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●朱の証明 |
「い、った」
ちくりと指先に痛みを感じ、反射的に声を上げながら右手を胸元へと引き寄せる。
芽吹きだした春の恵をわけてもらおうと、近くの小川へと足を運び、葉や土や、わずかに残って固まった雪を避けるように掘り出しては山菜を摘む。
そのわずかな棘が刺さってしまったのだろう。私の指先に赤い雫がぷくりと浮かび上がり、傷が付いたことを教えてくれる。どうせすぐにふさがってしまう傷だとは分かっていても、その瞬間はやはり痛い。
指先を口に含み、わずかに広がった鉄の味を感じるかどうかの瞬間にそれは消える。出血した分が無くなったからではなく、出血を起こす傷自体が無くなったから。
「あ、でも……どうしよう」
傷の閉じた指先を確かめるように触ると、どうやら閉じた中に棘が残ってしまったらしい。ちくりちくりと微かながら痛みを覚える。
暫くの思案の後、日の陰りに押されるようにとりあえず家路を急ぐことにした。斎藤さんが帰ってくるよりも先に、夕餉の支度をしておかないと。
簡素ながらも暮らすに困らない斎藤さんと私の家に戻り、大慌てで夕餉の支度を始める。山菜の灰汁を抜いてから煮物にし、雑穀を炊く。ささやかだけれど、食べるのに困らない暮らしというものはまず安心感が違う。
帰宅した斎藤さんと食事を共にし、今日互いに起きたささやかな出来事を報告しあう。私からは、今日は天気が良くて助かったこと。春がそこまで来ているということ。斎藤さんからは、特段大きな動きはなかったということや、今日のような天気が良い日でも、ほとんど生活に支障はないという嬉しい報告。
夕餉も終わり、片付けをしようと斎藤さんの御椀に手を伸ばし、それを取ったところで指先にちくりと痛みが走る。反射的に、声は出さないまでも息を固めてしまい、耳聡い斎藤さんがそれに気付いた。
「どうした?」
「あ、いえ、大した事じゃないんです」
言いながら御椀を取り直そうとしたところで、その手首を掴まれた。斎藤さんの手が私の手から椀を奪い、それと私の手をそれぞれじいと見つめる。これはもう、きちんと話さないと納得してもらえないなと悟り、昼間の出来事を報告した。
斎藤さんは棘が刺さったままであろう指をじっとみつめ、私に小刀を持ってくるように言う。その意図を悟った私はぶんぶんと首を横に振り、その提案を拒絶した。
「このままだと膿むぞ」
「大丈夫です、膿んでもすぐ治りますし」
「棘が抜けきるまでそれを繰り返すのか?」
「う……でも、だって」
不意に怪我をするならともかく、意図を持って自らを切るのは怖い。
言えば馬鹿にされそうで言えず、けれど言葉なくとも察してくれた斎藤さんは、やっぱり少し呆れたように、けれど優しく口元を緩めた。
「痛くはしない」
指に刃を立てて痛くないはずがない。のに、斎藤さんがそう言うと本当に痛くないように思えてくるから不思議。
それに、そんなこと言われて尚、逃げられるわけなんか、ない。
(ずるいひと)
心地よい嘘を信じ、私は持ってきた小刀を斎藤さんに渡すと、彼は囲炉裏の火でそれを軽く炙ってくる。どの辺りだ? と問う彼に刺さった場所を教え、鋭利な刃が当たるのを感じて私は思わず身を固くした。
我ながら臆病だなとは思うけれど、怖いものは怖い。
「千鶴」
柔らかな声に名を呼ばれ、え、と意識をそちらに向けた瞬間、ひやりとした感触が指先を走る。
痛みを感じる間もなく赤い筋が走り、やがてぷくりとした珠になる。斎藤さんは一度、その雫を綺麗に舐め取ってから傷口の下を強く指で押し、唇を寄せるときつく傷口を吸う。
「ん……」
傷口を押される痺れと、温かな舌の感触に声が漏れる。
こんな時だというのに、自分の指が斎藤さんの唇に、舌に触れられているという羞恥に震える。
やがてどれくらいの時間が経ったのか。実際は短い時間だったろうけれど、私には凄く長く感じたその時間が終わり、斎藤さんが顔を上げた。
どうだ、の問いに、すでにふさがった傷口を押さえて確認する。先ほどまであった、内側から引っ掻くような痛みはない。
「大丈夫みたいです。ありがとうございました」
「痛かったか?」
「いえ。斎藤さんの言うとおり、痛くなかったです」
かちん、と音を立てて小刀が仕舞われる。私はそれを受け取り、照れ隠しのように笑った。
「……怖かったのだな」
ぽつりと零された言葉に、何のことかと目を瞬くと斎藤さんの眼差しがわずか暗く陰る。
「おまえが、俺の為にその身を傷つけてまで血をくれた時だ」
「あ」
明確に言葉にしたことで、斎藤さんの眼差しが余計に沈んだものになる。私は慌てて両手と頭をぶんぶん振りながらその言葉を否定した。
「全然怖くなんかなかったです! 説得力ないかもしれませんけど、本当に怖くも痛くも、全然、ほんと……っ」
「気遣わずとも構わない」
「本当ですってば!」
思わず声を大きくした私に斎藤さんは驚いたようだったけれど、興奮した私はそんなことを気にしている余裕もなかった。
ただ必死で、本当に違うのだと伝えたくて思わず斎藤さんの手に取られたままの小刀に手を伸ばす。
「おい、何を――」
「本当に、斎藤さんの為だったら私、傷の一つや二つちっとも」
悲しそうな斎藤さんの眼差しが辛くて、本当に嘘じゃないことを伝えようと引き抜いた刃で腕に赤い線を引こうとする。けれど目的を達成する前にものすごい力で右腕を固定された。
「馬鹿な真似をするな!」
珍しく声を荒げた彼に、びくりと肩が大きく震える。
「あ……ごめ、んなさい。あの、でも」
私の手を掴んだものとは反対の手で小刀を取り上げ、斎藤さんは大きく息をつく。そうしてゆっくりと私を見、掴んだ腕を自らに引き寄せた。
「……俺が悪かった。あのような物言いをすれば、おまえがどう返すかなど予想がついたものを」
気付かぬうちに、どんどんおまえに甘えているのだな、と、まるで独り言のように呟いた言葉に私は又頭を振る。
「本当ですよ」
分かって欲しくて、子どものように同じ言葉ばかりを繰り返す。
「本当に、痛くも怖くもなかったです。これからだって、同じです」
斎藤さんの胸と自分のそれに挟まれた手で、ぎゅっと彼の衣を握り締める。
「私が怖いのはいつだって、斎藤さんが怖い思いや痛い思いをすることです」
「……俺も、同じだ」
移動した手が、優しく私の後頭部を包む。そのまま顔を上向かされて、眼差しが交差した。
「例えおまえの傷がすぐに癒えるものであっても、だ」
「……ごめんなさい」
自分が取ろうとしていた行動の愚かさを改めて恥じ、重ねて謝ると抱きしめられる腕の強さが増す。心配をおかけしてしまったくせに、この腕の強さの分だけ嬉しいと思う自分はなんて浅ましいのだろう。
照れくさくて視線を外し、こてりと彼の胸に頭を預ける。片づけをしないといけないのに、今はここを動きたくなかった。
もう少しだけこうしててもいいですか、と掠れそうな声で問うと、斎藤さんは何も言わずに抱きしめ続けていてくれた。
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Comment:
書きたかったものと出来上がったものが若干ずれてしまいました…
精進精進。
20090218up
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