生まれた時から自分は、「風間一族の頭領」という存在だった。
無論、自分以外にも風間の血を継ぐものは居る。が、血の濃さがそのまま力の強さと比例する鬼の一族の中で、純潔たる鬼は千景を含め数名しかおらぬ。
その数名の中でも突出して鬼の力を――それこそ同族から恐れられるほどに――宿していた自分は、一族を率い、繁栄とは行かずとも衰退させずに導いていく事こそが使命となっていた。そして千景自身、その事になんら不満もない。それどころか、鬼という優れた種族の純潔たる己が身を、誇りにこそ思っていた。
己ら鬼は、愚鈍なる人間共とは違う。姿形が似ているからとは言え、やつらは寧ろ犬畜生にこそ近い存在だと思ってやまない。
下らぬ戦を繰り返し、己が利権の為に人をだまし、裏切り、そして己自身もそうされて消えていく。僅か数十年と言った短い人の生の中で、虚構に彩られた日々を繰り返す愚かさは目に余る。
何故そのような下等な生き物が、自分達鬼と似たような姿を神から与えられたのか、千景には理解出来ない。
まるでそうすることで、人間共に対する自分達一族の嫌悪感を高め、この世の頂点を極めたかのように振舞っている奴等に天誅を与えさせようとでもしているかのようだ。
『私は、あなたとは行きません!』
遙か昔に一族が受けた恩を返すべく、薩摩に助力をしていた最中で見つけた、自分と同じだけの尊き血をその身に宿した娘はけれど、千景の誘いを断り人間の傍に居る事を選んだ。
戦の目的は攘夷であり、倒幕だ。その最中で見つけた鬼の娘を手中に収める事は、己にとって付随事項でしかない。
だが、いずれ一族のためにより良き子孫を残さねばならぬ身としては、東の鬼を束ねていた雪村本家の娘を手に入れる事の意味は大きい。力をかけすぎる必要はないが、余力で手に入れられるならばそうしない手はない。
自分にとって妻は子を成すための器であり、それ以上でも以下でもない。一族の、己の子を宿し産んでくれたからにはそれなりの待遇を考えてはいるが、所謂人間同士の間で生まれるような恋情になど、興味も意味もなかった。
自分にとって大切なのは、血の濃さ。それだけ。器量が良いことに越した事は無いが、無力な美人よりも力のある醜女を選ぶ。それが、己の意思だった。
鬼ならば、それも本家直系の子孫ならば、何よりもまず一族のことを考えてしかるべきだというのに、初めて出会った雪村の娘はまず「己」でいることを選んだ。
見るからに非力なその娘は、事実非力なのだろう、恐怖で震える身体を押さえることも出来ずに、ただ反抗的な眼差しのみを自分に向けてきた。
その双方が、千景には理解できぬ。直系の身でありながら、一族の行く末を考えぬ事。貴き鬼の一族よりも、愚かな人間の傍に居る事を選んだ事も。
雪村の直系――雪村千鶴が身を寄せる新選組という集団は、風間が与する薩摩とは異なる思想を持った集団だった。
脆弱な存在のくせに、群れる事で力を誇示する姿は見るに耐えぬ。犬畜生にも劣る強さしか持たぬ人間の中で如何に腕が立とうとも、所詮は井の中の蛙でしかない。その事に気付かず、揃いの羽織を身に纏い、京の町を闊歩する様はいっそ滑稽な程だった。
薩摩からは直接新選組を討て、という命は出されなかったが、一部では敵対する関係から、薩摩や風間が動く先々に彼らは現れ、仇を為した。
その度に軽くあしらうものの、吹けば飛ぶような命しか持たぬはずのそれらは信じられぬ無謀さで自分達に歯向かって来る。
だがそのような命を懸けた一太刀ですら、自分達の髪一筋を傷つけることも出来ぬ。退屈しのぎにすらならぬ斬りあいの中で、勝手に命を捨てていく虫けらを見下ろしながら、つくづく人間というものはわからぬと千景は思った。ゴミならばゴミらしく、うずくまり、日陰で大人しく暮らしてさえ居れば、その命を永らえようものなのに。それすらもわからぬほどに愚かなのだろうか。
