** Happy C×2 **
 ●幾久しく

 それは、二人が望んでいた暮らしそのものだった。
 新選組を離脱し、永倉という同士と共に戦場を駆ける夢を諦めて手に入れたものは、最愛の伴侶と共に過ごす穏やかな日々だった。
 贅沢は出来ずとも、嫁を困らせない程度の稼ぎがあればいいという希望通り、近所の子どもらを相手に剣術や槍術を教えてそれなりの金子を稼ぐ。加えて、新選組時代に貰っていた給金も幾ら酒飲みの左之助とは言え、そこそこは残っていたので暮らしに困るということはなかった。
 そんな夢のような日々に影が差し始めたのは、半月ほど前からだろうか。
 徳川幕府による統治が終焉を迎え、朝廷が実権を握り年号が改められて暫くの後。
 新政府軍が『鬼狩り』を始めたと左之助が聞いたのは、ようやくこの集落に馴染み始めての頃だった。
 届けられた書状を、思わずついて出たため息と共に行灯の火にくべる。借りている道場にしっかりと鍵をかけ、歩き出したところで「左之助せんせいさようなら!」とかけられた声に笑顔で答える。
「日も暮れたから気をつけて帰れよ」
「はーい」
 迎えに来たらしい兄と、自分のもとに通っている子どもが手を繋いで帰る背中を見送りながら、左之助も又千鶴の待つ家へと歩き始めた。
 家ではなく、道場の方に文を寄越してくれた気遣いに感謝しながら今は斗南に暮らすかつての仲間を思う。忠義に厚いあの男は、きっと一生を国の為に捧げるだろう。彼と出会ってから別れるまで、ずっとあの男が自分自身で在るために追い求めた「志」は今も彼の心に根付いている。そしてその中で手に入れた情報をこうして自分にも回してもくれる。これらの情報は、すっかり政の中心から離れてしまった自分では手に入れようがない。
 しかしどこから自分がここで道場を開いているという情報を入手したのかはという疑問は、愚問でしかなのだろう。そしてきっと――その情報は、新政府軍も手に入れているものであるに違いない。
「あんま考えてる時間はなさそうだな」
 夫婦として暮らし始めて数年。ようやく、二人の暮らしも板についてきたところでこれだ。最初こそ西の鬼や新政府軍から行方をくらませる為に各地を転々としたものだが、ようやく落ち着いて暮らせるところを見つけたと思ったのになあ、と誰に言うでもなく心の中で呟く。
 この時節の夕暮れは気が長い。とろとろと沈み始めてから辺りを夜に任せるまで、橙の光は長い腕で左之助ら町の人々を見送るように包み込む。自分の足元に出来た長い影に気付き、知らぬうちに視線が下向いていたことに左之助は苦笑した。
 『鬼』であるという事実以外、唯人となんの違いもない自分の妻を思うと胸が痛む。
 千鶴はただただ、平穏な暮らしを望んでいるだけなのに。鬼であることを受け入れながら、受け入れるが故に口に出せなくなった様々な願いのうち、たったの一つを口に出して自分と共にいる。
 それだけの女に、何故こうも苦難を強いるのか。
 あの戦いの、闇に隠れていた部分を知る人間を、根本を負っていた一族を放っておくはずがないと頭では理解しながら、心では納得がいかない。頼むからもう放っておいてくれ。俺たちは何かをしようとするつもりなど微塵もない。ただ当たり前の夫婦として所帯を築いていきたいだけなのだ。
 半月ほど前から感じ始めた、ふいに感じる視線や誰かの気配。幾ら戦線から遠のいたとは言え、左之助は気配に聡い。それが好意的なものでないなら尚更だ。
 それを裏付けたのが斎藤からの手紙だった。後の禍根を断つ為に、『あの薬』を含めた鬼の存在を抹殺しようとする動きがあると。
 千鶴が純血の鬼であることは、育ての親であり新政府軍へ寝返った綱道により周知の事実となっていたのであろう。西の風間と同じく、種族としての濃さで言えば最も放置しておけぬ存在。
 彼らから見れば千鶴はただの女ではなく、それ以前に鬼でしかない。何もしておらずとも、何かをする前に闇に葬ったほうがいいというのは、馬鹿でも分かる話だ。
