ぱちん、と、何かがはぜるような音が耳元でした。
同時にはらりと留めていた髪が一部解けて肩を撫でる。みっともない頭になってしまったと千尋は慌てて髪を押さえた。
「姫さん? どうした」
「あ、サザキ!」
一番見られたくない相手が自分を呼ぶ。出来ればサザキにはいつも綺麗な自分をみていて欲しいのに、と、胸の片隅で乙女心が主張するが、手がふさがってしまっている今、頼れるのは彼しかいない。
「あのね、髪留めが壊れちゃったみたいなの」
一度ハーフアップにした髪に下の髪を編んで巻きつけているのだが、どうやら大元の留め具が壊れてしまったらしく、ずいぶんとみっともないことになっている。
少しばかり泣きたい気持ちになりながら千尋が言うと、サザキが大柄な身体には似合わない軽やかな足取りで近付くと、やはり大きな手でそっと千尋の髪を触る。うなる声が頭上から響き、その声からどうやら修復は無理らしいことを悟り、千尋はがくりと落ち込んだ。
「うーん、ちぃと難しい感じに壊れちまってるなあ。一度解いたほうがいいと思うぜ? 壊れたやつは、カリガネにでも相談しといてやるからよ。アイツなら手先は器用だし、大抵のものは直せるから安心しろって!」
まるで自分の手柄のように言うサザキに、落ち込んだ千尋の気持ちが浮上する。からからと笑う声は、いつだって自分に安心と前向きさをくれるのだ。あの戦いに追われた日々が終わり、こうして穏やかな日々を過ごすようになっても、その時々で起こる小さな事件ですら変わらない。
「サザキ、悪いけど一緒に部屋まで来てくれないかしら。このままだと扉を開けるのも一苦労なの」
「ああ、いいぜ。お安い御用だ」
手を離した途端、余計にみっともない姿になるのは火を見るより明らかで、例え一瞬とは言えそんな姿を誰かに見られるなど想像もしたくない。
サザキはなんとなくだが千尋の気持ちを察し、彼女の後を付いていく。無意識に常より広げた翼は、今の姿を見られたくない千尋を庇うように軽く包んでいる。
千尋は無論そんなサザキの優しさに気付き、じんわりと広がる温かさをかみ締めた。顔を少しあげて、視線の合ったサザキにそっと微笑む。それだけで十分伝わる互いの想いは、重ねてきた時間の賜物で。
子どものように奔放なくせに、誰よりも深い優しさを持っているヒト。落ち着きがないように見えて、どんな時だって余裕を失わないヒト。
だから自分は、いつだって前を向いていられたのだと、いられるのだと、こんな些細なことでも思い知らされる。
「サザキの翼は、陽の匂いがするわ」
「ん? そうか?」
サザキが興味深そうに自分の羽をばさりと揺らして鼻を動かす。その仕草を見て千尋が笑い、サザキが少し照れたように唇を尖らせた。
サザキに扉を開けてもらい自室に入ると、中途半端に崩れていた髪から手を離し、壊れていた髪留めも含めて全てを外す。元々まっすぐな髪質ではあるが、ずっと縛っていると緩くではあるが縛り癖がつくのを、仕方ないと思いつつ手のひらでさする。
サザキが手を伸ばして、千尋の黄金の髪に触れる。普段は結ばれているそれは、寝る時位しか解かれることがない。こんなにも見事な宝をその身に持っていながら、隠すように結ぶなど勿体無いと思っていた時期もあったが、どうやら幼い頃のトラウマも関係しているらしいと知ってからは、あえてそれには触れずにいた。
「綺麗だよなあ」
思いは呟きとして零れる。髪の色を色々言われて育った千尋としては、賛辞すら珍しいからだと脳内ですり返られて寂しい痛みを覚えることが多かったが、不思議とサザキの言葉はすんなりと受け入れられる。
「ありがとう」
そういえば、風早が褒めてくれた時も嬉しかったな、と、今はもう離れてしまった家族を思う。本当の家族ではなかったけれど、同じように、ある意味それ以上に自分の傍にずっといてくれた。
小さい頃は風早が自分の髪を梳いてくれて、結ってくれていたことを懐かしく思いながら、サザキの好きに任せて千尋はじっと動かずにいる。サザキは珍しいものをただただ楽しむように、確かめるように、細く柔らかな金糸に夢中だ。
夜、寝所を共にする時も長い髪が邪魔にならないようにと肩下で緩く結わいて寝ているから、今のようにただ降ろしているのは珍しい。もう、昔のようにこの髪の色をどうこう言う人間はいないのだが、船の上での生活がほとんどになってからは、海風から髪を守るという意味でも降ろすつもりはない。
