――ただ一人の親友は、北の地で元気に暮らしているだろうか。
京の町を軽快に歩き、千は遠い土地に住む同族の女鬼を思う。自分と同じ、純潔の鬼。違うのは、彼女――雪村千鶴は人として育ち、そして鬼であると知ってから尚も、人として生きることを選んだということ。対する自分は生まれてから今日までずっと鬼以外の何者でもなく、この先もそうであることを自らも望んだ。
鳥羽伏見により始まった戊辰の戦は、新政府軍の勝利と言う形で幕を閉じた。大阪城が燃え、天皇が東に移ったことで東京と名を変えた江戸と同じく、京都も同じくその様を変貌させていた。ころころと年号ばかりが変わり、実にいか程の変化も見られなかった江戸末期とは違い、明治となった新たな世は何もかもが変わっていく。思わず「待って」と縋ってしまいたくなるほどに。
大通りを逸れ、小道に1つ入ったところで気に入りの店がまだ続いていたことに安堵すると、千は以前から好んで食べていた甘味を店主に注文する。待っている間、そういえばこの店だけは千鶴ちゃんを連れてくることが出来なかったな、と、気がついて寂しげな笑みを零した。
今頃千鶴は、藤堂と仲良く暮らしているに違いない。藤堂の身を侵している羅刹の毒もいずれは、あの土地が持つ清浄な空気と水により浄化されるだろう。
羅刹として使ってしまった命自体は取り戻されることはなくとも、余生を「人間」として送れるのならば僥倖だ。
京や江戸とは違い、山奥には何もない。身を飾る綺麗な着物も簪も、流行の甘味も何もかもが手に入ることはない。その代わり、彼女は何物にも代え難い唯一を手に入れた。
そしてそれは、本当は。
「……いいなあ、なんて」
思うくらいなら、許されるだろうか。
幸せになって、と、願う気持ちにほんの少しだけ、憧れの気持ちを乗せるくらいなら。
運ばれたみたらしを口に運びつつ、見上げた空は気持ちが良いくらい透き通っている。けれど、彼女達が暮らす土地の空は、これよりも更に綺麗に違いない。
近々、遊びに行ってみようか。季節も大分暖かい時分になり、あと半月もすればあの土地でも足を向けるには丁度良い季節になるに違いない。
そう思いながらもう一本の団子に手を伸ばすと、皿に乗っていたはずのそれが消えていることに気付く。
え、何、何で。気付かない間に二本食べていただろうか。いや、大体空の串は今手元にあるこの一本だけで。
「存外に阿呆だなおまえは」
頭上から聞こえた声は、正に想定外のものだった。反射的に顔をあげてしまってから、しまった、見なければよかったと千は思う。が、時既に遅く、その瞳が捉えたものは予想通りの男の姿だった。
「何であんたがここにいるのよ……」
しかもその手に持っているものは、自分が探していたもう一本の団子だ。勝手に現れた挙句勝手に人の物を食べるなどどんな神経だと怒鳴りつけようとしたところで、「人間が作るものにしてはまあまあだな」などという何処までも上から目線な発言に、げんなりとその気力を奪われた。
千の質問には答えず、黙々と団子を食す風間を横目で見、茶を啜る。食べられてしまった分を再度注文しようかとも思ったが、これ以上この男と一緒にいる義理はないとばかりに席を立った。
歩き出した千の後を、風間が無言でついて来る。最初はたまたま方向が同じなのかと思ってそのままにしていたのだが、最初の角を右に曲がり、二本先を同じく右に曲がり、更に一本先を左に折れたところで堪えきれず、千はぴたりと足を止めた。
「だからなんでついてくるのよ!?」
ぐるりと振り返り様に疑問と苛立ちをぶつければ、そうされた方の相手は寧ろ自分の方が不機嫌だと言わんばかりの渋面で言葉を返してくる。
「おまえがこちらの道を行くからだろう」
「そういうことを聞いてるんじゃなくて! あなた本当に風間の頭領なの? 相手の質問の意図くらい汲み取って答えを返しなさいよ」
「己の愚問を棚にあげ、相手に尻拭いをしろとは随分な理屈だな。京の鬼姫とやらは、長い歴史の中で頭の中身まで古ぼけたと見える」
「はぁ!? ひとの後を馬鹿みたいに無言でだらだらくっついてくる男の台詞とは思えないわね!」
「おまえが供も付けずに一人で歩いているからだろう」
