** Happy C×2 **
 ● 嘘の真実

「おかえりなさい」
 たった一言。

「おかえりなさい、先輩」


 けれどその七文字に込められた想いを言葉にして表すなら、きっと万の言葉を駆使しても伝えきれないだろう。

「ただいま」

 返す言葉も、たった一言で。


「ただいま、譲くん」


 その四文字に込められた想いを同じように表すにも、きっとそれ以上の言葉が必要で。だからこそ、この言葉しか口に出来なかった。















『嘘の真実』
















 望美が譲の下に戻って来て、一昼夜が経った。
 最初はただ必死で、現実に起こったことに対して気持ちがついていかず、けれど誰よりも何よりもそれが本当だということを願い、心のバランスがおかしくなっていたように思う。
 疲れているだろうから、と、望美の主張とは相反した意見が勝利し、京に帰還した望美はまず休息を取ることを強制された。朔に誘われる様に部屋へと向かう彼女が肩越しに譲を振り返り、その眼差しが不安げに揺らいだものだから思わず駆け寄ってしまいそうになる衝動を必死で堪えた。
 きっと、同じだったのだ。彼女も。

 眠って。目を、閉じて。再び開いたら。





 全てが夢だったのではないかと――








「先輩?」

 以前そうしていたよりも早い時間だということは自覚していた。又、望美は拒否していたが、『ゆっくりと』寝ていてもらう為には些か早すぎる時間だと言う事も。
 けれど一秒でも早く 此処 に望美がいることを再び確かめたい譲は逸る気持ちを抑えきれず、けれども望美が休養を取れるだけの時間を計算し、ぎりぎり許される時間だろうというタイミングで彼女の部屋を訪れた。
 別に、起きていなくても構わなかったのだ。部屋に、扉越しに彼女の気配さえ感じられれば。
 そう思って。

 夏の朝は早い。明け方の5時頃ともなれば白い光があたりに差し込み、辺りに広がる全てのもの本来の色を映し出す。未だ太陽の熱につられていない空気の温度だけが、まだその時刻が早朝といわれる部類であることを教えてくれていた。
 夜が明けると共に、土の中に眠っていた水気が湿度となって混ざりこんだ朝の空気を肺に吸い込み、譲は望美の部屋の前に立った。

 起きてますか、と、小声で問いかけ譲は中の様子を伺う。望美は寝起きが決して良いとは言えないものだから、部屋の中からしっかりした返事が返って来た時には驚いた。
 障子を開けると、寝間着ではなく単を着た望美がおり、譲は二度驚かされた。休まなきゃだめですよ、と、言いながら部屋に入ると望美は笑って大丈夫だよと返す。
 顔には出さず、譲は心の中で安堵のため息をつく。自分は何を怯えていたのだろう。そう、彼女は還ってきたのだ。ここに。

 望美へと近づきながら、さてどこまでの距離で座ったものかと譲は思案する。以前なら幼馴染みということ以上に男女としての距離を取り、先輩後輩としての距離を取って接してきた。けれど今は違う。それになにより、彼女に。

「譲くん?」

 触れたい、と思って。


 心の整理がつかず、立ち止まってしまった譲を不思議そうに望美が見上げる。ああ、なんてだめなのだろう、自分は。もっと自然に接するべきなのに。そして何よりも今は望美の身体や気持ちを優先すべきで。そう、わかっているのに。

 笑みを浮かべていた筈の自分の顔に、戸惑いが広がるのがわかった。望美の姿を認めた時の安堵はそのままに、けれどそれを本当に『安堵』と呼んでいいのかどうかが判らなくなってきて。
 それは望美に近づけば近づくほど強くなった。

 譲の握り締められた拳が、小刻みに震えている事に望美が気付く。視線を譲に戻すと、幼い頃から共にすごした幼馴染みは、その見慣れた眼鏡越しの瞳に様々な感情を映して自分を見ていた。



(あ)



