** Happy C×2 **
 ●選ばざるを選ぶ

「沖田さん、失礼します」
  声をかけて、一拍を置く。返事がなければ、そのまま襖をす、っと横に引いて中に入る。
  わずかに篭っている空気を厭う様に、千鶴は開けた襖をそのままにして部屋の奥へと歩みを進める。手にもった桶の水が撥ねぬよう気をつけながら、床に伏せた部屋の主の眠りを妨げぬようそっと腰を下ろした。
  眠り、と言っても実際に寝ているわけではない。ただ静かに在るだけだ。
  失礼します、と再度口にして袂を押さえつつ沖田の額に手を伸ばす。じんわりと汗の滲んだその場所は、嫌なほてりを纏っていた。
  手桶の中に浸してある手ぬぐいをきつく絞り、額の汗を拭う。そのまま耳の裏、襟足とそれぞれを拭い、温くなってしまった布を再び冷やすべく水に浸したところでじっとしていた男が身じろいだ。
「君さ、暇なの?」
  返答に困る問いに、千鶴の返事が形を成さない。確かに他の隊士に比べれば自分は暇だが、別に暇だから沖田の世話をしているわけではないから頷くことも出来ない。
  そのような千鶴の戸惑いを知ってか知らずか、沖田はけだるげに片腕を持ち上げると、開け放たれた襖から入る光を厭うように己の両目を覆う。明るい光も、通り過ぎていく風も、何もかもが癇に障って仕方ない。
  この、娘の存在そのものも。
  こん、と乾いた咳を一つ。それだけで娘は頬骨を震わせる。ああ、ほんとうになんて厭わしい。
  二つ目の咳の後、沖田は「あのさ」と擦れかけた声で千鶴に問いを投げかけた。
「君にとって大事なものって何」
  言葉面以上に淡々とした響きが千鶴を絡め取り、何故か胸をえぐろうとするかのように黒き手を伸ばしてくる。手拭いの水が、絞りきるまえにぽたぽたと桶へ戻っていった。
「こんな僕の世話なんかしてる場合じゃないんじゃない? 大体君は唯の居候で、僕達の仲間なんかじゃないし、さっさと出てって父親でも何でも探しに行ったらいいじゃない」
「そんな……っ」
  手にしていた布を桶に戻し、身体ごと沖田に向き直る。すると、冴え冴えとした眼差しを腕の下から向けていた男が、頬をゆがめたかと思うと反対側を向いてしまった。
「私……確かに最初は父様を探すために京に来ました。でも、新選組の皆さんにあって、こうしてお世話になって、今更最初の目的さえ果たせればいいなんて、思ってません」
「だから何。僕らと命運を共にするとでも言うの?」
  ハッ、と嘲笑を吐き出し、くつくつと肩を揺らす。その笑いはやがて、咳き込むものへと変わっていった。
「沖田さん……っ!」
  向けられている背を擦ろうと伸ばした手を激しく打ち払われた。ばちん、と響く乾いた音が、二人の間に亀裂を生んだ気がして千鶴は思わず息を飲む。
「そうやって、幾つもの望みに手を伸ばして、全部叶うとでも思ってるの? ほんと、幸せな子だね君って」
「そ、んな」
「父親も大事、新選組も大事、君を苛めてばかりいた僕の心配までする。優しいって言う人もいるかもしれないけど、僕から見たら愚かなだけだ。ねえ、出来ることなんて限られてるんだよ。唯でさえ非力な君が、そんな細い腕で何をつかめるって言う訳? 神仏にでもなったつもり? それとも――ああ、哀れんでくれているのかな、僕のことを」
  自嘲が滲む声に千鶴が言葉を失う。そんなことは無い、と大声で否定したいのにそれが出来ない。
  沖田は確かに意地悪だけれども、こんなにも直接的な物言いで千鶴を傷つけることは稀だ。いつだって自分をからかう時は最初こそ真面目な顔をしている時も、最後には「冗談だよ」と言って笑う。殺すよ、とか、斬るよ、と口にする時だって同じだ。
  だけど今の彼はどうだろう。まるで鞘や鍔のない抜き身の刀身そのままの言葉を口にしては、相手ばかりか自分も傷つけているように思う。否、傷つけているという自覚もないままに、刃を握りしめている。そこから滲む赤いものが確かに自分には見えるのに、それを見て眉を顰める千鶴すら厭うのだ、彼は。
「出てってくれないかな。君がいると、苛々する」
  最早会話をする価値もないと言わんばかりに、そう吐き捨てて。
「僕は近藤さんの為だけに刀を振るう。それ以外のものなんて、どうでもいいんだ」
  ――沢山のものを手に入れようと、たった一つを選べない君にはわからないだろうね、と。
  言われたその一言に、返す言葉が何も見つからなかった。

