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●光さらら |
「千鶴。茶淹れてくれ」
襖越しにかけられた声に返事をしながら、私は言われたことをすべく湯を沸かしに土間に向かう。
桜の花もすっかり葉にその場所を譲り、土方さんの戦いで受けた傷も癒え始めた頃。ようやく落ち着いて二人の暮らしというものを実感できるようになった。
広くは無い、けれど二人で暮らすには十分すぎるほどの屋敷を提供してくれたのは大鳥さんだった。死亡扱いになった土方さんは、皮肉げに片頬を歪めながら「鬼籍扱いとは、ある意味俺にぴったりだな」なんて冗談にもならないことを口にしては私を怒らせた。
「土方さん、お茶が入りました」
「ああ」
声をかけて、襖を横に引く。文机に向けられていた身体は動くことなく、昔から見慣れた背中にふ、と笑みがこぼれるのを自覚しながら邪魔にならぬようそっと部屋に入った。
「お茶、ここに置いておきますね」
それは何度と無く繰り返されてきたやりとりだった。
新選組に身を預けるようになったもののお茶を淹れることくらいしか能の無かった私は、せめてもと皆さん好みの濃さや温度を覚え、邪魔にならないように置いてそっと去る。
土方さんは、濃い目の熱め。それを湯のみの六分くらいに注ぐのが飲みやすいらしい。
すっかり慣れた土方さん仕様のお茶を置いて立ち去ろうとした時、不意に彼が私の方を向いた。
「なんだ、忙しいのか」
「? いえ、特には」
「だったら茶くらい付き合え」
ぱちぱちと瞬きをする私を他所に、なんだおまえの分はねえのかと渋い声が追加される。
「自分の分も淹れて来い。俺一人茶ぁ啜ったってつまんねえだろうが」
「え、あ、はいっ」
土方さんの命令には従う、という半ば条件反射で身体が動き、事態が飲み込めぬままに土間に戻る。戻り、その空間を占めるひんやりとした空気にようやく頭が回り始めた。
今までは、ただお茶をおいて土方さんのお邪魔にならないように去るだけだった。
けれど今は、彼と一緒にお茶を飲むことを許される。
「……」
それが言葉よりもなによりも、私たちの変わった関係を表しているようで、ふいに胸がぎゅっと苦しくなった。
そうか。そうなんだ。
一緒にいて、いいんだ。
目的なんか何もなくても、こういう形で――いいんだ。
胸のうちでそう言葉にしたら、胸に感じた苦しさがせり上がって涙になった。あ、と思ったときにはしずくが丸まって土間に落ちて濃い色を作る。どうしてか涙が止まらなくて、土間にしゃがみこみながらせめて嗚咽が漏れないようにと私は両手で口を覆った。
追いかけることしかできなかった遠い背中が、今では目の前にある。
前しか見ていなかったまなざしが、時折自分に注がれて。
戦いの下知を叫ぶ声が、優しく私の名前を呼んでくれる。
「……っふ、」
熱い息が漏れて手のうちで篭る。突然訪れた激情に自分で驚いて、とめる手段がない。
「千鶴? おい、どした!」
どれくらいの時間が経っていたのか、少なくとも土方さんが心配に思ってくださるくらいの時間は経ってしまっていたらしい。振り向くに振り向けずにいると、一瞬止まった彼の気配がと、っという音と共に軽やかに消え、一瞬の後に私の背後に現れる。
「すみません、何でもないんです」
「何でもないってこたあねえだろ。何泣いてやがる」
骨ばった大きな手が私の肩に触れて、やがて彼自身が私の正面にしゃがむ。視界に現れた彼の足は素足のままで、土間の砂埃が、彼の親指よりも少しだけ長い人差し指に薄くついていたのが見えた。
「どっか痛えのか? それとも気分でも悪くなったか……って、んなことで泣くようなヤツじゃねえなおまえは」
だからますますわからないと苦りきった声で心配してくれる土方さんに申し訳なく、けれど泣き止むこともできずに私はただ謝り続けた。
土方さんはやがて聞き出すのを諦めたのか、静かに私が泣き止むのを待っていてくれた。ごめんなさい、すみません、ばかりを繰り返す私を、額に皺を刻みながらそれでも黙って。
時折子供をあやすように背に回された手のひらがぽんぽんと小気味良い拍を叩き、私は甘えるように土方さんから与えられては消え行く熱を全身で受け止める。
今この場には私たちしかいない。彼が背負うものはもう何もない。
背負ってきたものは相変わらず土方さんの魂の奥底に刻まれているけれど、彼が今この瞬間にその命を賭して走らなくてはならないものはもう、ない。
在るのはただ、土方歳三という男の人だけ。
気づけば私の手は土方さんの着物をぎゅうと掴んでいて、すっかり皺になってしまったことに気づいてあわてて離したら背に回っていた手のひらが身体ごとをその胸に引き寄せてくれた。何気にしてんだ、構わねえよ、と、近づいたせいで直接耳朶に響く声には苦笑がにじんでいて、そのやさしさにまた泣きたくなってしまう。
「気が、緩んでしまったようです」
「そうか」
「すみません、すぐ泣き止みますから」
「泣くなら泣いとけ。小出しに泣かれるよりは一気に泣かれたほうが俺も楽だ」
そんな自在に操れるものじゃないです、と、あまりの言い様に小さく反論を試みれば意外にも「だろ?」という返事。
顔をあげれば、透き通るようなまなざしが私を映していた。
「だから、無理に泣き止もうとすんじゃねえよ。おまえの涙に付き合う時間なんざ、俺にはもう嫌ってほどあるんだからよ」
声だけでなく、笑みにも苦いものをにじませて言う人に、一瞬とまった涙がまた溢れ出す。
(このひとを)
もう、私のものにしていいですか?
