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● 轍 |
この世に神がいるなら。
運命と呼べるものが、彼らによって紡がれているなら。
「……んなの、どうにでもしてやるさ」
彼女をこの世界に呼んだのがそれ、で、彼女を元の世界に戻すのもそれ、ならば。
『轍』
――ざん……っ
夜の海は怖い。昼間は心が浮き立ち、夕暮れは穏やかな感動を届けてくれる海は、けれど夜になると一変してその姿を変える。
たとえ今日のように月の明るい夜でも、空と海の境界線がわからなくなる。それはつまり、自分の立っている場所が正なのか異なのかがわからなくなり、めまいを覚えそうで。
望美は恐怖に負けぬよう、眼差しを強くして海を見つめる。まっくらな空に浮かんだ淡い小さな光がまっくらな海に映り、それはまるで鏡のよう。
「望美」
「っ、び、っくり、したっ」
一人になりたくて、そっと誰にも気付かれぬようこんな時間に抜け出したというのに、この浜辺について数分も立たぬうちに声をかけられるなんて。
望美は動悸の収まらない胸をかるく抑えつつ、自分を追いかけてきたのであろうヒノエを振り向く。ヒノエは驚かせて悪かったと言いながら一歩望美との距離を詰め、望美がそうしていたように漆黒の海を見つめた。
「こんな時間に、どうしたんだい」
「ごめんね。ちょっと眠れなくて」
「だったらオレに声をかけなよ。夜中だろうがなんだろうが、姫君のお願いとあったらいつでも付き合うからさ」
「うん、ありがとう」
口ではそう返しながら、けれど決してそうはしないであろうことにヒノエは気付いている。だが、それを指摘したところで変わるものではないと言うことにも気付いているからこそ、ヒノエは苦笑するしかなった。
望美の口数が減っていることには気付いている。
時々、無理に笑顔を作ることも。
そうしてどうしたのか、と聞いたところで「なんでもない」とかわすであろうことも。
「オレの姫君は、どうしてこうも頼ってくれないんだろうね」
「ヒノエくん?」
「なあ望美……オレはそんなに頼りないかな。おまえが悩んでいることを相談出来ないほど、オレはおまえの事をわかってないと思う?」
思いもしない直接的な言葉に望美は言葉を失う。
ヒノエは元々聞いているこちらが恥ずかしくなるような台詞を平気で言う。けれど、それは本気であっても余裕がないということではなく、寧ろ直接的であればあるほどどこか余裕を持ち、からかうような響きさえにじませると言うのに。
今のヒノエの言葉は、ヒノエ自身の不甲斐なさを問いかけに似せて自らにぶつけているものだ。それはヒノエが普段崩すことのないゆとりや自信と相反するもの。だからこそ望美はとっさに返す言葉を失い、ただ自分を見つめるその瞳を見つめ返すことしか出来なかった。
暗闇に紛れ、焦げ茶に見える眼差しの奥が、苦しげに揺れている。それを見返す翡翠の眼差しも又、同じで。
「本当に、オレの姫君は強情だね」
「う……」
「ま、そんなおまえだからオレはここまで夢中にさせられてるわけだけど。
けどさ望美、たまには素直に甘えたほうが可愛いぜ」
「あ、まえ、てるヨ?」
「全然足りないね。なあ望美、おまえ甘えるって言葉の意味、知ってるのかい?」
やばい、と思ったときには遅かった。
ヒノエの声が、眼差しが急に艶を増し自分を捕らえる。このままではヒノエのペースだと気付いた時点ですでに捕らえられているのだ。望美は動揺しながらも必死で流されないように気持ちを持ち直す。無駄だとわかっていても。
無意識に一歩退いた望美を牽制するように、ヒノエがその眼差しを細める。
「甘えるって言うのはさ」
「ひ、ヒノエくんっ」
ヒノエの腕が伸び、望美の腕を取る。望美の滑らかな肌の感触を楽しむように、袖口から指をするりと忍び込ませ、直にその腕を掴む。掴んだそばから人差し指で、す、と撫でつける感触に、望美はびくりと反応する。
ヒノエはそんな望美の反応を楽しみながら、もう片方の腕で望美を引き寄せる。逃れるように動いた望美の足を無視し、抱き寄せた腰を動かぬよう支えながら、最初にとった腕に唇を寄せた。
「抱きしめずにいられない罪を、赦してもらったり」
「ヒノエ、く」