何故この俺がこのような面倒くさい真似をせねばならんのかと、続けられた言葉に反撃の言葉がするりと喉の奥へ戻っていく。今、この男は何を言ったのか。
千の知っている風間という男の性格と、彼が取っている行動そして今向けられた言葉が一致せず、千が言葉を失っていると、風間が数歩の距離を詰める。鬼たる証である緋色の瞳が苛立たしげに細められ、自分を映す様を千は見た。
「新政府は樹立したが、人の世は一向に落ち着いてはいない。夜どころか昼の町とは言え物騒な事には変わらん。法は有って無きようなものに成り下がり、民を纏める役人どもの目も下までは行き届いていない。そんな中、女一人で歩くなど正気の沙汰とは思えんな。大体、いつもおまえの傍にいた女鬼はどうした」
「べ、別に、ちょっとした外出位一人だって平気だわ」
「フン、肝心な時に主の傍を離れるなど何の役にもたたんな」
「ちょっと、お菊を悪く言わないで」
千自身をなじっていた時の怒りとは別の種の怒りを向けられ、風間が鼻白む。す、と冷ややかさを増した眼差しは正に鬼そのものだが、そのような眼差しを向けられる覚えはない。
「あとは何処へ行くつもりだ。どうせ帰れと言ったところで聞きはせぬのであろう」
「当たり前でしょう。大体、何であなたにそんなことを指図されなきゃならないのよ。それに、幾らこの町が物騒って言ったって、私以上に腕が立つものなんてそうそういないわ。馬鹿にしないでくれる?」
「おまえの腕がどれ程のものかは知らぬが、この時世で刀に固執したまま左に差しているものは、それなりのこだわりがあるということだ。何があるかわからん」
言外に浅慮を改めろと言われた事に腹が立ち、き、と睨みつける。が、これ以上相手にしても無駄だと悟り、再び風間に背を向けると目的地へ向けて歩き始めた。
千鶴と藤堂なら。想いを通わせた者同士なら。きっと同じ速度で、にこやかに会話をしながら並んで歩くに違いない。
それはあの土地でも同じで。緩やかな時間を、個々に、そして供に過ごしているのだろう。他愛も無くすぎていく日々がどれ程に大切で愛しいものかを知っている二人ならば、例えば先ほどのような口論ですら楽しいものなのかもしれない。
心から好いた相手となら。どんなことだって。
風間は黙ってついてくる。こうなったら意地でも撒いてやろうかと歩む速度を上げて角を曲がった時、どん、っと強い衝撃を受けてよろめいた。
「何処見て歩いてんだ!」
見るからに浪人と分かる男二人組のうちの一人が、大仰に腕を抑えながら怒鳴り声を千に降り掛ける。確かに自分も不注意だったが、条件は相手だって同じはずだと思うものの、事を荒立てるのは得策ではないと千は神妙に頭を下げた。
「すみません、急いでいて」
「すみませんの言葉で、痛めた腕は治りゃしねえんだよ」
「ついてねえなあこれから一仕事だってのに。おい嬢ちゃん、俺達はな、これからやっとありつけた仕事に向かうところだったんだ。だがコイツの腕がこんなになっちまったら、折角の仕事もおじゃんなんだよ」
にやにやと卑下た笑いを浮かべながら片方が千にそういい、もう片方は無遠慮な視線を投げかけながらも痛そうに腕を擦る。
成る程、そういうことかと事態を察したものの、千はあえて「それで?」と続きを促す。こんな人間相手に、形だけとは言え謝罪の言葉を口にしたことを後悔しながら。
「俺達が稼げるはずだった金を、嬢ちゃんが用立ててくれりゃあそれでいい。なあに、慰謝料までくれとは言わねえさ、俺達だって悪人じゃねえんだからよ」
「そうそう、良かったな俺達が優しい人間でよ」
「そうですか」
言葉少なに返された言葉を、怯えと承諾と受け取ったらしい。浮かべた笑みを更に機嫌の良いものに変え、千にぶつかっていない方の男が言葉を続けた。
「本当なら3両と言いたいところだが、2両で勘弁してやるよ」
が、返された言葉は。
「馬鹿じゃないの」
「そうそう、素直に……って、……今何て言った?」
想定外の言葉にわが耳を疑い、男が聞き返す。と、救いようがないとばかりに冷ややかな視線を向けられた。
「頭だけじゃなくて耳まで悪いのね。馬鹿じゃないの、って言ったのよ」
