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● 風にたゆたう |
後悔はしていない。
していない、のだと思う。
知らず、歩みがとぼとぼとしたものになる。それに気付いて何とも居た堪れなくなり、望美は無理やりに顔を上げて空を見た。
青い青い空。世界は空で繋がっているとよく言うけれど、あの世界とこの世界は決して繋がってはいない。同じように見える空の下にいても。
自分のいる場所はここで。
彼らの――弁慶のいる場所はここではない。それだけのこと。
けれど、たった『それだけのこと』が、こんなにも胸を重く締め付けるとは思わなかった。
子どもの頃から、見飽きるくらい通った鎌倉周辺。思い出など、数え切れないほどあるはずなのに、強く残っているのはあの、たった半月にも満たない日々の出来事。
迷宮への扉があったのは八幡宮で、九郎と共に遊びにきたのもここだった。
足元には相変わらず沢山の鳩がいるし、視線を端にやれば銀杏屋が香ばしい香りを辺りに振りまいている。階段に程近い大銀杏は、新芽をゆっくりと肌の下で膨らませている。
極楽寺は皆と待ち合わせをした場所で。鎌倉の駅前は敦盛との思い出。図書館もそういえばそうだ。
それから、江ノ島は、と。思い出していけば本当にきりがない。
時間は確実に流れて。そうして、去っていくのに。
「どうして……」
気持ちは募るばかりで、ちっとも消えてくれないのか――。
帰って、と、言ったこと。
言えたこと。
傍にいた、将臣と譲が息をのんだのがわかった。
向こうの世界の面々は、何も言わなかった。唯一、朔だけが何かを問うように眼差しを曇らせたのが分かって。
そういえば、弁慶はどんな表情をしていただろうか。
(ああ)
――笑っていた
元気でと。
今まで世話になったと。
そう、言って。
「ちょっとくらい、躊躇してくれてもいいじゃない」
自分の事は棚に上げてそう一人ごちる。
わかってる。彼にとっての一番は京の人々で、それを託したのが九郎。
一応の平和を取り戻したとは言え、まだ弁慶が遣り残したことは数え切れない程あり、それを全て投げ出して残ってくれなどとは、とても言えなかった。
そして、たとえ言えたとしても。
(弁慶さんが)
頷いてくれるなんて。
「……思えないよなあ」
告げられた言葉全てを真に受けるほど子どもではない。
弁慶が、平気で『そういう台詞』を言うのは日常のことで、何も自分に対してだけ特別と言うことではない。
けれど、その中にあった数言は真実であったと。
思えるくらいには、大切に想われていたのだと、思う。その事が、わかるくらいには。
『望美さん』
声が、違ったから。
じわじわと鼻の奥が痛み、唇を噛みしめて道を歩く。気晴らしに海へいくなんて、何て定番なのだろうかと思うけれど、定番でも何でもすっきりするのならば何処にだって行くし、何だってする。
出かけ際に、譲が心配したように同行を申し出てくれたけれど、一人になりたくて断った。譲がいるという安心感で、この気持ちを誤魔化したくなかったのだ。ちゃんと向き合わないと、前に進めなくなるような気がして。
多分、将臣はそれに気付いていた。
苦笑しながら、本当にお前はツワモノだと髪をくしゃくしゃにされて送り出された。大体、何で二人とも自分が出かけることがわかったのかが不思議でならない。
乗り込んだ電車は、人もまばらだ。元々JRや小田急を利用する客層が多く、知名度に比べて江ノ電の乗車率はそれほど高くない。
昔ながらの木製の床に、狭い車両。広くはない窓から覗く、見慣れた風景。
移り変わる景色を見るのが楽しいと言っていたのは、ヒノエだったか。
そこまで考えて、望美はこつりとドアの窓に頭を預ける。
ああ、又思い出してしまった。
(だめだなあ)
もっと他にも、そう、学校帰りに友達とはしゃいだこととか、駆け込んだ将臣のカバンがドアに引っかかって大変だったとか、思い出すことは沢山あるはずなのに、気付けばあの面々との思い出ばかりを自分はなぞっている気がする。
思い出しても構わないとは思うのだ。それが悔いるものに繋がらないのであれば。
ガタガタと揺れる車両から見える景色は、遮るものの少ない、平たんな景色。あの世界に似た景色が、違うスピードで流れていく。
(やっぱり)
後悔、しているのかもしれない。
江ノ島に着いた頃には日も傾き始め、春先の気短い太陽が、その姿を水平の彼方は隠そうとしていた。
冷たい海風が吹き付けて髪を乱す。慣れた手付きでそれを直すと、望美はその先に続く何かを見ようとでもするように、ただただ水平線を見つめていた。
今頃、彼らは何をしているのだろうか。
季節は同じだったように思う。だけど、こちらよりは随分と寒い空気だったように思うから、風邪などひいてないといい。
短期間とはいえ、こちらの便利な暮らしを体験したあとでは、随分と不自由を感じることだろう。だけど、もしかしたら景時あたりが何らかの開発をして似たようなものを作り出すかもしれない。
目を細めて、笑う。
海の音は、どこでも同じだ――――。
「会いたいな」
どうして、平気だなどと思ったのだろう。
冷たい空気が頬を指し、ぴりりと痛む。海の近くは春が遅い。
