** Happy C×2 **
 ●ごめん だけどどうかお願い


 最初は確か、乾いた咳が出るな、というだけだった。
 それ以外特段の変化はなかった。咳自体も時折でる程度だったし、咳き込んで困るというほど酷くもなく。
 それから暫くして、物を飲み込むことが辛くなった。
 どうにも喉につかえる。飲み込もうとしても完全に嚥下されることなく、時に逆流しては咳き込むこともあった。
 そしてその後暫くして、全身に倦怠感が付きまとうようになり、微熱が続いた。
 この頃には咳き込む回数も増え、痰がのどに絡み、時折赤いものが混じる。そのあとはもう、まるで坂道を転げ落ちる毬のようだった。
 勢いづいて身体が壊れていく。生きるための糧を取り込めない。食料のみならず、酸素ですらだ。
 剣を振るうしか価値がない己の腕は、刀を振るうどころか握ることも出来なくなってしまいつつある。なんだこの様は。近藤の為に剣を振るい、敵に斬られて死ぬならともかく、何故自分は屯所内で、布団の上で呼吸だけを繰り返しているのか。
 もう、赤いものしか吐けなくなった。口の中は常に鉄の味で、他になにか苦いものが含まれているような気色の悪いものが絡む。だがもう、どうでもいい。
 しかしそんな苦しみも、変若水を口にしてから少しずつ収まっていった。
 毬が転げた坂を上ることがないように、本来ならば回復するはずのない己の内に潜む死病。その代償は、やはり人としての生だけでは済まなかった。
『羅刹の力とは、生命そのもの』
 鬼のような回復力や振るう力は、人としての生命力を短期間に凝縮して生まれるものだと。
 つまり、使えば使うほど命そのものを削るのだと――言われたのはもう、いつだったのか。
「こほ……っ」
 軽く咳き込んだ沖田は、その懐かしい感覚に目を細める。ああそうだ。あの時も始まりはこんな感じだった。
 陸奥の清浄な空気や水に癒され、変若水の毒ならず身に巣食う病魔すら一時は落ち着いたというのに、ここ数日嫌に胸痛がすると思ったら、これか。
「あーあ。まいったなあ」
 声音だけを聞けば、ちっとも困ったように聞こえないその響きは、だからこそ虚しく大気に溶けた。
 見上げた空はどこまでも青く、浮かぶ雲はただただ白い。
 あの時の絶望感とは違う、ただ果てしない喪失感だけが胸を占める。頭に浮かぶのは、表情をくるくると変え、けれど決して笑顔を絶やさない唯1人の人。今は自分の隣にいる、伴侶となった彼女。
 彼女を1人残してしまうことが悔しい。自分が逝ったあと、誰が彼女を守るというのか。
 近藤の時はただ、彼の役に立てなくなることが恐怖だった。他はどうでもいい。ただ、自分の存在意義として彼の為に命を懸けた。
 だが千鶴の場合はそれとは違う。彼女は女だ。守るべき人間が必要で、幸せになる為には家庭が必要で、かといってそれを誰かに託す気になど到底なれやしない。
 彼女の幸せと己の我侭を秤にかけ、どちらにも傾けない卑しさに自身を嘲笑う。これは運命だ。抗おうとも死は確実にそこまでやって来ている。それに、今まで散々人を斬ってきておいて、自分だけ死ぬのが嫌だなどとは言えるはずもない。
 頭ではそうわかっているのに。
「千鶴」
 そっと声に出すだけで、溢れ出る愛しさ。
「千鶴……千鶴」
 繰り返すだけ熱は溢れ、抑えきれない愛しさに泣きそうになる。自分はいつからこんなに弱くなったのだろう。
「千鶴」
「呼びましたか?」
 何度目かの独り言に、返る声があった。顔をやると、土間にいたはずの千鶴が庭に回ってきている。
「どうしたの?」
「そろそろ洗濯物を取り込もうかと思って。そうしたら総司さんの声がきこえたから」
 呼びましたか? と、再度声にして首を傾げる妻を、左手で招く。千鶴は干されたままの洗濯物を見、そして傾いていく太陽を見、最後に夫の顔を見て――諦めたようにその傍らに座った。