「肌に触れる許しを得ずとも、口付ける自由さを楽しむことだったり、さ」
「ん……っ」
腕の内側にしとりと触れる柔らかな感触にぞくりとし、ぎゅう、と、目をつぶる。自分で自分の耳がじりじりするほどに熱くなってるのがわかる。さっきまであんなに大きく聞こえていた波の音より、自分の心臓の音の方が遥かに大きく聞こえて、望美は恨めしげにヒノエを睨み付けた。
「ふふっ、赤くなってる。可愛いね姫君は」
「もうっ!からかわないでって言ってる」
「からかってなんてないさ」
望美の抗議を最後まで聞かず、ヒノエが口にした言葉の響きはさっきまでとはうって変わって硬質なもの。
海風に揺れるヒノエの柔らかそうな髪が生き物のようだと思った。怖いほどに真剣な眼差しに宿る力が、その髪にも自分の身体を抱く腕にも宿っているようで、望美は息を呑んだ。
「あんたが好きだ、って、何回言ったらわかってくれるのかな」
月の光が、ヒノエの顔を青白く照らす。
それは透き通るほどに透明で、はかなくて――だからこそ、眼差しの強さが怖いほど引き立って。
息が触れるほどの距離で交差する二つの視線。
どくどくと血流の音が耳の奥で痛いほど鳴り響くのを感じながら、でも、それは自分だって。
「私だって」
紀ノ川で想いを告げられたとき、望美は返事を返した。最初は告げられた言葉が信じられなくて、否、恥ずかしくて、ヒノエくんの一番は熊野でしょと憎まれ口を叩いたものだが、ヒノエは悪びれもせずそれを肯定し、その上で尚、こう言ったのだ。
――けど、おまえにはオレの心と命をやる
悪くないだろ、と。眼差しは真剣に、けれど口元には悪戯な笑みを浮かべてそう言ってくれたヒノエに、じゃあ自分はヒノエにかけると返した。
「私だって、ヒノエくんが好きだよ」
朱色の瞳が揺れて。
望美の手が、ヒノエの束縛から逃れそっと同じ色の髪を柔く掴んだ。
「私、甘えてるよ。ヒノエくんにうんと甘えてる」
「望美」
「甘えちゃだめなのに、甘えてるんだよ」
この世界の人間でない自分が、責務の為とはいえここに在り、ヒノエの隣にいる。
そして役目ではなく、自らの意思で。いたい、と思う人の隣に。いつか帰る身の自分には、そんな資格などあろう筈がないのに、自分を好きだと言ってくれるヒノエの言葉に甘え、まるで普通の恋人同士のように言葉を交わし、眼差しを独占する。
握り締めた髪はあまりに柔らかくて、揺れた動きで甘い香りを届けてくれて、泣きたくなる。
ヒノエの言葉を疑っているわけではない。ヒノエは確かに自分を想ってくれている、大切にしてくれている。だからこそ、だったら尚の事傍にいてはいけないのに。
「甘えちゃだめ、って、誰が決めるんだい」
ヒノエは、自分の髪を掴む望美の手に自分のそれを重ねる。そしてそっと指先を絡めると、応えるように望美の細い指に力がこもるのがわかった。
「オレはオレの意思で姫君の傍にいるんだぜ?甘く見てもらっちゃ困るな」
「ヒノエくん……」
「ねえ望美。言ったろう?――『そんなにオレが信じられない?』」
「……っ」
ぶるぶると頭をふる望美に、ヒノエが苦笑する。それは最初からわかっていたこと。
「じゃあ、もっと甘えなよ。言ってごらん、どうして欲しい」
姫君の願いごとなら、何だって聞いてやるさ、と。
笑ってくれるから、自分はどんどん弱くなる。甘えてしまう。
「仏の御石の鉢でも、蓬莱の玉の枝だってなんでも取ってきてやる。それであんたが――姫君が、月に帰らずここに残ってくれるなら」
「ヒノ……」
気付いていないはずがないと思いつつも、いざそう言葉にされると動揺せずにはいられない。
見開かれた望美の瞳を見、ヒノエが片方の瞳だけを潜めて苦笑いをし、望美の身体を解放した。
「ああ、ダメだねオレも。姫君から打ち明けてくれるのを待ってたのに、さ」
「……」
「ま、そういうわけだからさ、望美。あんたがそう願ってくれるなら、オレは絶対におまえを元の世界には帰さねぇよ」
「でも、でも」
「でもじゃねぇ。望美、わかってる?オレをここまで本気にさせといて、本当に逃げられるとでも思ってるのかい」
ああ、この瞳だ。
反論したくても、否定したくても、あの紀ノ川の時と同じ瞳にいつもやられてしまうのだ。
