった夜空を見上げた。
「ん……」
色味の戻ってきた唇から、小さく声が漏れる。
望美から少しばかり離れたところで書物を読んでいた弁慶はその声に顔をあげ、手に持っていた書物を脇へ置くとそっと少女へと近づく。
「望美さん?」
弁慶の呼びかけに、望美の瞼がぴくりと動く。暫くじっと様子を伺っていると、震えた瞼の下から気だるげな翡翠の眼差しがのぞいた。
「お加減はいかがですか?」
「べんけ、さん?」
「はい、なんでしょう」
普段の望美であれば飛び上がりそうな程の至近距離から覗き込む眼差しに、ぱちぱちと瞬きを繰り返しつつも望美は動じない。恐らく現状が把握できていないのであろう、ぼう、とした眼差しのまま弁慶を見、それから部屋をぐるりと見渡して無言になる。
弁慶は失礼します、と告げて望美の額に手のひらを当てる。健康な人間のそれよりもほてりをもったそれに眉をひそめると、しかし望美の方はひんやりとした自分の手が気持ちいいのか、うっとりと目を閉じてそれを受けていた。
「熱がありますね」
「え?」
「今晩は勿論ですが、明日も様子を見ましょう。申し訳ありませんが一度身体を起して薬湯を飲んでください。とりあえず熱を下げないと身体に障ります」
額の熱がうつり、すっかりぬるくなった弁慶の手が離れると同時に、額に触れる風が冷たく感じる。そしてその冷たさで我に返り、望美は突然状況を理解する。
その見開かれた眼差しで望美が状況を把握したことに弁慶は気付いたが、あえてそれには触れず、宿のものに湯を運ばせ、淡々と用意してあった薬をそれに溶くとおろおろとし始めた望美に手渡した。
「さ、これを飲んで休んでください」
「あ、あのっ、弁慶さんっ」
「飲んでください」
「はい、あのっ、私」
「飲んでください、と、申し上げてるでしょう」
ぴきり。
空気が凍った気がしたのは、恐らく望美の気のせいではない。
望美は表情の読めない弁慶から薬湯の入った椀を受け取ると、おずおずとそれを口元に運ぶ。口に含んだ瞬間、想像を絶した苦味が広がり反射的に目をむいた。思わず何かの嫌がらせかと思うほどのそれに、説明を求めようと弁慶を見たが、弁慶は相変わらず淡々とした表情で煎じたばかりの後片付けをしていた。
覚えているのは、厳しい山を幾つも越えた、ということ。確かもうすぐ宿で休息を取ろうと誰かが言い、それで気が緩んで――ああ、そうだ、きっと自分は倒れてしまったに違いない。
(最悪……)
大丈夫だと思ったのだ。くらくらする眩暈も太陽に当たりすぎたせいだと思ったし、怨霊を浄化したあとの脱力感が抜けないのも、時間の問題だと思っていて。
倒れてしまったら皆が心配することも、迷惑をかけることもわかっていた。だから、そうなる前に言葉に甘えて休ませてもらおうとは思っていたのだ。けれどつい、あの大きな木まで歩いたら。いや、やはりこの山を半分越えてからとリミットを延ばした結果――最悪の事態になってしまったというオチ。比喩ではなく、望美は真剣に頭を抱えた。
自分の失態を考えれば、たとえこの苦い薬湯が罰だったとしても甘んじて受けなければと、やや涙目になりながら望美は一気にそれを飲み干す。飲み干したもののこんこん、と咳き込み、息が詰まる。背中を丸めた望美に弁慶が手を伸ばし、しっとりと汗ばんだ背中をさすさすと撫でた。
「飲み、ましたよ」
「そのようですね」
空の椀を受け取ると、そう短く告げるだけで弁慶は再び望美から視線を逸らす。そんな弁慶の様子に望美は心細くなり、声をかけようか、けれど返事をしてくれなかったらと一人悶々と頭を悩ませた。
当の弁慶は勿論そんな望美の心のうちなどお見通しで。
けれど今回ばかりは甘い言葉をかけようとは思わなかった。彼女にはもっと自覚を持ってもらわねば困るのだ。自己管理は自分に甘いということとは違う。それを理解せずにただがむしゃらに頑張ることは愚かとしか言い様がない。
(わかってもらわないと)
源氏の神子である彼女が、どれだけ全軍の士気に関わるか。
(わかって、もらわないと)
『望美さん――!』
あの時。どれだけ自分が。
そう、考えてはた、と動きを止める。違う、怒っているのは彼女に神子としての自覚がないこと、で。
(僕は今、何を)
「けい、さん」
