** Happy C×2 **
 ●晩夏、落陽 2

 本当は心のどこかで分かっていたのかも知れない。
 後悔というものは、しようと思ってする人間などおらず、結果的にそうなってしまったからこそのそれであると。
 そのためだけにあり続けた自分の存在が否定されるかの如く、守りたいと思った対象の命が潰えたと聞いたのはそう遠くない過去。
 あの、この世の陽の部分を全て集めたような存在が、踏みにじられる虫けらの如く斬首に処されたと聞いて、まず思ったことは「ありえない」だった。だって、そのような理は己の中に一片だって存在しない。そのような事があっていい訳が無い。許される、訳がない。
 あるとすれば、意図的に歪められた運命によってだ。そしてその、自分が何よりも至上の存在として頂いていた近藤の歩む道を、整えるのも歪ませるのもたった一人の存在しか知らない。日野の時代から共にあった土方歳三その男だ。
『どうして助けなかったんです!? あんたなら、土方さんならできたはずだ!』
 胸倉を掴み上げ、激昂のままに非難の言葉を浴びせかけた自分に、けれどあの男は言い訳の一つもしなかった。同時に、謝罪の言葉も。
 それが総司を酷くいらだたせたのだが、きっとその理由も自分はわかっていた。謝罪をするということは、何か出来ることがあってしなかったということ。謝罪をしないということは、己に恥じることが無いと同時に、心を殺してまでも近藤のそれを尊重したという現れだ。
 だから余計に苛立った。そんなことを知りたいのではない。どうせならばもっと、自分が思うような絶対悪として存在してくれたのならばどれ程この心は凪いだかもしれないのに。
 あんたなら出来たはずだ、助けられたはずだとぶつけた言葉は、そのまま自分の無力さを思い知る羽目になる。そう、自分は出来なかったのだ。助けられる距離にも、存在としてもいられなかった。
(どうして)
 どうしてそう在れなかったのだろう。近藤の為に、刀であり続けることが自分の存在意義だった。その事に対する悔いはない。それは、断言できる。
 けれど。
 力の限り土方を殴りつけた拳が震えていたのは、何故だったのだろう。
(もし)
 そう、もし。
 刀で在り続けること以外に自分にも出来ることがあったのなら。そして、そうすることが出来たのなら。
『なんだ総司、また誰かに苛められでもしたのか』
 あの、あたたかな人は今も。
『総司』
 今でも。
『男なら、常に顔をあげてなけりゃいかんぞ』
 笑って前を、向いていてくれていたのだろうか。
 いつまでも自分を子ども扱いし、無骨なてのひらをこの頭に乗せてくれたりしたのだろうか。