「な――っ! てめえ、いい気になってんじゃねえぞ!!」
恫喝と共に男らの手が左腰へと添えられる。咄嗟にざ、っと二歩ほど男らより距離をとり、千は忍ばせておいた懐剣を鞘ごと取り出す。
が、それを鞘から抜くよりも早く、閃光が目の前にひらめいた。
「ぎゃあああああ!!」
醜い悲鳴の次に聞こえたのは、切られた腕がぼとりと地面に落ちる音。
「腕、俺の、俺の腕ええええええ!!」
「女にぶつかった程度で痛む腕など、失ったところで然して問題あるまい」
痛みと受け入れられない事実に狂乱する男を他所に、腕を切り落とした風間が刀を一振りし、付いた血を地面へと振り払う。あまりの出来事に千が瞬きすら出来ずにいると、腕を失った男の相棒が無謀にも刀を風間へと向ける。
やめておきなさい、と、千が口にするよりも早く風間の刀が空気を裂いた。ぎん、と鈍い音がしたかと思えば一振りの刀が宙を舞い、離れた場所へと落ちる。
そして。
「不快だ。その虫けらと、もがれた腕を持ってさっさと消えろ」
喉元に突きつけられた白刃と底冷えのする声。そして何よりも深紅に染まった眼差しが恐ろしく、頷くことも出来ぬままに男は必死で相棒を引きずり始めた。
あの男の瞳の色に比べれば、相棒の肩から漏れる赤も、すでに「もの」となった片腕から漏れる赤も可愛いものだ。腕、腕、と繰り返す絞るような絶叫すら、向けられた宣告よりも軽やかに聞こえる。
あの男は一体、何者なのか。
最早知る由もなく、男はその場を後にする。肩に担いだ相棒の身体を、ずるずると引きずっては赤い跡を残して。
残された静寂の中、懐紙を取り出した風間が刀を一拭きし、鞘へと納刀する。
捨てられた、赤に身をまだらに染めた白い懐紙が、地面に広がった赤までを吸い込んで更に色を変えていく。その様を見、千が「あそこまでする必要があるの?」と呟いた。
「たかが人間風情が誇り高き我ら鬼に刃を向けたのだ。本来なら命を以って贖うべきだろう」
腕一本で済んだのだから、逆に感謝しろとでも言いたげな口ぶりに、千の眉根が寄った。
「大体、あんなヤツら私一人でも十分だったわ。別にあんたが助けてくれなくったって」
「己を過信するな。それに」
風間が距離を詰める。身構えた千の頬に手を伸ばし、千が身構えるのも構わずその白い頬に飛んだわずかな血糊を親指で綺麗に拭った。汚らわしいとでも言うように、眉間に皺を寄せながら。
「ヤツらはこの風間の妻になるおまえに刀を向けた。俺が刀を抜く理由など、それで十分だ」
おまえ一人で対応出来るか否かは問題ではない、と。そう言い切られてしまえば一瞬とは言え返す言葉を失ってしまった。
勘違いしてはいけない。風間の指す「妻」とは千個人の事ではなく、あくまでも役職のようなものだ。その役職についたものを護る義務があるというだけで、決して千個人をそうと思った訳ではない。
自分たちはそんな、「情」で繋がっている関係ではないのだから。
「……一応、お礼だけは言っておくわ」
「愁傷だな。何、気にするな。夫が妻の身を守るのは当然の事だ」
「勘違いしているようだから言っておくけど、私、あんたの子供を産んであげるとは言ったけど誰も妻になるなんて言ってないわよ」
千の発言に、今度は風間の眉根が寄った。
「おまえは他に女を作るなと言わなかったか」
「言ったわ。当たり前でしょう? この私が子供を産んでやるって言ってるのよ。他の女を作る理由が見当たらないわね」
「ならばやはり、おまえがこの俺の妻だろう」
「は? 何でそうなるのよ」
「おまえは馬鹿か」
何であんたはそんなに態度も口も悪いのだと千が言い、頭の悪いおまえに言われたくはないと風間が返す。
今は知る者が誰もいなくなった町を、知らず並んで歩きながら。
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Comment:
風間千姫はケンカっぷる万歳でよいと思うのです。
言葉足らず同士で知らずに惹かれあって、それなりに幸せに暮らして
くれたらいいなと。
20100731
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