あの時、自分で切りつけた腕の傷が不意に痛んだ。反射的に反対の腕で傷口を押さえ、唇を噛む。
弁慶に治療してもらったそれは、傷口もふさがりかけて来ているが今のようにたまに痛むのだ。思ったより深く切ったせいで、表面はふさがっていても中がくっついていないのだと思う。
夏でなくて良かったと言った、弁慶の言葉を思い出す。冬場の乾燥した空気だから、まだ治りが早いのだと。
(でも)
治らなくても構わない。ずっとずっと痛いままでも。
醜い傷跡が残ったとしても、それは弁慶を守れたという小さな証なのだから。
「会いたい、なあ」
彼の成すべき道を進んでもらいたいと、送り出したのは自分なのに。
たった数日でその決意が崩れた。それから更に数日で後悔に変わり始めている。
もう、逆鱗でやりなおすことは出来ない。この手に逆鱗があったとしても、もう使うまいと決めた。だからこそ、その時に出来る最善をしていこうと自分自身に課したのだ。それなのに。
「かっこつけすぎちゃった」
自分は、あの世界にとって神子だったから。
そして春日望美としても、あの世界の人々に平和な暮らしを送ってほしいと望んだ。
その為に彼らは必要不可欠な存在であり、彼ら無くしては夢の手前で終わってしまう。
彼らに、弁慶に傍にいて欲しいという個人の願いより、自分の願いでもあり神子の望みでもある前者を優先した。後悔などではないはずなのに、こんなにも胸が痛い。苦しい。息が。
出来ない。
時間が経てば痛みは薄れると。
それは一体、どれほどの時間なのか。
かじかみ始めた手で、バックの中から携帯を取り出す。順応性の高い彼らがあっという間に使いこなしたこの利器は、現代人である自分は逆に使いこなせていない。普通に、電話をかけることとメールを送ること。たまに、着信音をダウンロードするくらいで。
ヒノエは、株など始めて携帯から値動きをしょっちゅう見ていたし、景時はネットから情報を落としていた。地図に利用していたのは敦盛で、ああ、そういえば九郎だけがあまり使っていなかった気がする。
(弁慶さんは)
好きなときに、君の声を聞くことが出来るのはとても素敵ですね。
そういって、メモに残した望美の声を何度も聞いていた。
恥ずかしいからやめてくれと言ったところで、柔らかく微笑んでは有無を言わせず否定の言葉を口にして。
僕に、そんな辛いことをさせるのですか、と。
好きなときに電話をすればいいと言ったのに、それはそれ、これはこれと、頑として消そうとはしなかった。
親指で言葉を紡ぐ。決して届くはずのない、言葉を。
今、誰よりも。ただ。
ただ。
(弁慶さんに)
『会いたいです』
手を伸ばして。痛い程空に伸ばして送信のボタンを押す。
届くわけがないと知っていても、伝えたくてそうしているのか。むしろそうすることで、自分の中の会いたいという気持ちが飛んでなくなるよう願っているのか。
届かない相手に向かって投げたメールは、どこに消えるのだろう。
どれくらいそのままの状態でいたのか。やがて携帯のバックライトが消えて、景色の一部になる。それでも腕が痺れるまでそうしていて、やがてぱたりと力なく腕をおろした。
耳に届く、車の通過音が減り、波の音ばかりが大きくなっていく。さすがにこのままでは風邪を引くのも時間の問題だろう。そうしたら今度こそ、譲が一緒に行くと言って二度と一人では外出させてもらえそうにない。
容易に想像できる結果に、おかしくて少し笑った。
帰ろうと決めた瞬間、握り締めたままの携帯がぶるると震えた。
遅い帰りを誰かが心配したのかもしれない。そう、思ってボタンを押しながら携帯を持ち上げて。
「え……?」
将臣や譲の送るメッセージなら、差出人を見なくても分かる。家族のそれも同様だ。
たった一言の文章が表示された画面。このメールを送ってきそうな人物に心当たりはある。だが同時に、それは決してありえない相手で。
こめかみが、きん、と痛んだ。視界がぐらりと揺れた気もした。
『僕もですよ』
あの声で、脳裏で再生されたそのメッセージを理解した瞬間、物凄い勢いで望美は振り返る。どうしてそうしたのかは自分でもわからなかったけれど、何かの衝動が自分をそうさせて。
言葉を、失う。
「こんばんは」
それとも、ただいまかな、と。
記憶どおりの笑顔で、記憶どおりの声で言いながら歩いてくる人物がいる。
声を出すことも出来ず、つまり何故、と問いただすことも出来ずに固まり、望美は段々と距離を詰める彼を見つめ続けた。やがて望美の目の前までたどり着いた弁慶は、一つに括った髪を潮風になびかせながら微笑みかけた。
「風邪を引いてしまいますよ。付きっきりで看病できるのは魅力的ですが、どうせ傍にいるなら元気な君の方がいい」
軽口としか思えない台詞を言う。
望美はそれでも動けずにいて、力の抜けた手から携帯が滑り落ちた。咄嗟に弁慶が手を伸ばしてそれをキャッチし、ぱちん、と閉じて望美へと返そうとしたが、望美の手は動かない。
弁慶は苦笑すると反対の手で望美の手をとり上を向かせ、その中に携帯をおく。そしてそれごと望美の手を自身の両手で包み込むように握り締めた。
「君に会いにきました」
(何ていったの?)
