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● 胸の帳 |
いつからだろう。
弁慶が優しく微笑むたびに、自分の胸がちくりと痛むようになったのは。
自分の数歩先を行く弁慶の、黒い外套がまるで自分を拒んでいるように感じ始めたのは。
他愛ない会話をしようとしても、うまく行かない。
別に無視をされているわけではない。望美が何かを問えば、弁慶は笑顔で応えてくれる。しかし、言葉だけが上滑りをしている感覚で。
なんというか、ああ、そうだ。言葉を交わすことは出来ても『会話』が出来ない。ちゃんと話せていない。
(どうして?)
気付いてしまったら、怖くて話しかけられなくなった。
そうしたら、ますます遠くなったように感じて。
「浮かない顔だね姫君。憂い顔も見惚れるほどだけど、あんたには似合わないな」
「ヒノエくん」
ヒノエはいつも、どこからともなく現われる。それは行動を共にするようになってからも同じで、前を歩いていたかと思うと自分の後ろにいたり、どこにいったかと思うと隣に現れたり。
今も、先ほどまでは弁慶の隣を歩いていたと思っていたら、だ。
そんなことを思って小さく笑うと、ヒノエが嬉しそうに口元を緩める。それを認めて、けれど望美は再び浮かない表情に戻った。
「言ってみなよ。姫君の願い事なら、どんなことでも叶えてやるぜ?」
心配を、かけてしまっている。
そのことが又、望美の胸を痛めて。
軽口のように聞こえるが、ヒノエは本当に自分を心配してくれている。そうして、きっとその言葉は嘘ではなくて。
もし、自分の願いが「もの」であるのなら、ヒノエは全力でそれを叶えてくれるだろう。それがたとえ、どんなに難しいものであっても。
望美はそれがわかったから再び笑う。するとヒノエは望美に近い方の腕を伸ばし、そっと望美の頬に触れた。
「笑顔が似合うって言ったけど、別に無理して笑えとは言ってないぜ姫君」
触れられた指に、押さえられたかのように笑顔が凍る。
ヒノエは笑みを浮かべたままだ。だから、ぎりぎりで救われた。
季節は確実に移っている。
この世界に来た頃はまだ寒くて。これから春に向かうというより、冬に向かっていた頃で。
それが今では桜も咲き、散った。それ以上に、自分が『繰り返した』季節をいれれば何回それに身を投じたのか。
見上げれば、木々の隙間から見える高い高い空。先ほど通り過ぎた町並みに行き交う人々は、皆笑顔に溢れこれからの季節を無意識に喜んでいる。
そうして皆、与えられた季節を、時間を、そのままに過ごしていて。
だけど自分は進んでは戻り、戻っては進んで。想いと記憶だけがどんどん増えていく。
(このままじゃ、私)
動けなくなりそうで――。
「望美?」
「私……弁慶さんに嫌われるようなこと、したかなあ」
「は? 何言って」
「だって、笑ってないよね」
発した言葉に、ヒノエの反応が固まったことが分かる。右肩にぴりりとその空気を感じ取ったけれど、望美はあえてそれを無視して――否、受け止めることができなくて――言葉を続けた。
「笑ってるけど、笑ってくれてないよね」
言葉にしたら、涙が出そうになった。
だけどそうしたら、自分が可哀想な子になりそうで、ぐっと堪えて。
ヒノエの顔を見ることが出来ず、望美はただ、歩き続けることしかできなかった。大して気にしてない風を、装うしかできなかった。
「……」
ヒノエはそんな望美の横顔を見、口元を硬く結ぶ。そして一瞬だけ、外套を身に纏った後姿を視界に移し、冷えた眼差しで睨みつけた。
「姫君のせいじゃないよ」
え、と。
縋るような、けれど期待してしまうことでもっと傷つくことを恐れるような、そんな眼差しで自分を見上げる少女に、ヒノエは先ほど弁慶を見ていた冷酷なそれとはうって変わった、柔らかな笑みを向ける。
策士と呼ばれ。
女子どもであろうと、老人であろうと。自らの目的の為には、手段も犠牲も選ばない男。穏やかな笑みの下に、誰よりも仄暗い欲望を持った男。
(それが、このザマかよ)
たった一人の少女の出現に心揺らし。
受け入れる強さも、突き放す弱さも持てず。
心地よい関係に甘えて、言い訳をし。
油断により波立った心を抑えきれなくなっては、無責任に距離を置こうとする――作り上げた笑顔で。
「あいつが臆病者ってだけさ」
ヒノエの口元に浮かんだ酷薄な笑みを見て、望美が目を見開く。
ヒノエは苦笑し、望美の髪を撫でた。
「ま、姫君は気にするなってことさ。それよりどう、気晴らしなら付き合うけど?」
「ん、ありがと。でも遠慮しとく」
「そんなにアイツがいいかい?