 そして恐らく自分も、その事実を知るものとして危険因子と見られても当然だ。最早政とは関係のない暮らしを送っているとは言え、元新選組幹部という肩書きは一生付いてまわる。斎藤のように藩につかえ、その藩が政府へ恭順の姿勢を取っていれば身内の飼い猫と同じだが、自分のような野良はいつどこで豹変するか戦々恐々と言ったところだろう。
 左之助にしてみれば、その飼い猫の方がよほど恐ろしいと時間をかけて説得してやりたいくらいなのだが。
「帰ったぜ」
 戸を開け、長身の自分には少し低い仕切戸を通ると同時に、背後にぴりとした視線を感じる。
 動きはあくまでも自然に、しかし意識だけは鋭く周囲に配るとその気配はすっと消える。どうやら、自分の帰宅時間を見計らっていたようだ。
 いつもならすぐに駆け寄ってくる千鶴の姿が見えない。今しがたの事もあり、急激な不安が左之助の胸中を支配し始め、履物を脱ぐのも慌しく家の中へと上がりこむ。
「千鶴!」
 まさか、自分の留守中に奴らが千鶴を攫っていったのではないか。
 それとも、攫うまでもなく――いや、そんなことがあってたまるものか。
 どかどかと足音も荒く、限られた部屋を探しまわるが千鶴の姿は見えない。こんなことなら、無理な理由をこじつけてでも共に行動すべきだったと激しく後悔し始めたとき、勝手口が軋んだ音をたてて探し人を招き入れたところだった。
 千鶴は土間に入った途端、血相を変えた夫がまさに仁王立ちと言った態で自分を見下ろしていたことに驚いたが、帰宅に気付かなかったことに慌ててまずは謝る。
「帰ってらしたんですね。ごめんなさい、裏にいたから気付かなくて」
 続けようとしたお帰りなさいの言葉は、裸足のままたたきに下りて自分を抱きしめた男により奪われた。
 立て続けに起こる予想外の出来事に混乱したが、自分を抱きしめる左之助の腕が微かに震えていることに気付いて柳眉を潜める。何があったのか知りたいけれど、今はそれよりも彼を抱きしめたほうがいいと細い腕を広い背中に回した。
「無事か? どこも、何もねえか?」
 低く抑えられた声に安否を問われ、こくりと頷く。そこでようやく左之助が腕を緩め、一連の己を恥じるように頬をゆがめた。
「悪いな。驚いたろう」
 返事を穏やかな笑顔だけで返す妻は、裸足の自分を見て「拭くものをもってきますね」と再び裏へと回っていく。それを床上に腰を下ろして待つ間、この生活も限界かと諦めに似た納得をした。
「痛むところはありませんか?」
 足を拭いてくれながら聞いてくる妻に否を返す。自分でやると言ったが、私がやった方が早いと突っぱねられた。
「何があったか、お聞きしてもいいでしょうか」
 拭き終わると同時に投げかけた質問に左之助は黙る。それは拒絶ではなく、単に言葉にするまでに時間を要しているのだと千鶴は理解した。
 そして気付く。左之助がここまで言いよどむ理由に。そして千鶴が気付いたことに左之助も気付き、「辛いか?」とだけ聞いてきたから、返す言葉がない。
 私のせいで、ごめんなさいと。言ったところでそれは自己満足でしかない。
 だから言わずに我慢したというのに、そんな自分を左之助は優しく抱き寄せるから。
「溜め込むな。愚痴でも恨み言でもいいから、全部吐き出しとけ」
 必要のない気負いだが、おまえはそう思わずにはいられないのだろうと苦笑されてしまえば仕方ない。本当に、このひとは自分を甘やかすのが上手いのだ。
「謝ることで気が楽になるなら聞いてやる。だが、俺は求めちゃいねえってことだけは覚えておいてくれ」
「……あんまり優しくしないでください」
 でないと、泣いてしまいます。
 泣きたくなどないからそう言ったのに、本当におまえは難儀な性格だなと笑われて結局泣いてしまった。
 後天的な理由ならともかく、先天的な、己の意思では変えようもないことで泣く責任は当人にはないのだ。左之助もわかっていて、千鶴も本当はわかっているけれど、どんな理由であれ自分に起因するとなれば千鶴は己を責める。ならばもう、その原因が何も影響を及ぼさない暮らしを求めるしかない。
「この国を出るか」
 ぽつりと呟いた言葉は左之助自身も意外なものだったが、存外良い考えのような気がしてきた。
 千鶴はあまりの事に目を瞬かせ、左之助を見る。国を出る? この、日本という国を?