ならば切れば良いのだが、あの戦いが終わってからなんとなく切るのが躊躇われて今に至る。戦いで切ったものを、戦いが終わって伸ばす。意味がないとわかっていても、千尋にとってみれば祈りのようなものだった。
暫くじっとしていたのだが、サザキがあんまりに長く触るものだから、だんだんと照れてくる。絡めては解き、解いてはするりと絡める。一体いつ飽きるのだろう、としかし、一向に飽きる気配がない。
「あの……そろそろ、いいかしら」
「ん? ああ」
名残惜しそうにサザキの指先から零れ落ちた髪を視界の端に捉えながら、千尋は髪留めなどを入れてある小箱を開ける。耳の端がちりちりと熱を持って痛い。
だから、だったのだ。普段だったら、きっとこのような失敗はしないのに。
「――――っ!」
箱を開けて。
「……姫さん?」
開けるや否や、ものすごい勢いでばたんと蓋を閉じた千尋をサザキがきょとんと見ている。一方の千尋は箱の蓋を押さえたまま、がちりと固まったままだ。
明らかに不審な行動をとってしまい、取り繕う方法がない。しかし、だからといってこのままやり過ごせる訳がない。どうしよう。どうしたら。
ぐるぐると回る頭の中を、整理しようとする端から渦が巻いていく始末。サザキは固まった千尋を見、ついでその手が押さえている小さな小箱を見た。
そしてその、蓋と本体の隙間から。
「……羽?」
サザキの言葉に、千尋がば、っと顔を上げると再び手元を見、そして一連の動きの原因となったものが悲しくもはみ出ていた。
「あああっ!」
傷がついてしまう、と、千尋が慌てて蓋を開けてそれを取り出す。そしてやはり軽く折り目が付いてしまった羽を悲しそうに見つめ、必死で指で撫でて伸ばした。
千尋の手の中にある羽は、海鳥の羽でもなければカラスの羽でもない。日向の一族ならではの、大きくて筋の張ったもの。
じい、と自分の手元に注がれる視線を感じ、千尋が恐る恐る顔をあげる。
「誰のだ?」
予想外の硬い声に、思わず返事が止まる。
そのせいで更にサザキの表情が強張り、思わず手の中の羽にすがるようにきゅ、と力を込めた。
「それ、鳥の羽じゃないだろ。オレが間違える訳がねえ、それは日向の一族のもんだ」
サザキが何を問いたいのかがわからず、千尋は頷くことも出来ずにただ言葉を聞くしかない。何故サザキは、こんな怖い顔をしているのだろうか。
羽をしまっていた箱の中には、髪飾りの他サザキから貰った手環も入っている。他にも、大事にとっておいてあるものが幾つもだ。
それがサザキにも分かるから、問い詰めずにはいられない。例え今がどうであれ、宝物と一緒に取っておくほど思い入れのある羽の持ち主が、誰なのかを。
そして感情のままに問い詰めようとして、とどまる。千尋の怯えたような顔を見、自分がしているであろう表情を想像し。大人気ないと、心の中で舌打ちをした。
「いや……別にあんたの今の気持ちを疑ってる訳じゃねえ。そうじゃないが……その、やっぱ……」
千尋が隠したのは、後ろめたい何かがあるから。だからこそ聞かずにはいられない。
今千尋が自分と同じ気持ちでいてくれることを疑う訳ではない。その程度の気持ちならば、国を捨ててまで一緒になど来る訳がない。
頭ではそう分かっている。なのに、気持ちが粟立つ。それを無理やり押し込めるようにサザキは長い朱色の髪をかきあげて大きく息をついた。
「サザ、キ?」
「っだーーーーっ!! 駄目だ、やっぱ気になる! なあ姫さん、その羽の持ち主って誰だ? オレの知ってるヤツか? いつ頃の話だ? だってあんたがこっちに戻ってきてから、割と早くオレと出会ってたよな? オレの勘違いじゃなけりゃ、出雲の辺りではなんとなーくそんな感じになってたとか自惚れてるんだけどよ」
がりがりと頭をかきむしったかと思うと、いきなり矢継ぎ早に質問を始めたサザキに千尋が目を丸くした。文字通り言葉を失い、サザキの勢いに息を呑む。
そしてその内容を反芻して。二回ほど反芻して。
「なに、言ってるの?」
「何って! だからあんたが持ってるその羽の持ち主をだなあ」
「なっ、ちが、これ、サザキのだよ!」