 座ったと同時に、夫の頭が自分の肩に預けられる。こうやって総司が自分に甘えることはたまにあるので、今日はそういう気分なのだろうと特に理由を求めなかった。元々気分屋なところがある男だ。別に嫌なわけではないので、千鶴は小さく笑ってされるがままにしておく。
「今日はいいお天気でしたね」
 千鶴の声が心地よくて、総司は黙って耳を傾ける。千鶴も特に返事は必要としていなかったので、一人勝手に言葉を続けた。
「この辺りはあっという間に冬が来ますから、もう少ししたら冬物の準備を始めないといけませんね」
 押し当てたこめかみに、千鶴の肩を通って声が響く。
 彼女の声も熱も、全てこの身に染み込ませていたい。そしてそのまま、眠るように逝けたらどんなに幸せだろう。
「ねえ千鶴」
 呼びかければ、柔らかな声が「なんですか?」と返してくる。
「僕さ、幸せなんだ」
 生きていて。君も生きていて。そして隣にいてくれて、あまつさえ僕を好きだと言ってくれる。
 突然の告白に千鶴は驚いたが、すぐに笑顔に変えて「私もです」と言う。顔を見ないままでも、その声が本当に幸せそうだったから沖田は目を固く閉じた。何かが、零れてしまいそうで。
 ごめんね、ごめん。僕ばっかり幸せでごめん。
 そういうと君は絶対に怒って「私だって幸せです」って言ってくれるから、そうして又僕は幸せになって、やっぱり僕ばっかりが幸せなんだ。
 遺すことしか出来ない僕に。こんなにも幸せをくれる君に。
 残された時間で一体何をしてあげられるだろうか。
「好きだよ」
 心から。
「え……っと、私も、です」
「私も、だけじゃわからないよ」
 身を起こして自分をみる総司に、千鶴の頬が染まる。何度も愛の言葉を重ね、身体すら任せたというのにどうしてこうも子どものような反応をしてしまうのか。
 そんな自分をもどかしく思うのに、総司の透き通った双眸に見つめられると息が止まりそうになる。そうして、言いたいことの半分も言えなくなってしまう。
 ぎゅ、っと膝の上で手を握り締め口を開く。
「好き、です」
 告げたら次は、「愛している」と返された。ずるい、ずるいと心の中で叫びつつ、同じ言葉を千鶴も返す。すると今度は口付を与えられた。
 触れた唇が離れて、一層艶めいた眼差しが千鶴を捕らえる。ほんのわずか、悪戯な色と、自分を愛しいと言外に告げてくれる揺らめきを乗せて。
「返してくれないの?」
 掠れた声は、作戦なのかどうか。
「……あの、聞いていいですか?」
「何?」
「その、これ、どこまで続くんでしょう」
 徐々に増していくやり取りに千鶴がおずおずと尋ねれば、ふ、っと総司が笑った。
「君が望むならどこまででも」
「今は駄目です、よ? 洗濯物取り込まなきゃですし、夕餉だって作らないと」
 あわあわと止めに入る千鶴に、総司が今度こそ噴出す。自分の妻は、なんだってこんなにも可愛らしいのだろう。
「千鶴、自分の言った意味に気付いてる?」
「意味って……?」
「まさか接吻の一つで君の言ったほかの仕事が出来なくなるほどの時間を使うつもりじゃないよね?」
 そこまで言われて、無自覚の発言に今度こそ千鶴が絶句した。牽制しすぎた言葉の示す意味に、なんてはしたないことを口にしたのかと泣きたい気持ちで赤面する。
 最早言葉もなくした妻を強く抱きしめ、総司は再び己の方から口付けた。もう少し、あともう少しだけこの幸せを。

 固く唇を閉じ、呼吸を止めて。決して吐息が、彼女に触れることないようにと。


 悲しい口付けの、その一回目。






  ――決意の始まりの日。












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Comment:



若干捏造入りつつ。
沖田さんその後を考えると、それだけで切なくて泣きそうです。



20090209up



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