でもやめときなよ、アイツはお前の手には負えない」
どういういみ、と。
聞こうとした望美の言葉を断ち切るように、ヒノエがするりと傍を離れ、前を歩く弁慶らの方へと行ってしまった。
取り残されたような形になった望美は、無意識に立ち止まりすぐ後ろを歩いていた譲に「先輩?」と声をかけられ、我に返る。心配そうに自分をみる幼馴染に「大丈夫だよ」と告げ、再び歩き出したけれど。
(わかんないよ)
ヒノエの言っていた意味が。
何故、弁慶が臆病で。
どうして、自分を避けるのか。そして。
(やめとけ、って……)
「わかんないよ」
――自分の、きもちが。
「この道を進めば又、里がありますから、今日はそこで休みましょうか」
弁慶の言葉に皆が頷く。日が沈むまでにはまだ早いが、この季節に日が沈むのを待っていては遅すぎる。
外套の端を押さえ、弁慶が密かに息をつく。今日は、一度も言葉を交わしてはいない。いや、声ならかけた。が、それは自分の後ろを歩く仲間全てに対してであって、彼女個人に対してではない。
一歩、歩くたびに。前に進むたびに。
どうしてこうも、後ろに引かれる力が強くなるのか。
すぐ後ろに望美の気配を感じる。ただそれだけ。
何かを話したそうにしては抑え、抑えては振り切れないように顔をあげてこちらを見る。
(なんて、わかりやすい)
そう、わかっているのだ。後ろを歩く彼女が、前のように無邪気に話しかけてこなくなったことを。
違和感を感じたのは自分が先だった。
ある日、その前日までは剣を握る手つきですら危うく、術を唱える声すら震えることもあったというのに、突然開花したように『意思を持って』前を見据え始めたのだ。
その太刀筋は九郎やリズヴァーンには敵わずとも、筋の良いものが1年以上稽古を重ねたものに匹敵するほどで。出会った頃は、剣の持ちからすら知らぬ少女だったと言うのに、何故。
自分に対する接し方も変わった。以前はどこか探るような、知り合ったばかりの者に対する遠慮のようなものが感じ取れた。無論、あまり人を疑うことを知らない彼女らしい、無垢で大胆な行動もあったが、今の彼女とはあまりに違いすぎる。そう。
信頼、されていたのだ。
たった、一晩を越えただけで、だ。
相手が自分をどう思っているかなど、弁慶にとって見れば目に見えるものを見る以上に簡単に感じ取れる。
だからわかった。望美が自分を、心底信頼しきっていると言う事に。
「よう、弁慶」
「ヒノエ」
「お姫様が落ち込んでんだけど」
「どちらの姫君ですか?」
にこり。弁慶は微笑むことで会話そのものの深刻さを拒絶する。又、ヒノエもそれが分かるからこそあからさまに嫌悪感をあらわして弁慶を見た。
ヒノエは自分の言う『姫君』を、弁慶がわかってないなどとは露にも思わない。そして弁慶も、避わしたところでヒノエが引き下がるとは思ってもいない。お互いわかりきった上で、それでも牽制しあうのは血ゆえかそれとも。
「あんたが何から逃げようが知ったこっちゃねぇけど」
歩きながら。
まるで、普通の会話を楽しむような気軽さで。
「アイツにあたらないでくれる?