 そう
 きっと
 彼、も   同じで。




「譲くん」




 名を呼ぶ。確かめるように。逆に、確かめさせるように。




「譲くん?」
「……はい」
「座って?そっちじゃないよ、こっち」


 畳1畳分の距離をあけて座ろうとした譲に望美が自分の隣を指差す。近くでも、目の前じゃなくて隣にいて欲しかった。並んでいたかった。例え触れなくても、肩越しの空気に温度を感じたくて。
 譲は戸惑いも隠さず、間を空ける。けれどやがて軽く息をつくと、望美が指した場所へと腰を下ろした。


 膝を抱える望美と片膝を立てて座る譲は、共に言葉を向ける相手とは違う空間を見つめる。聞こえてくる鳥の声は、オジロだろうか。


 並んで座ったまま、暫く会話は無かった。どれくらいそうしていたのかもう、分からなくなってきた頃に望美が静かに口を開く。

「夏だね」

 そう、ですね。と、譲が答える。それ以外、どう答えたらいいのかわからなかった。
 あれだけ焦がれた相手の声。共に過ごしてきた十数年の時間よりも長く感じた、彼女を失った半年という時間。けれど、今耳にする声を懐かしいとは思えない。
 感情が数える時の流れと、身体が覚えている時の経過は別のものなんだなと、譲はどこかでそんなことを考えた。


 隣に、焦がれ続けた相手がいる。やっと、想いを通わせた人がいる。
 そして、一度失ってしまったという事実と、帰ってきたという現実。
 言いたいことは沢山あって、そのどれ一つも言葉にならない。態度でなど、もっと表せるはずがない。


「昨日ね」
「……はい」
「寝るのが、凄く怖かった。ずっと目を開けてないと、誰かの手を掴んでないと、怖かったの。もしかしてこれが夢で、私はまだあそこにいて。それか、白龍がちょっとだけ時間をくれたのかな、とか」
「先輩」
「だけどね、ほら。私今もここにいるの。朝起きてもちゃんとここにいるんだよ」

 膝を抱えていた手を片方外して、隣に置かれていた譲のそれに重ねる。


「だからね、大丈夫だよ。譲くん」


 にこりと微笑んだ顔は相変わらずで。
 それでもどこか、違うものだった。


 譲は手の甲に感じる温もりに視線を落とす。眉根を寄せて一度だけ目を固く瞑り、再び眼差しを開けると望美の方へと顔を向けた。


「俺は」


 望美の手の下で、拳を握る。



「眠るどころじゃない。今こうして、瞬きをすることだって怖いんです」



 例えコンマ1秒の瞬間でも目を離すことが。
 普段意識しない瞬きという行為すら怖くて堪らない。目を離せない、ということがどれだけ行動を制限するのかを譲は苦しいほどに思い知らされていた。
 譲の真摯な眼差しに、悲痛な瞳の色に、望美の息が止まる。すると譲は苦笑し、微笑みながら半眼を伏せた。


「あなたは今ここにいるのに……いつから俺は、こんな臆病になったんでしょうね」


 自分の気持ちを抑えることが出来ず、それは望美を苦しめてしまうことと同じだと分かっているのに。
 案の定望美は、それ以上言葉が見つからないと言った風に唇を結ぶ。すみません、と言う譲の言葉に首を振るだけだった。

 時間が流れる。縁側に差し込む光の角度が変わり、部屋に落ちる影の長さが短くなっていく。そろそろ、誰かが望美を呼びに来るころかもしれない。
 望美の手のひらの温度が譲の甲に移り、やがてどちらのものか判らないほど溶け合った頃、譲が動いた。


「手を……握っても、いいですか?」
「っ、う、うん」


 すみません、と何故か謝るから望美は再び首を横に振る。
 望美が譲の動きに合わせるように手を一旦外すと、譲は恐る恐ると言った感で望美の細い手を握り締めた。


 緩やかな力から、確かめるように力を込める。
 かくりと手の中で細い指が譲の形に沿い、親指の腹を動かしては温もりを確かめる。
 それで、やっと。





「譲くん!?」










 心が、緩んだ。










 はたはたと零れる涙は、もうずっと流していなかった想いの固まり。
 狼狽える望美の横で、半ば呆然としたように譲が反対の手を動かし、腕で眼鏡を持ち上げてそのまま強引に涙を拭く。けれど一度緩んでしまった堰は元に戻らず、更に譲自身を動揺させる。すみません、と、すでに何回目となったのかわからない謝罪を口にし、けれど諦めたのか譲は立てていた片膝に額を預けた。