名を呼ばれ、はっと我に返る。油断した指先からは薬草を煎じるのに使った小さな皿が零れ、かちゃりと音を立てて転がった。
失態に内心舌打ちをしながら皿を拾い、自分を呼んだ少女へと視線を移す。移して、弁慶は再び皿を取り落とすことになった。
「ご、ごめ、なさい」
「な……」
恐らく熱のせいもあろう。頬を真っ赤にした望美がしゃくりあげながら泣いていた。先ほど薬を飲む為に半身を起した姿勢のまま、布団の襟をぎゅうと掴んで。
自分が振り返ったことで安堵したのか、望美はぐしゃりと顔を歪ませるとすっかり俯いて声にならない嗚咽をあげる。弁慶の手から零れ、行き場を失った皿がころころと畳を転がり、くるりと円を書いてかた、と止まった。
弁慶は意味も無く手をあげ、下ろす。顔にこそ出さないが激しく動揺した。まさか望美が泣くなどとは想像もしていなかったのだ。
いきなり白龍の神子だからと異世界からこの世界へ召還され、戦場に借り出され。少女の身でありながら満足に風呂に入ることも出来ず、生傷すら耐えない日々を送っていても、望美はいつも笑顔を絶やさなかった。まあ、その強さが災いしてこのような事態に陥っている訳だが。
「望美さん……ああ、そのようにこすっては目元が腫れてしまいます」
「だっ、だ、って、弁慶さん、呼んでもっ、返事してくれないじゃないですか」
「すみません、ちょっと考え事をしてまして」
「嘘です、おこっ、怒ってます」
ぺしりと、宥めるように肩に触れた手を振り払う。ずっと張り詰めていたものが、倒れたことで緩み、熱のせいで高までもが外れたらしい。頭の片隅で自分は何を言ってるのだろうと思う自分もいたが、その静止は一向に働かない。それどころか壊れた蛇口みたいにぽろぽろぽろぽろ涙が溢れ、止まらない。
べしょべしょと泣きじゃくりながら、望美は俯いたまま恨み言を口にする。自分の不甲斐なさなど自分が一番わかっているのだ。逆切れ以外のなにものでもないが、冷静な判断が出来なくなっている望美は言葉にならない呻りのような声を上げながらばしばしと布団を叩く。
「そりゃ、私だって、もっと体力あったらいいなとかっ、もっと効率よく浄化できっ、できたらいいなって思いますけど」
「望美さん……」
「だけどっ、けどっ、っく、でき、なくて……っ」
「望美さん」
「迷惑かけ、てっ」
「ああもう、君って人は」
いいからもう黙りなさい、と。
突然、弁慶に抱きしめられた。
「怒ってます」
熱すぎる身体を抱きしめながら、寄せた耳元にぽつりと呟く。
呟かれた望美は、けれどその言葉の内容よりも今の状況を理解出来ず固まったままだった。きっと今なら、三日三晩続いたしゃっくりさえ止まるだろうと間抜けなことを考えつつ、だけどそれほど驚いて。
たった一枚の寝巻きから伝わる熱や質感を出来るだけ意識しないように努めながら、苦しそうな呼吸を繰り返す望美の背を撫で、弁慶は白旗を揚げる。ああもう、本当にこの少女は。
「怒ってますよ」
「や、っぱり」
「でも君が思う理由ではありません」
ひくん、と。一際大きく望美の肩が跳ねた。
そっと望美の身体を離すと、涙で濡れた頬に絹糸のような髪が貼り付いている。あまりにあどけないその姿に苦笑しつつ、弁慶が丁寧にそれを整える。指先でそっと分け目にそって髪を後ろへと流し、赤い頬に流れた涙を指の腹で優しく拭う。こうしていると本当に年相応の幼い少女なのだ、年の離れた妹と呼べるくらいの。
けれどその中身は余りにも凛々しく、激しさをもって自分を翻弄する。謀りごとになれた自分ですら読みきれない言葉を紡ぐ。表情を浮かべる。感情を、ぶつけてくる。揺れてはいけないものを直に掴んで自分に突きつけてくる。本当に恐ろしい人だ、と、弁慶は思う。
長い睫に涙の雫を残したまま、望美がぱしぱしと瞬きをする。すっかり赤くなってしまった目は本当に兎のようだ。
抱きしめられた驚きで涙は止まり、先ほどまで隠れていた冷静な望美が頭をもたげる。けれど熱でぼう、っとした頭のせいか、感情の整理が出来ないままに弁慶が言葉を続けた。
「大事にしてください、と言っているのです」
きらきらと濡れた瞳で自分を見上げる望美に、あとどれくらいこの理性はもってくれるだろうか。
「君は頑張りすぎなんです。限度を知らない頑張りは、愚かとしか言いようがない」