ようやく事態を察した千尋が、真っ赤になって叫ぶ。てっきり自分は、勝手に彼の羽をこっそりと持っていた事に対してサザキが気分を悪くしたとばかり思っていたのに、どうやら全く違う方向で彼は気を荒立てていたようだ。
千尋の言葉を聞き、今度はサザキが言葉を失って目を丸くする。へ? と、間抜けな声が唇から漏れ、真っ赤な顔で睨む千尋を見下ろした。
「何で私が他の誰かの羽を大事に持つのよ!」
「だ、だってよ! じゃあなんで隠すんだよ」
「そんなの恥ずかしいからに決まってるじゃない! もう……ずっと隠してたのに……」
恥ずかしさのあまり逆ギレさながらにサザキを責めてから、千尋は羽を握り締めた手を額にあててしゃがみこむ。
対するサザキはまだ良く事態が飲み込めず、さらさらと零れて床に触れる髪ばかりが気になる。折角の綺麗な髪が、汚れてしまうのではないだろうか。
「ずっとって……ずっと?」
返事はない。
それが表す返事は、応。
混乱する心境を表すように、無意識に背の羽がわずかに揺れる。起こった風が微かに千尋の金糸を揺らし――真っ赤に染まった耳朶が見えた。
手のひらで口を覆って、触れた頬の熱さに自分で驚く。ああもう、本当にこの姫さんは。
「全く……反則だっつーの」
腰を落とし、千尋の体勢に自分のそれを合わせる。そして長い髪を両の手ですくい上げ、耳どころか頬まで赤く染まっていた愛しすぎる少女の名を呼んだ。
「羽なんか持っておく必要ないだろ? もう、オレ自身が姫さんのモンなんだからさ」
羽どころではない。この背の両の翼全部、そして身体も、心も全て。自由をモットーに生きてきた自分が、得られるならば唯一縛られても良いと思えた相手。
まとめた髪を片方の手で押さえ、空いた手で丸い後頭部をぽんぽん、と撫でてやる。
「だって……一番辛かった時に、お守りにしてたんだもの。戦いが終わったからじゃあお役ごめん、なんて出来ないわ」
偶然手に入れたサザキの羽。それがどれだけ自分の心の支えになったかなど、きっと誰にもわからないだろう。
羽を手に、笑顔になれた時もあった。そして羽を手にしながら、ただただ泣いた日々もあった。
それでもどんな時でも、この羽の持ち主を思うことで強くなれた自分がいて――その相手と想いを通わせられた今だとしても、手放せずにずっと宝物にしていたのだ。
「ごめんなさい……その、勝手に持っていて」
「や、そこは謝るところじゃねーだろ! っつうか、オレこそごめんな、勝手に勘違いしてよ、大人げなかったつうか男らしくなかったっつうか……」
口よどむサザキに、千尋が顔をあげる。上目遣いで注がれた視線がいつもよりも少女じみて見え、サザキが視線を逸らす。
そしてその視線を元に戻して。
「ほんっと……アンタは可愛いなあ」
こつんと、額を千尋のそれに押し当てる。
「可愛いって知ってたけどよ、姫さんはいっつもオレの想像の遙か彼方を行くんだよなあ、本当になあ、もうどうしろってんだよなあ」
「あの、サザキ?」
「なあ姫さん、オレどうしたらいい? こんなにも可愛いアンタの事、どうしたらもっと幸せにしてやれる?」
いつもよりずっと近い視線がまっすぐに自分を見ている。交わされる朱と蒼の視線。
混ざり合い、愛しさが滲む。
未だに羞恥が頬を焦がすのに、それすら丸のまま受け止めてくれる相手に胸が苦しくて。
これ以上の幸せなど、望むべくもないというのに。
「十分、幸せだわ」
「もっと幸せにしてやりたい」
「じゃあサザキが幸せになって? そうしたら、私ももっと幸せになれるから」
その為にはどうしたらいい? と、逆に問いかける。
暫くの沈黙の後、「反則だぜ」とぽつりと呟いたサザキが千尋を抱きしめる。柔らかな金の髪がそれでも痛まぬよう、彼女の背に回した腕で大事に掴んだまま。
両の翼すら、彼女を抱きしめるよう大きくしなった。
Fin
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アンジェ金八で配布したミニ冊子再掲。
サザ千はお互いに溺愛同士なくせに踏み込めなくてじれじれしてるばかっぷる推奨です。
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