  打たれた手の衝撃は遠に消えたはずなのに、何故かいつまでもじんじんと痛んで泣きたくなる。
  ゆらゆらと揺れる手桶の水が俯いたままの自分の顔を映していた。泣きそうに見えるのは、自分がそうだからじゃなくて表面の水紋のせいだ。
  庭に降り、手桶の水を捨てる。その水が土の表面に沿って広がっていく様をぼんやりと見つめ、広がりきっても尚、千鶴はそのまま背を丸めていた。
  胸が重い。ずっしりと、重い石が幾つも詰まっているように重い。
  自分が何に落ち込んでいるのかわからず、千鶴は抱えた膝に顎を乗せる。自分は何かを間違ったのだろうか。それとも、間違えているのだろうか。
「何をしている」
  いつもならかけられた声に驚いて飛び上がるが、現れた相手が千鶴が驚かぬようあえて足音を立てて近づいてきてくれたお陰で、そうならずに済んだ。もっとも、そうしてくれずとも今回ばかりは緩慢な反応しか返せなかったかもしれないが。
  夜の闇に溶けるような衣を纏い、現れた男に千鶴がゆっくりと立ち上がって向き直る。
  凪いだ眼差しが、まるで千鶴の心根を映す鏡のようにこちらを見ている。深い色の深い光を正面から見つめることが出来ず、千鶴は己の視線を地面へと落とした。
「私、欲張りなんでしょうか……」
  斎藤も沖田と同じく、ただ一つ己のうちにある志の為に新選組に身を置いている男だ。こんな己の弱さなど、一笑に伏されても仕方が無い。そうわかりつつも吐き出さずにいられない自分の弱さを無意識に感じ取り、派生する自己嫌悪が更に千鶴をさいなむ。
「それとも、薄情なんでしょうか」
  一つを選べない自分は。
  どれも大事ということは、どれも大事ではないと同義だ。
  それでも、本当に皆大切なのだと心が叫ぶ。だから、自分に出来る限りを全力でしたい。けれど沖田はそんな千鶴を愚かだと言う。確かに、持てる力を、心を、たったひとつに捧げられたならば非力な自分でも成し遂げられる確率は高まるだろう。それでも、他を犠牲にして為しえたそれに、心から喜べるかと己に問えば、素直に頷くことは出来ない。
  恐らく沖田は、この迷いそのものを指して「愚か」だと言ったのだろう。
「たったひとつ、大切なものを選べないというのは……何も出来ない自分の、言い訳なんでしょうか」
  それきり、千鶴は再び黙ってしまった。斎藤が声をかける前のように、地面へと視線を落として。
  彼女の傍にある手桶を見、そして時間帯から千鶴が沖田の部屋へ行きそこで何かあったのだろうということは、想像に難くなかった。そして千鶴が言う、「たったひとつ」をそれこそ斎藤が出会う前から心の内に刻んでいた男が、今の千鶴に投げかけた言葉も。
  死病を患った人間からすれば、願うことは多くあれど本当に成し遂げたいことは片手に余るほどだ。特に、沖田総司という男であれば尚更に。
  壮健であった頃からただ一人の為に刀で在り続けた彼から見れば、大した力もないくせに多くを手に入れようとし、挙句非力に落ち込む娘など苛立ちの対象でしかないのだろう。
  沈黙が支配した場に、虫達の声だけが響く。いつも同じに聞こえるそれらは、けれど同じ者から発せられているとは限らない。
  誰に気付かれる事なく、ただ鳴いて死んでいく。きっと自分たち人間も、歴史といううねりから見れば同じなのだろうと思えば、ちっぽけな命が抱える志などにどれほどの価値があるのか。
  否。だからこそ。
「――あんたが、俺たちのようである必要はない」
  男の声は、いつもと同じだ。ただ淡々と事実のみを告げるそれ。
  高くもなく低くもなく、大きくも小さくもないそれはそうすることに適しすぎていて、だからこそそう聞こえるのか、そう聞こえるようにそうなっているのかどちらなのだろうと千鶴はふと考えた。