「近藤さん……」
 零れた名は、隣にいた妻にも聞こえてしまっていたらしい。庭に植えられている見事なまでの桜が、夜風に吹かれて揺れる様にらしくない感傷を刺激されたようだ。総司は心配そうな眼差しを向けてくる妻に微苦笑を返した。
 長い間放っておかれていた桜は、手入れなど元から不要とばかりに美しい姿でそこにあった。元々、草木はありのままに生えて育ち、時がくれば枯れていくものだ。人の手が必須となる命など、彼らの中には存在しない。そう思えば当然の事ながら、あまりに見事な美しさに人としての傲慢さを教えられる気分になる。
 自然の中に在る彼らは強い。弱いのは、それらの恩恵を受けながら庇護してやっている気になっている自分たち人間だ。
 それは、この娘にも言えるのだろうと、ふと気付いて総司はおかしくなった。運悪く羅刹粛清の場に居合わせた為に新選組預かりの身となり、娘として花盛りの時間を血と死臭にまみれた人斬り集団と共に過ごすことを余儀なくされ。
 何も出来ない子供。庇護されるだけの子供。けれど気付けば、気まぐれで守ってやっていただけのその存在に、数え切れぬほどに支えられ救われていたのだ。
 ただそこに在るだけの存在。それ以上でも以下でもなく、本当にそれだけだったのに。
 ふと気かつけば、何物にも負けぬ矜持でやはり在り続けていた。それがこの動乱の時代でどれ程に稀有なことかなど、言葉にするまでもない。
 千鶴の手が総司のそれから盃を取り、代わりとばかりに湯飲みを置いた。別に酔ってなどいないと口を尖らせると、そうでなくともそろそろ控えてくださいと返された。
「千鶴は心配性だなあ」
「総司さんがご自分を省みてくださらないから、私が倍心配するんです」
「じゃあ仕方ないか」
「どうしてそこで、改めてくださらないんですか」
 歳の割りに幼い仕草で膨らんだ頬をつつけば、変な音を立ててそれがしぼむ。立った音に恥じ入った千鶴の頬が、宵闇の中でもはっきりと朱に染まり、けたけたと総司が笑えば、きゅ、と手の甲をつねられた。
 大して痛くないそれは、寧ろ甘やかな痺れを与えるばかり。こんな時ですら優しい妻に、総司はあえて痛がったふりをして「ごめん」と謝罪を口にする。そして千鶴も、怒ったふりをやめて許す。遊戯にも似た、柔らかな二人の時間。
 おとなしく手に取った湯飲みから、一口啜る。酒に馴染んだ舌に、茶は常以上の渋みをもたらしたが、今は何故かこの渋みがいいと思った。
「改めようと思って改められるくらいなら、きっと後悔なんてせずにすむんだろうね」
 不意に変わった夫の声音に、己の湯飲みに伸ばしかけていた千鶴の手が止まる。
「っていうか、その時は自分の真実だったとしても、進んだ先の自分にとっての真実じゃなかったからって、過去を悔いるのも勝手だと思わない?」
 そこで、そのときはそうだったから。だけど、今はそうじゃないから、の一言で片付けられる問題ならばいい。主義主張の問題であればなおさらだ。
 けれど、そこから派生した問題によって、自分の大切な何かが歪んでしまったのなら、どうすればいいのだろうか。
 湯飲みを置き、総司はじっと己の両の手のひらを見つめた。刀を握らなくなって久しく、竹刀だこが連なって厚くなっていた五指の丘は、今や穏やかな平地になりつつある。
「あの人の刀であった自分を、悔いることはない。それはきっと、この先もずっとだ」
 じい、と自分を見つめる千鶴に視線だけをやり、総司は言葉を続ける。
「僕が病に倒れた時、君は言ったよね。刀で在り続ける以外に、近藤さんの為に出来ることがあるはずだって」
 千鶴は頷けなかった。言った言わないでいえば首は縦に振るべきところだが、会話の流れからすると、どうしてもそうすることは出来ない。
 だって自分が言ったのは、決してそういう意味ではなかったのだから。
「あの時の僕はそんなこと考えもつかなかったしありえないとか思ってたけど、もし、君の言うとおり、僕が」
「総司さん」
 手を伸ばし、上に向けられたままだった総司の手のひらを取る。今度は視線だけでなく顔ごとを向けてきた総司を正面から見据え、千鶴はしっかりと首を左右に振った。
「私があの時言ったのは、そういう意味じゃないです」
 刀の代わりに、という意味ではない。刀でなくとも、という意味だったのに。
 泣きそうな顔で首を振る千鶴からそえられた手を握り返し、「ごめん」と又謝った。自分は今、ずるい言い方をした。
「それでも僕は、あの人の役に立ちたかったんだ」
「立ってましたよ」
「そうかな」
「そうです」
 ――だと、いいな。
 自分より遙か高い位置にある頭が千鶴の肩口に預けられる。首の筋を痛めてしまわないかと心配した千鶴が、背筋を伸ばして高さを調整すれば、今度はそんな気遣いは無用とばかりに引き寄せられて強く抱きしめられた。
「あの人さ」
 かさ、と、二人の間でつぶされた着物が音を立てる。
「あの人だってきっと、責めたって良かったんだ。おまえが居れば守ってやれただろうとか、刀だって散々言ってたくせに、肝心な時にいないんじゃ意味がねえ、とかさ。だけどそんな言葉、絶対言わないんだよね」
 余計腹立たしいよね、と、前の会話からは変わった「あの人」が指す人物を千鶴も思い浮かべて、寂しさの滲んだ笑みを浮かべた。
「言うもなにも、思ってらっしゃらなかったと思いますよ?」
「何で庇うの」