それが例えどんなものであっても、どんなことであっても、信じてしまいたくなる。
望美は笑う。小さく噴き出すと、敵わないなあと呟いた。
「ヒノエくんは、本当に勝負事が好きだね。もしかして弁慶さんよりも謀りごとが上手なんじゃない?」
「褒め言葉になってねぇって」
望美の言葉に、心底げんなりした表情でヒノエが答える。その様子を見て望美が再び笑いだし、つられるようにヒノエの口元も緩んだ。
望美が腕を伸ばし、ヒノエの袖を摘む。ん?と、ヒノエが瞳だけで問いかければ、望美は笑顔でなんでもないと首を振る。どうせ触れてくれるなら、思い切り抱きついてくれたほうが嬉しいけど?と言うと、いつかねと望美が返す。
「いつか?」
「うん、いつか」
「それは、期待してもいいのかな」
「さーて、それはどうでしょう」
「意地悪だね。でも覚えておいて姫君。オレは本気だよ」
たとえ元の世界に戻ることが神意だったとしても。運命だったとしても。
「ああそうですか、なんて、死んだって言わねぇ。オレが従うのは姫君、あんたの意思だけだ」
「ヒノ……」
「覚悟が足りないのは、どうやら姫君の方らしいね。それとも、そんなにオレは魅力ない?」
「……っもう……」
そんなことなど思ってもいないくせに、憎らしい事を口にするヒノエに望美が膨れると、姫君の望みを口にしてるだけだけどね、と、更に憎らしい事を口にする。ヒノエの余裕めいた表情が悔しくて、腹立たしくて――だけど、愛おしくて。
「あきらめなよ望美。何度でも言うよ、おまえの世界に、オレ以上のヤツがいるとは思えないね。この世界じゃ尚更だ」
「もうっ、もう!」
「オレにしなよ。今だけじゃなくて、ずっとだ」
「もう!なんで、そんなに自信満々なのよ!」
「言わせてるのはおまえだぜ?自覚持てよ、望美。それとも、まだ言葉が足りないとでも言うのかな」
「じじじじじ充分ですっ!」
これ以上何か言われては本当に身が持たない。そもそも、元の世界にいた時も自分がもてたことなどないし、一番傍にいた将臣や譲はそれこそ兄弟のようなもので、だからこんな風にされる免疫などないのだ。それを以前言った時には、「周りがよっぽどの馬鹿か姫君が鈍いだけだね」と一蹴されたものだが。
「遠慮なんかしなくていいんだぜ?」
「してません!」
「じゃあ、態度で表そうか」
「へ?」
「神子姫殿、失礼を」
実に間抜けな声を出した望美に、ヒノエが不敵な笑みを浮かべると掠めるように唇を奪う。そのあまりの素早さに瞬きすら間に合わず、気がつけば先ほどと同じ位置にヒノエが戻っていた。
「口付けを交わした相手を見るには、ちょっとばかし艶が足りないんじゃないのかい」
「〜〜〜っ、ヒ、ヒノエくんーーーーーーっ!!」
呆然としたままの望美が可愛らしくて、あどけなくて、ヒノエが笑う。からかいの言葉に我に返った望美がぎゅうと拳を握り締め、どうしてやろうかと思案する間にもヒノエはするりと逃げる。
風邪を引く前に帰るよと歩き出すヒノエを小走りに追って、スニーカーの足で砂浜を蹴飛ばす。
運命でも。
神の意、でも。
求めるものを手放せるほど、幼くも賢くもなくて。
「ヒノエくんのばかっ」
「拗ねるなよ。帰ったらたっぷり可愛がってやるからさ」
「だからどーしてそーゆーことばっかり言うのー!」
神子でも、神子ではない、同じ年頃の少女としても。
愛しいと思う存在を、手離さない為に何でもしようと思う気持ちを、愚かだと笑えばいい。
(最後に笑うのはオレだ)
夜の闇が海に映る。
星の、光も。
Fin
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Comments:
ヒノったんでやっとばかっぷるっぽいのが書けたというか。
どうしても別れる別れない、とか、死ぬ死なないになるのは悪い癖だなあと思いつつ。
遥か3の大元だから仕方ないのかなあ(悔しいらしい)。
しかしあの、「たっぷり可愛がってやるから」発言には度肝を抜かれました。
そして片瀬がたんぞに落ちた瞬間。うああ。
ってこれ乙女ゲームじゃなかったんですか。邪まなのは片瀬だけですかそうですか。
20050422up
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