ずっと一人だったように思う。
すぐ上の姉姫は自分にとっても優しかったけれど、母や周りの人が姉が自分に近付くのを余り良く思っていなかったのが分かったから、幼心にも姉の立場を考え、自分から離れていった。
それでも姉は、隠れている自分を見つけては優しく笑い、馬鹿ね、と言ってくれたけれども。
龍の声が聞こえない中つ国の姫。
異形の金の髪。蒼い瞳。
蔑まれ、恐れられ、隔離され。
だけど、自分が悪いのだと思っていた。直系の王家でありながら、龍神の声が聞こえない自分が悪い。忌避されている色を持って生まれた自分が悪い。
だからいつも謝っていた気がする。ごめんなさい、ごめんなさいと。
『俺は好きですよ。千尋の髪の色も、瞳の色も』
そう言ってくれたのは、最近従者としてあがってきた風早一族の息子。
『千尋の髪は、実り豊かな葦原の色。瞳は、どこまでも澄んだ蒼天の色でしょう?』
それに。
『聞こえないものをちゃんと聞こえないという。素直な千尋の心根が、俺は好きです』
そういって笑ってくれた彼がいたから、自分は自分でいられたのだ。
それでも聞こえてくる心無い言葉に幼い心は酷く傷ついて、良く宮を抜け出しては葦の草原で泣いていた。ここなら背の高い葦が自分を隠してくれる。似た色の穂が、自分の姿を隠してくれる、そう思って。
だけど風早はいつだって自分を見つけてくれた。どうして、と問えば、どうしてでしょうね、と、優しく笑いながら自分を抱き上げてくれていた。
その大きな手に、少しずつ自分の手の大きさも追いついていって、やがて埋まらないままにその差がぴたりと止まってしまった時に。
新しく生まれた気持ちに、気付けないでいた。彼を失ってしまうまで。
「千尋。起きてください、千尋」
夕暮れ時の葦の草原に、風早の声が響く。風になびき、さわさわと声を上げる葦達に呼びかけの声が消され、風早は苦笑しながらすっかり熟睡しているらしい千尋の肩を揺すった。
「風邪を引きますよ」
「ん……」
うっすらと開いた瞳に葦の輝きが映り、蒼瞳が浅黄に揺れる。その眼差しを柔らかく覗き込みながら、風早が苦笑した。
「かざはや?」
呼んだ声に、自分を目覚めさせた人物が律儀に返事をする。身体を起こすと、支えるように背中に手が回った。
「夢を見てたみたい」
「夢、ですか」
覚醒しきらぬ意識のまま、千尋はこくりと頷いた。
「小さい頃の話。風早が、私のところに来てくれた時の」
それは最早、この時空の話と言っていいのかどうかわからないが、二人の共通した思い出ではあった。
「今みたいに、風早が私を迎えにきてくれた頃の夢」
起こしてくれた風早に礼を言いながら千尋が笑う。随分と懐かしい夢を見た。
起こした半身で膝を抱える。そして膝頭に頭を預けて風早を見上げる。
「風早はいつも私を見つけてくれるのね」
千尋の言葉に、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた青年が苦笑した。以前の自分は千尋と契約をした麒麟であったから、その場所は望まずとも分かっていただけなのだ。
「ずるをしていましたからね」
「ずる?」
「ええ。それこそ神の領域です」
千尋の信頼しきった眼差しを裏切るようで、なんとも言いにくいが嘘をつく事も出来ずに風早は正直に告げる。
千尋はくるりと瞳をまわし、けれど次の瞬間にはくすくすと笑い出した。
「でも今は人でしょう? 風早は、神様でも人間でも、いつだって私を見つけてくれるじゃない」
わざと自分を悪くいう言い方をする不器用な青年に千尋のほうが苦笑するしかない。どんな時も真っ正直で、自分を綺麗に見せようとしない風早が昔から好きだった。だからこそ、自分も無理をしないで自然体で居ればいいのだと、いつからか思えるようになったのだ。
「参ったな。千尋も口が上手くなりましたね」
「ふふ、いつまでも子どもじゃないもの」
「ええ……本当に、綺麗になった」
肩口で切りそろえられた髪を、愛おしそうに指で梳く。小さい頃からこの姫の髪を梳く役目は自分が負ってきたが、いつの間にか気安く触れるのをためらうくらいの美しさを纏い始めてしまった。
「風早は、長いほうが好き?」
「千尋はどちらでも可愛いですよ」
臆面もなく告げる様は昔から変わらない。風早の千尋に対する溺愛っぷりは留まることを知らず、愛情を受ける千尋自体が戸惑ってしまうほどだ。
「風早といると、世界で一番可愛いーって勘違いしそうになるわ」
「勘違いじゃないですよ。俺がお育てした姫が世界中で一番です……っと、今の姫は俺がお育てした訳ではないですけどね」
風早が我に返ったように言葉を変える。9回もの運命の流転を繰り返し、自分でもわからなくなってしまっているとは。
「姫の御家族は勿論、忍人や柊、それに師君も皆、千尋を大事に育ててくださったのが姫を見ていると分かりますよ。もっとも、千尋自身の心根がとてもまっすぐだからでしょうけれど」