「庇うとかじゃないですよ……! もう、どうしてあの方の事になると、そうやってすぐムキになるんですか」
「だって好きじゃないんだ」
 だけど、嫌いでもないんですよね、とは言わなかった。言う必要が、なかったから。
 千鶴を抱きしめたまま、総司は瞼の裏にその姿を思い浮かべる。いつだって眉間に深い皺を刻み、怒鳴るかため息をつくかだった人物。誰よりも近藤からの信頼を受け、応え続けた男。
 あの人だから、の一言で片付けるのはとても簡単で。だけどそれはただ認めたくなかったからだろうと今ならば分かる。向けられた信頼に応えつづけることの重み。近藤の思想と組織としての方向性の狭間で、彼が何を思っていたのか、など。
 考えたくなかったのだ。自分は。
「僕は、後悔ってすごい嫌いなんだ。昔、いつだったかな、斎藤君ともそんな話をした事もあるんだけど、後悔なんてするくらいなら死んじゃったほうがいいとか思ってたし」
 それは又随分と極端な、と千鶴は驚いたが、同時に総司らしいと納得もしてしまう。
 緩められた腕に導かれるように身体を起こし、そのままの姿勢で総司を見上げる。宵闇に溶けて昼間よりも暗い色の眼差しが、月を見つめて不思議な光彩を放っていた。
「生きている限り、後悔なんて無縁だと思ってたんだけど……上手くいかないものだね」
 言葉にしたら、土方を殴りつけたほうの腕が何故か震えた。
 そしてそれを包んでくれたのは、小さな手のひらふたつ。
「すごくすごく、生意気な事を言ってもいいですか?」
 意外なことを問われて、総司の目が瞬く。いいもなにも、今までだって彼女は散々生意気ともとれる事を言っては、自分に斬られそうになった事だってあるのにと、不思議でならない。
 それを指摘すると、情けない呻き声が返されて思わず笑った。いいから言って御覧、と促すと、漸く千鶴はそれを言葉にした。
「後悔、って、自分でどうにか出来たかも知れないってことに、使うんだと思うんです」
 ともすれば、総司や土方の行いを否定することにも成りかねない言葉を、決してそうではないという伝えたい真実だけを手探りで探しながら必死で言葉を紡ぐ。
「色々な事が重なって、どうにもならなくなって、だから、後悔というのとは少し違うと……思うんです」
 刀を握っていた証が少しずつ失われている手のひらは、それでも自分のものよりも大分厚く、固い。
 それに振り払われる恐怖と戦いながら、懸命に言葉を捜して。
「総司さんも……あの方も、今、振り返って悔いることなんて、何一つないと思います」
 だって自分は見ていた。仲間にもなれず、内に入れず、ただただ外からずっと。
 だからこそ見えた事が沢山あったのだ。あの人がどれほど、近藤のために、そして新選組のために奔走していたかを。
 そして総司が、どれ程の思いで近藤を慕い、刀で在り続けようと願い、誓い、そしてそう在ったのかを。
 何一つ恥じることなどない。日の本の向かう先がどうとか行く末がどうだとか。主義主張だの思想がどうだのだとか、そんなものではなく。
 ただただ手の届く大切な人や志の為に、「そう」在り続けたひとたちを誰が後ろ指など指せるというのか。罵声一つでも、浴びせられるというのか。
 ほんのわずかだって、こうできたのではなどと思える隙などない。あるのはただ、「今」という結果だけ。
 もしかしたら、もっと上手く器用に立ち回れたのかもしれない。けれどそれが出来るのは、あの人でも総司でもなく、きっと別の人間だ。ならばそれは最早、彼らにとってのあるべき未来ではない。
 だから――だから。
「総司さんは……後悔なんか、する必要ないです」
 望んでいた「今」でも「未来」でもなかったとしても。
 眩しいほどにまっすぐ前だけを向いていたあの頃を、ほんのわずかでも悔いてなど欲しくない。
 それは、自分の我侭でしかない。そして今はともかく、あの頃の自分は部外者で。
 わかっているからこそ、苦しい。悔しい。
 重ねた手は、振り払われることはなかった。けれど、握られることもなく、ただそこにある。
「する必要、ないです」
 彼が本当に欲しい言葉を言えたらいいのに、それが何かなんてわかるはずもなくて。
 そもそも、言葉など欲しくないのかもしれない。ただ、気持ちを吐き出したいだけなのかもしれない。人であるならば、そんな時は幾らでもある。
 だからこれは自分が言いたいことでしかなくて、仮に総司が過去を悔いる事で贖罪を求めていたならば、返って追い詰めてしまうことにすらなりかねない。何をどうしたところで、変えられるものなどないのだと言っているようなものなのだから。
 ごめんなさい、と、小さなこえで付け足された言葉に、ようやく総司の瞳に色が戻る。いつも思うが、千鶴の言葉は自分の知らない国のそれのようだと驚かされてばかり。
 少し前の自分ならば、何もわからないくせにと声を荒げていたか、言葉を交わす価値もないとばかりに存在自体を無視したかもしれない。なのに今それが出来ないのは、そうしないのは、千鶴の綴った言葉に響くものがあったからなのか、それとも千鶴という存在自体が自分にとって特別なのか。
 何で謝るのかな、と、問えば黙る。返事とばかりに返されたのは、気付けば震えの止まっていた手のひらを握る力。
 そうだったらよかった、と、願わずにいられない気持ちは、悔いる気持ちにとても似ていて。
 けれど決して一緒ではないのだと、多分千鶴が言いたいのはその事なのだろう。