「たった一つを選ぶも選ばぬも、それ自体が人の生き様だ。一つを選べば他を捨てる苦しみを殺さねばならぬ。多くを選べば一つを守れぬ苦しみに耐えねばならぬ。どちらが正しいかなど、誰にも決められぬ」
  だからこそ、決めるのは己自身なのだと言外に告げる。
「現におまえは、そうして心に傷を負っている。それが、おまえが選んだ道の証だろう」
  俯いたままの千鶴の頭が左右に揺れる。斎藤は言葉を続けた。
「力及ばずとも、多くを守る事をおまえは選んだ。一つを選べないのではない――違うか?」
  力の有る無しに関わらず、そう在ろうと決めたのならば良いと斎藤は思う。それで傷付くのも己が選択による傷であり痛みだ。ならば甘んじて受け、耐える己を誇れば良い。
  恥じねばならぬのは、痛みに耐え切れず己を曲げる事だ。そうなれぬからこそ傷付いて泣く。泣くのは心が嫌だと叫ぶからだ。
「俺や総司はただひとつを選んだ。おまえは多くを守る事を選んだ。それだけのことだ」
「で、も」
「己が非力は変えられぬ。だが、心(しん)の強さは己次第だ」
  顔をあげろと、男が千鶴の名を呼んだ。
  ゆるゆると上げられた顔は、揺れてはいたが濡れてはいなかった。
「おまえが己を恥じるなら、俺は俺の見立てを正さねばならん」
  慰めではなく、自分はこの雪村千鶴という娘の強さを知っている。生来からの優しさだけでなく、並みの娘には持ちえぬ矜持と胆力。そのどれか一つでも欠けていれば、このような人斬り集団の中で己を失わずに営みを続けるなど、出来るはずがない。
  時折呆れるような無鉄砲さを見せる時もあれば、思慮深く控える事も忘れない。辛い事があれば今のように一人で苦しみ、他人には笑顔のみを向ける。そのような人間を捕まえて、弱いなどと斎藤は思わない。
「選ぶって……痛いですね」
  呟いた娘の顔が歪んだ。斎藤は眼差しを細めて同意を示す。
  選択はいつの時も残酷なものだ。選ぶということは何かを捨てることを意味し、掴むことは何かを手放すことを示す。
  たかが人が得られるものなど僅かなもので、そのくせ強欲に足掻くから苦しむ事になる。求めるものが量であれ質であれ、またはその両方であれ、病的な速度で移り行くこの時世に、どれほどの価値がそれにあるかなど分からぬ。
  しかしだからこそ自分はそれを求めるのだろう。変わり行く世の中だからこそ、変わらない何かを。己が己であり続けるための確固たる足場とすべく、決して流されてなどなるものかと。
  それなりの生き方など知らぬ。水の流れを見極め、器用に岩や溝を避けて先へ進む。その先が清流であろうが濁流であろうが、行きついた先が生きる場所だと納得できる生き方など知らぬ。出来るものなら、とうの昔に右に差した大小は左へと場所を変えているであろう。
  ただ綺麗なものなれば、価値はない。深い痛みを伴うからこそ、己にとっての価値が出来る。
  本来ならば、このような生死の狭間を生きている自分たちとは違う世界で生き、笑うはずだった娘を憐れに思わなくもない。涙を堪え、柔らかそうな唇をかみ締めて震えを止めている姿を見れば、違う言葉をかけてやりたくもなる。
  けれどこの娘には、一時期の安らぎなど何の意味も成さぬのだ。目を閉じていれば傷付かずに済むことを、傷付いてでも見つめようとする愚直なまでの真摯さを兼ね備えているからこそ、斎藤も、一己の人間として相手をしようと思うのだ。たかが女などとは到底思えぬからこそに。
  凪いだ湖面に似た眼差しに、様々な感情を表して言葉を与えてくれた斎藤に千鶴がかろうじて笑みを向けた。それはとても、深く、透明な笑みで。
  いっそ涙を零してくれたほうがどれほどこの胸は痛まずに済んだだろうかと、深く頭を下げて場を辞した娘の小さな背中を斎藤はただ見送った。