「――っ」
「君はもっと賢い方でしょう。何をそんなに焦っているのです」
弁慶の言葉に、く、と息をのむ。
そんなこと、そんなこときまってる。
(あなたたちを)
――あなた、を
(うしないたくないから)
――もう、二度と。
無言を貫く望美に、弁慶は溜息を付く。このままでは又、同じことが起きかねない。そうしたら今度こそ本当に自分の心臓は時を止めるだろう。たとえ本当に止まらずとも、きっと止まる、と、気付いてしまった。
じじ、と、背後で油の切れそうな音が響く。替えを貰わねばと思い、弁慶は立ち上がろうとした。
「――?」
く、と、袖がつれる。見ればその先で望美の指がしかりと自分の袖を掴んでいるではないか。
思わず言葉を失い、望美に向き直る。望美さん?と、名を呼んでも返る返事はない。背後で、消えそうな炎が最後の力を振り絞るように濃い橙の色を投げかけては力尽きたように小さくなり、又大きくなる、を繰り返す。その不規則な動きはまるで今の自分の心のよう。
このままではいけない。何故かそう、思った。
「望美さん、僕は油を貰ってきます。すぐ戻りますから、君はもう休んでくだ――」
「んなさい」
振り払おうと、柔らかく、けれど頑なに望美の手を解こうとした瞬間に聞こえた、ちいさなちいさな声。振り返らなければ良かった。え、と、聞き返さなければ良かった。その顔を、見なければ。
「ごめんなさい」
縋るような目で。
自分の影が、望美にかかる。僅か肩から漏れた橙の光が、望美の左目の睫に残った雫にきらめいて。
それが、落ちた、瞬間。
「薬」
「え?」
前後のない弁慶の問いかけに、望美が反応に困っていると弁慶が小さく笑った。その笑みは逆光に隠れ、分かりづらいものであったけれども。
「苦かったでしょう」
「え、あ、はい。とても」
「では、甘くして差し上げましょう」
「え――」
望美の視界から、光が消える。
それは、灯りが切れたせいか、それとも。
「べん……」
「君が、悪いのですよ」
そして灯りの消えた部屋の中、今度こそ弁慶は立ち上がる。静かな静かな部屋の中、炎が消えた後の独特な匂いと、弁慶の足が畳をする音だけが空間を支配する。思考も、四肢の動きも全て手放した望美はただ、わずか目に慣れた障子越しの月の光に浮かび上がる弁慶の姿だけを瞳で追った。
す、っと、障子が開けられる。弁慶の手によって。
「もう、休んでください」
遮るもののない月光に照らされる弁慶は、望美を見ない。
「……お願いします」
後ろ手に締められた障子は、ぱたりと静かに音を立て、黙り込んだ。
やがて向こう側の影が動き、その僅かな足音が完全に消えたのを理解した瞬間、望美の身体から一気に力が抜ける。同時に激しく咳き込み、それで呼吸を忘れていたことに気付く。涙目になりながら喉を押さえて酸素を必死で送り込み、はたはたと零れた涙が伝う頬や顎。そして。
唇、に、触れて。
「な、に」
苦いものがこみ上げるほど咳き込み、ようやく呼吸が落ち着いたところで無意識に漏れる問いかけの言葉。誰に対してか、何に対してか。呟いた望美自身にもわからなかった。
弁慶が整えてくれた髪が再び乱れ、身体を支えていないほうの手でかき上げる。くらくら。ちゃんと考えなきゃと思うのに、出来ない。弁慶がくれた薬が効き始めたのか、猛烈な眠気が襲う。ああ、でも。
(いやじゃなかったの)
そうして望美は意識を手放す。倒れこんだ布団に身体を沈めながら、最後に映ったのは弁慶が取り落とした白い小さな皿。部屋の隅に転がって、忘れ去られたまま。
それを見たら、なんだか無性に泣きたくなった。
「べんけ、さん」
掠れた声で自分の心を捕らえて話さない男の名を呟き、望美は夢へと墜ちた。
Fin
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Comments:
一向に身体を大事にしてくれないお友達のせいで生まれたお話。
(どきりとした貴方ですよ貴方)
ほのぼのになる筈が微妙にえろくなったのは弁慶さんのせいです(真顔)。
20050420UP
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