「譲くん、譲くん」

 伸ばそうとした手は譲に握られており、望美は腰を起こして譲の正面に回りこむ。そして時折零れる熱を帯びた吐息が聞こえる度にどうしていいのかわからず、だからそっと譲の襟足に腕を回して俯いた頭ごと抱きしめた。

「ごめんね、ごめんね、ごめ……」

 段々と耳に届く声が震えたかと思うと、譲の耳の裏に温かな雫が落ちる。今度は譲が首を振り、望美の手を握っている手に力を込める。すると返されるように自分を引き寄せる腕に力が篭もるから、譲は大きく息を吐いて感情を逃がした。


 大人になりたいと思っていた。
 彼女との年の差を埋めて余りあるほどに。そして、彼女を守れるように。いつも笑顔でいられるように。
 年齢の差以上に違いすぎる兄の背中を見るたびに、そう思ってきて。そうなるように努めてきたつもりだった。

 けれど今の自分は子どもでしかなくて。
 それでも、無理だと思った。あんな気持ちを抱えて尚、それを受け入れることが大人だと言うのならば永遠にそれには成り得ないだろう。そう認めてしまう事も更に自分を追い詰める事だとわかってはいたが、どちらも譲には選べなかったのだ。


 望美がした選択は、きっと正しい。
 世界中の人間に聞いてまわっても、恐らく全員が首を縦に振るだろう。


(だけど)


 自分だけは。
 この世界で、自分一人だけでもそうしてはいけないと思う。それがたとえ彼女の願いであっても、望みであっても義務であったとしても、あの時止めた自分を間違っていたとは思わない。それを譲のエゴだといい、責める人間がいたとしても否定するつもりもない。ただ自分がそうだというだけで、誰に理解されようとも思わない。
 ただ。




「あなたがいれば、いいんです」




 この世界に。






「先輩がいてくれれば、それでいいんです」






 それだけが自分にとっての真実。


 譲の頭に触れる胸骨を通じて直接伝わってくる譲のくぐもった声に、望美の声が奪われる。自分のした選択が正しいということを理解してくれてはいるが許せないでいるのだと、痛いほどわかって。

「ごめんね」

 首が振られる。押さえ込むように、抱きしめる腕に力をこめた。

「ごめんね……もう、どこにも行かないから。ずっと譲くんの傍にいるから」
「当たり前です。もう、あんな思いは二度と御免です」
「うん」
「先輩が嫌だって言っても離しませんから。わかってるんですか?」
「うん」
「ずっと……ですよ?」
「うん」

 わかってるよ、と、繰り返した望美の声に俯いたままで譲は固く目を閉じる。
 又、あの時と同じようなことがあったら彼女はきっと同じ選択をするだろう。それも判っているからこそ、今ここにある温もりを離したくはないと願う。


「先輩は、嘘つきですね」

 小さく笑って。

「譲くんに嘘なんかつかないよ」

 非難めいた声を、今だけは信じたいと。祈るように。










「おかえりなさい」










 ただいま、という声を聞きながら、譲はただただ手の中の小さな温もりを握り締め続けた。











Fin









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Comment:

え、これ譲望なんですかとのつっこみが聞こえてきそうな話に
なってしまいまし た。
ええ譲望です。譲望なんです(強調)。
なんというか、譲にはずっと悶々といて欲し(略)。

ふと「瞬きするのも怖い」っていう一文だけが浮かんできて、
そこから生まれたお話です。
もちょっとハッピーなお話になるはずだったんですけど。

実月エロ神に進呈。
DVDありがとうお礼にならなくてごめんなさい(へこへこ)。


20051026up




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