けれど、赤い血溜まりに倒れていく虫けらの身体を起こし、涙も出ぬといった有様で嘆く鬼がいた。ひどい――、と。全く理解の出来ぬ言葉を震える唇にのせて。
その姿を見て、初めて不快に思った。それまではただ、変わった娘だという印象しかなかった。自らの愚かさを知らぬは自らの出生を知らなかったが故。しかし今は己の身に流るる血の尊さも、共に暮らす人間の愚かさも知っているはずだというのに。
それでも、何故弱き者の為に、貴き鬼が嘆くのか。
最早どれだけ痛めつけても構わぬと思った。子を成すという大儀の見返りは、人間共に心を許した罪を補うに値しない。ならばその身のみを一族の為に役立てるが良かろう。
幸い、鬼の身は多少どころか人の身ならば三途の川を渡る傷ですら癒す。今は反抗的な目をしているが、その身に繰り返し苦痛を与えればたちどころに従順なものとなるだろう。
多少の意外性は興味の範疇だが、行過ぎた反抗は不快でしかない。
そう、思っていたのに。
戦が激しさを増し、千景自身、薩摩藩内部のきな臭い動きや、朝敵であった長州と隠密裏に進められていた密約の為に奔走していた中、いよいよを以って幕府の威信が最早誤魔化しようもなく崩れつつあった。
目的を達成する為、時には千鶴を奪う為に幾度か剣を交えた新選組の面々は、先だっての戦同様千景の理解を超えたものだった。命を惜しまぬこと。又、人間の中では腕が立つとは思っていたが、その実力が想像以上であったこと。それこそ、「人」とは思えぬほどに。
事実、「人」とは呼べぬ紛い物にその身を落とした者もいた。己の志の為だと口にするその思考が理解できぬ。虫けらに何の思想があろうか。あるのはただ、私利私欲と利権のみ。それこそが人の人たる証だろうに。
彼らの良く口にする「侍」や「武士」というものも良く分からぬ。自分が知っている「侍」こそ、人間の最も汚い部分が凝り固まった存在としか思えない。どんな言葉で立場や身分を飾ろうとも、内実は奴等が嘲っている下位の者と変わらぬくせに、己が優位を疑わない。そして求めるのは地位や名声。己を不相応に飾る分だけ、他のものよりも性質が悪い。唾棄すべき存在。
だが、新選組と名乗る連中が体現する「侍」とは、千景が知りうる同じ音の言葉とはまるで違っていた。
真実己が信じた道の為に戦うのだと、その為には命も人としての道も要らぬと言って捨てた眼差しの強さは、人が持つには過ぎたもので。
最早形骸化している幕府に尚も衷心を捧げ、命をもって尽くすという姿勢に迷いがない。否、口からは幕府に対する嘆きや呆れこそ聞こえたものの、ならば何故に奴等は幕府を見限らぬのか。
沈み行く舟であることは明らかだ。それは決して浮力を取り戻すことなく、寧ろ加速をつけて沈んでいくだろう。だのに、彼らはその舟から降りることをやめない。漕ぐ腕を止めはしない。
人間は愚かだ、とは思っていた。先見の明を持たず、動乱に巻き込まれ消え行く姿は憐れを通り越して滑稽ですらある。
だが、奴等は違う。幕府が沈み行くそれだと分かっていても尚、歩みを止めぬ。その思考が全く千景には理解できない。
自分が守るべきものは己が一族。ならば、新選組の連中が守るべきものは、守ろうとしているものは一体なんであるというのか。
彼らの掲げる「誠」とは。
戦の混乱の中、身を寄せていた新選組の連中と逸れた千鶴は、それでも尚彼らを追うことを止めようとはしなかった。
彼女の見る先に、その答えがあるのやも知れぬ。最初はその程度の興味でしかなかった。
人間など、下等な生物だという認識は変わらない。けれど、新選組の――特に組織の根幹に関わっていた数名の生き様が、何故か心にひっかかる。
目を背ける事等容易く、事実そうしても良かった。が、己の子を成す女鬼が、心残り無く我が物となる為ならば多少暇を潰しても良かろう。半ば気まぐれで付き合ったようなものだった。
それがいつからか。千鶴を通して、彼ら新選組の生き様を見届けたいと思うようになったのは。歌舞伎者としか思えぬ生き様を、哀れと思いつつも決して惨めなそれとは思えなくなったのは。