眉根を寄せて、唇をきつく結ぶ。包まれた手に弁慶の温もりが移るころ、自分の手は冷えていたんだなという事に気付いた。
「弁慶さん?」
「はい」
呼んで、返る返事。
自分で呼びかけておいて、望美の顔は胡乱げに曇る。弁慶はと言えば、望美の心境が手に取るように分かるからこそ、ただ彼女が落ち着くのを待った。
「正直、引き止めて頂けなかったので、僕の独り善がりかと思っていました。けれど、たとえそうであっても君の傍にいたいと思ってしまったんですよ」
望美も自分を好いてくれているのだと思っていたけれど、結局望美は自分に対し、残って欲しいとも言わず、涙も見せなかった。
ただ、笑って『ありがとう』と『さようなら』を自分たちに告げた。勿論、残って欲しいと言われたからといって、そのまま残れたかと言われれば分からない。
けれど、残らないと即答できないくらいには、弁慶は望美に心奪われていた。
実際京に戻ってからの自分も、酷い有様だったように思う。
勿論残された問題を片付けていくのに支障を出したつもりはない。けれど、一旦その責を離れると途端にだめになった。そしてその駄目な自分を自分で笑えた時――望美の元へ行こうと決めたのだ。
迷いはしたけれど、ここでの自分の役目は終わったのだとそう思えた時に。
在りたいと思った自分は、他でもない彼女の傍。
「迷惑だと……言わないで頂けませんか」
口元に笑みは残したままだが、眼差しは真摯に望美を見つめる。
望美はようやく、頭を振った。
「そんなこと、ないです。そんなことないです」
泣きそうな声で。
愛しい人の切なげな声に、喜びを感じるのはどうしてだろう。
弁慶は自分の手の中でもぞりと動く細い指に、愛しさを重ねる。
「ありがとうございます」
「聞きたいこととか、いっぱいあるんですけど、あとにします」
「望美さん?」
「うん……全部あとにします」
俯き気味だった顔を、ぱ、と上げて望美は笑う。満面の、向日葵のようなそれ。
「おかえりなさい、弁慶さん」
「……ただいま、望美さん」
どちらからともなく残された腕を伸ばし、けれど先に捕まえたのは弁慶で、つかまったのは望美だった。
潮風に混じり、弁慶に引き寄せられる距離が縮むほど強くなる薄荷の香り。その奥に潜む、甘い香りは何だろうと思いながら望美は身体を弁慶に預けた。
おかえり、と言ったけれど、帰れたのは自分の方かもしれない。
「嘘、とか。もう言わないで下さいね?」
「ひどいな。僕は大分信用を失っているようだ」
「当たり前です」
「じゃあ、君に信用して頂ける様、これから頑張ります」
顔をあげて、柔和に微笑む弁慶を見る。
「これから?」
「ええ。どれほどの時間がかかるかわかりませんが、努力します。愛しい人に疑われたままでいるなんて、さすがの僕も胸が痛みますからね」
「……じゃあ、ずっと信用しません」
「え?」
「だから、ずっといてください」
離れずに。自分の隣に。
見つめる望美に一瞬だけ弁慶が瞠目し、やがて小さく吹き出す。そして溢れ出る愛しさをせき止めるように望美の髪に指を埋め、柔らかく自分に再度引き寄せた。
「君は本当に、いけない人ですね」
弁慶さんほどじゃないです。
そう届いた声に、今度こそ声を出して弁慶が笑った。
Fin
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Comment:
メールのシーンが頭に浮かんで書き始めたお話。
無駄に長くなりました。むおお。
本当は漫画で描きたかったネタ。
20060507up
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