 「刀以外」と、「刀でなくとも」が、似ているようでその実違うように。
 「そうだったらよかった」と、「そうできたらよかった」は違うのだと。


 ――多分。



「千鶴」
 握られたままだった手のひらを、握る。細い肩が震えて、うつむいてしまっていたせいで見えていた旋毛を軸に、黒髪が揺れた。
「千鶴」
 ゆるりと上げられた顔は、泣いてはいなかったけどやっぱり泣きそうな、叱られるのをおびえているようなそれで、そのくせ譲らないとばかりに瞳の奥に光る小さな灯火が見えた。
 昔はこれが鼻について仕方なかったな、と総司は懐かしく目を細める。大した役にも立たない子供のくせに、何故か時折賢しすぎる言葉を口にするのが気に入らなくてよく苛めた。すると言葉を無くさせることには成功したものだが、この灯火だけはどうしても消す事が出来なくて。
 けれど今は、このひかりがたまらなく愛おしい。
 胸にあふれる熱は、言葉にならずただただ渦を巻くばかりで、苦しくて。
 いっそのこと、その光で自分を焼き尽くしてくれればいいと願う。君にころされるのならばきっと、僕はどれだけ幸せだろうと何故かそんな事を考えた。
 気付けば自分の顔は笑みをかたどっていたらしい。千鶴が暫く伺うようにこちらを見ていたが、やがてこてりと自らの身体を預けてきた。
 経過する時間に比例して着物越しの体温が溶けていく。このまま一つの存在になれたらいい、と思いかけて、それでは千鶴を感じられなくなるから嫌だと思いなおした。
 庭の桜は、ただ静かに月光を受けて白く浮かび上がっていた。暫くそのまま二人で桜を通してそれぞれに思いを馳せ、互いを眼差しに映すとどちらからともなく、唇を寄せ合った。













Fin

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Comment:

北海道のホテルで、野原さんと沖田について語り合っていたときにふいに落っこちてきたネタ。
総司は「刀」であった己を悔いることは決してないと思うけれど、それ以上であろうとしたら
何か変わったのでは、ということを思うことはなかったのかな。とか。
近藤さんが好きであれば好きなだけ、生きていて欲しかったし、ならば、という思考は
人間誰しもするのではないかなと。

多分、沖田は心のどこかで悔やみつつ、そんな自身の悔しさも含めて全てを土方にぶつけて、
土方もそれをわかっていながら、それでも沖田の拳を受けたのだと妄想しております。
そんなことが許されるのが、この二人の関係なんだろうなあと。



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