彼らの貫き通した「誠」は、彼ら自身の意地と誇り。人間にしては上等だと、認めざるを得ぬほどの散り様はいっそ見事であった。
「彼らは……武士だったんです」
血と土埃にまみれ、ぼろぼろになった旗を小さな胸にかき抱き、抑えきれぬ慟哭を外側から抑え付けようとする娘の姿。
人間に心を許したのではなく、情を移したわけでもなく。彼らに憧れを覚えたからこそのそれ。この娘がなりたかったものは、手を伸ばした先に掴みたかったものは、一体何だったのだろうか。
分かるのは唯。永遠にそれをこの娘が手にいれることは出来ないだろうという事実のみ。
最果ての土地で手に入れた、それが結末。
「泣くな」
このまま消えてなくなってしまうのではないのかと思うほど、硬く小さく身を縮める娘に声をかける。
消えてしまっては困る、と思った。
「奴らと共に戦わなくとも、おまえはどんな苦難にも負けずに奴らを追い続けた。ならば、おまえも立派に奴らの一員だろう」
立ち上がれ。辛くとも。
どんなに絶望的な情報しか届かずとも、追いかけた背中すら見えずとも、前のみを見つめて歩きとおしてきた歩みを止めるな。眼差しを、下に落とすな。
「少しでも奴らの一員という誇りがあるならば、その証とやらを抱き潰して何になる」
「かざま、さ……」
「文字通りおまえが最後の新選組ならば、最後にその旗を掲げるのもおまえの仕事だろう」
――それを咎めるものがいるならば、この俺が斬ってやる。
冷ややかにそう言い捨てた誇り高き鬼の瞳は、千鶴がかき抱いた旗の地と、同じ色をしていた。
顔に移った泥が涙に溶けて、濁った筋が頬の線を辿る。
けれどそれはどんな色よりも無垢で透明だと、千景の目には映った。
嗚咽を零す唇が震える。それを止めるかのように、かみ締めて。
汚れが広がるのも気にせずに、涙を拭って立ち上がった娘を、誰よりも美しいと――思った。
妻になる女に、血筋以上のものは求めぬ。
けれど生涯の伴侶となるべき相手ならば、隣に立てる強さを持った娘が良い。手を引かずに、自らの足で歩けるものが良い。
ならば己の意思で選ばせてやろう。そうできる力がある娘に、自らの意思でこの自分の隣に立つという事を。
「気が済むまで好きにしろ。その旗を降ろせる日が来たら、俺の元に来るがいい」
最早飾りは要らぬ。欲しいものは、変えられぬ強さを宿した娘だけ。
この激動の時代を生き抜いた、馬鹿な人間の志を引き継いだ娘だけ。それが純潔の女鬼だった事実そのものが、己にとって一番の幸運だったのだろう。
そしてこの幸運を逃すつもりなど、微塵も無い。
(さあ、選べ)
己の意思で。この俺を。
涙は乾いたが、名残は消えぬ二つの眼が自分を凝視する様を、千景は心地よく見返す。そこに、以前感じたような敵対心のようなものはない。警戒心もなく、あるものは、ただ。
(あまりに時間がかかるようならば、この俺自ら気付かせてやっても良かろう)
こんなにも明確な、娘の中に育った感情を。
共に歩いてきた道を、一人引き返す。背に感じる視線に振り返る事無く、千景は歩みを止めず進む。
今しばらくは時間もかかるだろう。それほどに、あの愚かな人間共の生き様は見事だった。
「この俺が……人間如きにこのような感情を抱くとはな」
胸に去来する感情を何と呼ぶのか。あえて名をつけずに千景は空を見上げる。
冬の開けきらぬ薄曇の空は、彼らの纏っていた羽織の色にとても良く似ていた。
Fin
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Comment:
モトさん(@ng)からのリクエストで風間小話。
お誕生日おめでとうございました! 遅くなってごめんね。
20100313up
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