――不愉快だね」
会話の運びと、最後の言葉に含まれた温度との違和感。
まだ幼さの残る顔立ちに、不似合いなほど大人びた視線と口調で。
けれどそれがなによりも『ヒノエ』であると思わせる貫禄は、さすがと言うべきか。
傍にいた九郎が、何の話か分からないといった風に眉根を寄せる。ただ弁慶に絡んでいるようにしか見えないヒノエに苦言を呈そうと口を開きかけて、景時に止められた。
ヒノエは射抜くように弁慶を見、弁慶は外套の下からそれを受ける。一瞬、確かに弁慶の口元から笑みが消えた。けれどそう思った瞬間には、再び穏やかないつもの口調で。
「何のことでしょう」
笑った。
「オレは逃げない。熊野を捨てる気はさらさらねぇが、アイツを諦めるつもりもないんでね」
「彼女は神子です。君の遊び相手にしていい女性じゃありませんよ」
「遊び相手? アンタの目も随分と曇ったものだね。それともなにかい、そう思いたいだけじゃないの?」
「挑発には乗りませんよ」
互いに口元に笑みをかたちどったまま。しかし言葉の奥に潜むじっとりとした響きはどうにも隠せない。特に今、この場にいる面々には。
弁慶の言葉で終わった会話は、一見収拾したかに見えた。
が、一瞬の後にヒノエが笑う。口元だけを軽くあげて。
「オレはどの姫君だと言ったつもりはないけどな」
「……君が今現在ご執心なお嬢さんといったら、彼女しかいないでしょう」
「アンタらしくない陳腐な言い訳だね。その程度にしかかわせないなら、策士を廃業した方がいいぜ?」
一足先に宿を探すよ、と、景時に言い残すとヒノエは弁慶にひらりと手を振ってその場から消える。景時はその場の気まずさを払拭する様にわざと明るい声をだし、「さあ、あともうちょっとだからさくさく歩いちゃおうか!」と言い、兄上にやる気があると不気味だわ、と朔に返され頭を垂れた。
九郎は機会を失ったように口をつぐんだが、納得がいっていない様子が見て取れる表情を浮かべている。何かを聞いてくるほど場を読めないとは思っていないが、弁慶はす、と、拒絶するように外套を深く被りなおした。
「弁慶、さん」
こくりと。躊躇うようにのんだ息の音さえ聞こえてきそうなくらい、真剣な声音で自分の名を呼んだ人物を弁慶はゆっくりと振り返る。
後ろで自分を見上げていた少女は、心情そのままにゆらゆらと眼差しを揺らす。けれど、拒絶される恐怖よりも見つめている人物を心配する気持ちの方が勝ったのだろう。強張る頬を、必死に動かしている様がなんとも可愛らしく。
「何かあったんですか?」
「何がです?」
「、ヒノエくんと。何か、言い争っているように見えたから……」
たったこれだけの言葉を紡ぐだけで、どうしてこんなにも疲れるのか。
望美はともすれば逸らしたくなる視線をまっすぐ弁慶に向ける。それが、何よりも彼が不得手とするものだと知らずに。
「何でもありませんよ」
「でもっ」
「君には関係のないことです」
心配しないで、と。
付け足した言葉はなんの慰めにもならず、弁慶の発した言葉は拒絶以外の何物でもない。関係のない者が首を突っ込むなと遠まわしに言っただけだが、どの口がそれをいい、関係ないどころか中核となっている彼女を傷つけるのか。
案の上、望美は唇を噛み、あからさまに傷付いた瞳で弁慶を見つめる。弁慶が薄く微笑み踵を返すのと、望美が耐え切れずに視線を逸らし俯くのが同時だった。
(どうして)
望美は滲み始めた視界を、崩れてしまうぎりぎりのところで堪える。
落ち始めた夕陽に照らされた漆黒の外套は、オレンジと混ざりいつもより暖かな色を見せるのに、どうしてこんなにも冷たい空気を自分に向けるのか。
歩みを止めそうになる自分に反し、弁慶はどんどん歩を進めていく。何も言わずに背中に添えられた対の手が、慰めるように上下に2度ほど動き望美に歩き続ける勇気をくれる。顔を上げると泣いているのがばれそうで、望美は朔の着物を軽く掴むことで感謝の意を伝えた。
『姫君のせいじゃないよ』
ヒノエはそう言ってくれた。けれど先ほどの弁慶が発した、自分は関係ないの一言とは意味が同じでも内容が違う。鈍感だといわれ続けた自分にも、それ位はわかり、だからこそこんなにも胸が苦しい。
胸の奥に生まれた小さな嵐がある。
けれどそれを何と呼ぶのか望美にはまだわからず、傷む胸を抱え続けた。
Fin
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Comment:
幸福彩彩名義でだした「ひとえ恋歌」と若干テーマが被った為
出すに出せなかったお話。
1シーズン越えたのでもういいかな、と。
ちなみに書き始めたのは5月とかでした。
20051116up
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