「風早も私を育ててくれたわ。何回も繰り返された私の人生の中にいつも風早がいてくれて、風早が教えてくれたことが沢山、私の中にあるんだもの。今回の運命だけで私が作られたわけじゃないって思う」
「嬉しいことを、言ってくれますね」
なら、自分が繰り返した運命も無駄ではなかったのだ。風早は目を細めて笑う。
千尋と過ごした記憶は、それこそ無限の時空の中にちりばめられている。幼い千尋、美しく育った千尋。王となり、この中つ国を統べ、あらゆる実りをもたらしやがて還っていった千尋。
この人生が終わったら、もう千尋を見届けることが出来ないのだと思うとやりきれない切なさが募る。それは、神であった頃の驕りでしかない。人とは、たった一度の人生に全てを賭けそして消えていく。短い命だからこそ、愛おしみ、触れ合い、怒り、泣き、絶望し。そして再び光を見つける強さを持つのだ。
「俺はもう神ではない。千尋、あなたの傍にいられるのもこの運命が最後かもしれません。人になったことを決して後悔はしていないが、それだけが心残りです」
葦がまるで同意をするように、一層強くざわりと揺れた。千尋の髪が舞い、元に戻る。ああ、寂しそうな顔をさせてしまったと風早は眉をひそめ、それでも安心させるように口元には笑みを残す。
立てていた膝を崩し、千尋の隣に完全に腰を下ろす。
「神ではなくなった俺はもう、千尋を見つけることが出来ない。あなたの魂の輝きを追う事はもう、出来ないのでしょうね」
どんなに傍に居たいと願っても。自分に許された時間は、あとたった数十年程度。
それでも奇跡なのだ。人となり、千尋の傍にこうしていられることは。取り戻されるはずのなかった記憶を彼女が呼び戻し、自分の名を呼んでくれて――大切だと、思ってくれていること。
千尋は言葉が見つからず、穏やかに笑う風早を見つめることしか出来なかった。
自分はいい。繰り返されてきた運命を知らずに今の自分を生きている。
だからこそ、この運命で一緒にいられる幸せがすべてで。先の事など考えられないほど幸せで。
だけどそれを言葉にしたとて、別の時空の自分も同じ言葉を彼に告げていたとしたらどれほど意味の無い言葉になるかをわかってしまっていた。
過去の自分も、今の自分も。
風早を求め、今が幸せだと告げていたら。
「それでも、風早はきっと私を見つけてくれるって信じてる」
風早の笑みが、驚いたように固まった。
「だって、今だって私を見つけてくれたでしょう? 神様じゃない、人間の風早がどれほど私を大切に想ってくれて、大事にしてくれてるか知ってる。神様だったからだとかじゃなくて、きっと昔からそうだったんだわ。風早だから私を見つけてくれたって」
「千尋……」
「だからきっと、記憶がなくなったって」
私が、何度もあなたを好きでいたように。
記憶を持たずに生まれてきても、風早を好きになったように、繋がるものはきっとあるはずで。
蒼い瞳がゆらめく。まっすぐに、風早の瞳を射抜いて。
気付いてしまったから。もう、ただの家族でも従者でもなく、誰よりも傍に居て欲しい人。
失って初めてその大切さに気付いた。もう、あんな思いはしたくない。
「私も風早を見つけるわ。覚えてなくったって、大丈夫」
そういって笑った千尋は、どの時空の彼女よりも一番美しかった。
愛しい。愛しい。
彼女が誰よりも、何よりも愛しい。
傍で見守る運命よりも、手に入れられたこの運命が狂おしいほどに幸せで。
見守るものとして触れるのではなく、想いを通わせたものとして触れられる髪。肌。視線を交わせることの悦び。
「口付けても、いいですか?」
「えっ!?」
「ああ、返事はもういいです」
いきなり何を言い出すのかと慌てた千尋の返事を待たず、延ばした手で頬を固定すると風早はそっと唇を重ねる。ああ、これが愛しさを伝えるということか。
初めて知る熱が胸の中を掻き荒らす。まるで、春の嵐のように。
「もう離さない……神にでも、渡すものか」
白き神が再び彼女を求めたとしても、渡す気など毛頭ない。その為ならば、人の身に落ちた自分でも、迷いなく立ち向かう決意はある。
細い身体を強く抱きしめると、抱きしめた少女の腕も自分の背に回る。焦がれた少女が今、自分の腕の中にいる喜びをかみ締め、守る決意を新たに。
「私は風早の傍にいるよ?」
「ええ、そうでないと困ります。姫はすぐにとんで行ってしまうから、探すのも一苦労です」
もう跳ぶことも出来ませんしね、と、風早が笑う。千尋も釣られてくすくすと笑い、二度目の口付を交わした。
神の定めた運命の輪から抜け出しても、二人の紡ぐ運命からは決してはぐれることのないように祈りながら。
ぎゅうと、手を握り締めて。
Fin
--------------------
Comment:
風早は麒麟じゃなくてもちゃんと千尋を見つけられるのだろうな、という希望。
そして、自分の手で運命を繋げていって欲しいと思う願いを込めて。
20080721up
*Back*
|