ずっとずっと走り続けてきたこの人と、共に歩いてもいいですか?
それは誰に許しを求めたのだろう。けれど、それくらい私にとって土方さんは遠い人で、強い人で、だから。
「そんなこと仰るなら、泣いちゃいますよ?」
「おう上等だ、泣け泣け。ただ……そうだな」
何だろう、と思う間もなく私の身体は宙に浮いた。
「――きゃあっ!」
「ここじゃちぃと冷えるな。おら、茶なら俺が淹れてやるから、おまえはとっとと部屋に戻って気の済むまで泣いてろ」
抱き寄せられていた身体を外側に引き剥がされたかと思うと、体勢を後ろに崩した私の膝裏に土方さんのもう片方の腕がきれいに収まって、気がつけば私は抱きかかえられていた。
「ひ、ひじっ、土方さん!」
「なんだ。何か文句でもあんのか」
しれっと至近距離から半眼で見やる土方さんに、私は赤い頬を自覚しながらも必死に言い募る。
「おろしてください! あの、もう平気ですから、お茶もちゃんと淹れますし……っ、それにあの、足、私拭くもの持ってきますから」
そもそもお怪我はしてませんか? と重ねて言うと、多摩の百姓あがりをなめんじゃねえぞと何故か怒られてしまった。
「素足でそちこち歩くなんざざらなんだよ。お前の柔肌と一緒にすんじゃねえ」
「そ、そういう問題ですか?」
「いっちいっちうるせえなあおまえは。いいからさっさと行け、おら」
乱暴な口調とは裏腹に、土方さんはほんのわずかの衝撃すら与えずに私を板間に下ろす。そしてやや上体をそらし、大仰にため息をついてからやさしいやさしい笑みを浮かべて。
大きな手のひらが、私の頭に乗せられる。
「泣くのは構わねえ。が、こんなとこで一人で泣いてんじゃねえよ」
彼の影が私に落ちる。まるで、守ってくれているかのように。
新たに生まれた熱いしずくが頬を濡らすそばから、移動した土方さんの指がそれをぬぐってくださって、ぬぐってくださった傍からまた生まれるものを、今度は寄せた唇で吸い上げられた。
「しょっぺえな」
「……すみません」
「別に構わねえよ、謝ることでもねえだろうが。んなことより泣いたら喉渇くだろう。俺の茶がもう冷めっちまってるからそれでも飲んどけ」
俺の湯のみだとかくだらねえこと気にすんじゃねえぞ、と、先を読まれて釘を刺され、おとなしく頷いた。
土方さんのお言葉に甘え、先に彼の部屋に戻り彼が言ったとおり、半分ほど口をつけられた湯のみを手にする。
もう熱くはないそれ。心地よい温みのみを残し、やわらかく私の中に広がっている温度はなんだか今の状況にぴったりすぎてまた泣けてくる。
「それでもちょっと、苦いけど」
そんなことすらもぴったりすぎて、今度は笑みがこぼれた。それと同時に土方さんが部屋に現れて、泣いた烏がなんとやらとは良く言ったものだな、と、呆れたように笑う。
向かい合って並び、揃いの大小の湯飲みでお茶を頂く。
穏やかな穏やかな時間。今はまだそぐわないようにも思えるこの時間を、着慣れた着物のように思える日が早くくるといい。
ほう、と息をついて何の気なしに土方さんの足を見れば、足の裏が触れる着物の裾に白いものがついて……って、ええ!?
「土方さん、足拭いてないじゃないですかっ!」
言われた土方さんは、まるで初めて気づいたかとでも言うように、「ああ、忘れてた」なんてしれっと返してきたから私が目を白黒させる。だって、今日はもう掃き掃除も拭き掃除もやったのに。
あんまりのことに感傷も一瞬吹き飛んで私は声をあげる。
「忘れてた、って!」
「あーもういちいちうるせえなあ。こんなん田舎じゃ普通――」
「ここは違います! もう、またお掃除しなきゃじゃないですかあ! ちょっと待っててください、すぐに拭くものをお持ちしますから」
「いらねえよ。ンなの乾いて叩いちまえば済むだろうが」
至極面倒そうに言う土方さんをき、とにらみ、誰がお掃除すると思ってるんですかと一言だけ言えばむっつりと黙り込んだ。それでも悔しかったのか、私が立ち去る間際に捨て台詞とも思える言葉を背中にぶつけてくる。
「鬼の副長とも呼ばれた俺を叱り飛ばすなんざ、大した女だよおまえは」
だから私もこう返す。
「今はただの土方さんですもの」
すると直前の不機嫌が嘘のようにくしゃりと子供のように笑って
「違いねえ」
なんていうから、浮かびそうになった涙を上を向いて堪え、手ぬぐいを取りに土間に走った。
Fin
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Comment:
土方さんは本っ当に難しいです。
あまりに一人で完結している方なので、入りようがない。ようやく見つけた隙間を
原作の千鶴ちゃんが埋めているので、二次創作がしにくいです。
土方さんはどれほど千鶴ちゃんを好きで大切でも、志とは秤にかけないし、
千鶴のために命を捨てることはあっても志を捨てることはない。
そして千鶴自身が彼の志そのものになることはきっとなくて、一生をかけても
千鶴が土方さんにとっての「一番」になることは無いと思うのです。
そんな土方さんをふと手に入れられてしまった千鶴ちゃんは、何かの拍子に
気づいて、幸せだけど怖くなるんじゃないかなとか。
一人の女性や家庭、普通の幸せに収まるにはあまりに大きすぎる人だからこそ
覚える恐怖があるのでは、と思って書いたお話です。
20090423up
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