  選ぶ事が出来ぬなら、選ばぬ事を選べばいい。
  禅問答のようなそれに、いつか自分も納得できる日が来るのだろうかと、淡々とした優しさをくれた斎藤を思いながら千鶴は目を伏せる。
  本当ならば、ただ一つ願ったことを成し遂げられたはずの沖田。彼には、その力も心の強さもあった。
  対する自分は、思うままに動く身体がありながら、願うばかりで何一つ成し遂げられそうにない。成し遂げたい、と動かせるこの四肢はあまりに頼りなく、沖田が苛立つのも無理はない。
  父を探し、その無事を確かめる事。父に関して望むことははっきりしている。
  ならばこの新選組に対してはどうだろうか。攘夷だの佐幕だのは自分にはわからない。公武合体も倒幕もわからぬ。ただ願うのは、このひとたちが無事に生き延びて欲しいということだけ。叶うならその志が果たせた先に命が続いていけばいいと思うけれど、それよりも強く願うのはやはり「生きていて欲しい」という一言に尽きる。
  それは命を賭して志を成し遂げようとしている彼らに対しては、口にしてはいけない望みなのだろうか。
  沖田に振り払われた腕が痛かった。いつまでも痛むそれこそ、沖田がもっとも千鶴の内に忌んだ部分。
(痛むな)
  心で命じ、反対の腕でぎゅうと握る。忌まれた部分を認めれば、厭われるに値する程度のものだと認めることになる。
  それだけは、違うと言える。自分が守りたいと願う対象は、そうと厭んだ沖田自身も含め、とても大切なものなのだから。
  選べぬ己を弱いと責められるのは良い。けれど、選び取れない対象の尊さだけは、胸を張って言えるのだから。
  それを沖田に告げたところで、やはり認めてはもらえないだろう。それどころか、何様だと今度こそ斬られるかもしれない。想像に容易い反応に、ふ、と千鶴の唇に笑みが浮かんだ。
  とても大切なのだ。父も、沖田も、他の皆も――斎藤も。
  だから、出来る事は何かと考える。無力でも非力でも愚鈍であっても、認めたうえで出来る何かがあるのならばそれをしたいと思う。どうしたって、願う。
  明日もしっかり、沖田の部屋へ行こうと思った。厭われるならば何も口にせねば良い。あの、自分の腕を跳ね除けた理由に自分を思う優しさがあったと知っているからこそ、やっぱり沖田にも出来る限りのことをしたい。
  したい、と思うこと自体がきっと、哀れみのようで嫌だと思われることをわかっていても。
  思って、やっぱり胸が痛んで。
  にじみそうになる視界を否定するように千鶴は顔を上げる。先ほど斎藤にそう言われたように。
  強くなれ。
  強く在れ。
  心根ならば、気持ちひとつ。
  明日になればきっと、もしかしたら沖田は笑うかもしれない。呆れながら、苦笑をにじませて「やっぱり君は馬鹿な子だね」と。
  そして自分も返すのだ。ただ一言、「はい」と。
  唇をかみ締めて、まつげの先を空に向けて歩け。
  己に命じて千鶴は歩く。彼女も又、確かに時代のうねりに巻き込まれた者の1人であった。

 

 

 





Fin
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Comment:


新選組の隊士が「何か一つ」(≒唯一)を掲げているのに対し、千鶴は多くの幸せを望む普通の
女の子で、どちらでもいいんじゃないのかなというテーマ。
沖田はそんな千鶴を見て苛立つだろうし、でも心のどこかでそれが千鶴だからいいんじゃないのとも
思っているだろうし、斎藤さんはあのスチルイベントのごとく同じである必要はないというだろうし。

唯一を選ぶも選ばざるも、痛みはあるんだろうなと思いつつ。



20090726up



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