「さすがに国をおん出たヤツを追いかけるほど暇じゃねえだろ。それに一旦他所に渡っちまえば、消息を追うのも難しくなるはずだ」
 どうやら本気らしい、と分かって千鶴が慌てる。幾ら平穏な暮らしの為とは言え、そこまでさせてしまっては申し訳ないどころの話ではない。
 だって自分は知っている。左之助が、新選組の隊士らがどのような思いで、何の為に戦っていたのか。
 それは全て『国』の為。いかに新選組を抜け、今は政局からは引退したと言っても彼が国に対する思いを失ったなどとは思わない。ただこの日本と言う国を愛して憂い、だからこそ一命を賭して戦っていたというのに。
 千鶴は無言でふるふると頭を左右に振る。駄目です左之助さん。それは駄目。
 永倉の時もそうだった。彼と共に戦場を駆け回る夢を、千鶴との暮らしの為に諦めたあのやるせない瞳を今でも覚えている。
 そしてその時に感じた思いも千鶴の中にはまだくすぶっている。自分に、そこまでの価値があるのかと。
 左之助に一つの夢を諦めさせ、更になお国を捨てさせる。それだけの価値が。
 けれど左之助は真剣な眼差しで、一筋ほどの嘘もないという眼差しで千鶴を見つめる。一つ一つの言葉をまるで言い聞かせるように注ぎながら。
「言っただろ。俺はおまえを選ぶと。選んだ存在がでかけりゃでかいほど、捨てるもんも大きくなる。そう言っただろうが」
 宇都宮で永倉に合流し、飲み交わした夜に決めた覚悟は今も揺るがずこの胸にある。
 自分は千鶴を選んだのだと告げ、おまえも俺を選べと言い――初めて肌を重ねた夜。
「俺は後悔なんざしてねえ。今までの一度だって後悔なんざしたことはねえよ。あるとすれば、てめえの力不足からおまえに顔向けできねえって逃げ回ってたことくらいだな」
「左之助さん……」
「俺は、おまえを選んだんだ。選ぶってのはそういう事なんだよ」
 だから国を捨てても構わないのだと告げる左之助に、ならばその覚悟を自分も一生背負っていこうと千鶴も覚悟を固める。
 もう、左之助と離れることは考えられない。左之助と一緒ならば、どこでだって生きていける。けれど、左之助がいないのならばどうだろうか。
「満州あたりならそう遠くもねえし、どうだ」
「どこへでも……左之助さんと一緒なら、どこでも平気です」
 左之助が国や友を捨てるほど自分に価値があるとは思えない。けれど、ならばこそ、少しでもそう思えるように前に進みたいと思う。泣きたいくらいに自分を愛してくれるこのひとのためにも。
「っとに、いい顔しやがるなあ」
「え? え?」
「いや? 惚れ直したってだけの話だ」
 少女のように頼りないところを見せれば、一瞬の後には頭が下がるほど凛々しい表情も見せる。これだから離れられないのだと左之助は苦笑し、千鶴に拭いてもらった足を完全に床上へ持ち上げた。
「それじゃ、早いところ動いちまうか。千鶴、俺は道場関連の整理と旅券証の発行を知り合いに頼んでくる」
「あの、私は」
「戸締りしっかりして晩飯でも作っててくれ」
 この時代、海外へ渡航するための免状は気軽に取れるものではなく、しかも左之助の立場からすると更にそれは困難を極めるだろう。
 だが、それを潜り抜ける方法と伝手は幾らでもある。
「俺が帰って来たときも恐らく一人、政府方の見張りがいた。すぐに戻ってくるが、俺だと分かるまで戸を開けたりするんじゃねえぞ」
「はい」
 気をつけての言葉と共に左之助を送り出し、千鶴は言われたとおりに固く戸締りをする。
 閉めたばかりの戸に背をあずけ、入り口から慣れ親しんだ家を見回した。ここが、二人の家であり続けるはずだったのにと、郷愁にも似た思いで。
 二人が日本を後にしたのは、それから10日後の事。
 ようやく見つけた安住の地で、子どもにも恵まれて一生を終えるのは更に先の事だった。


 

 

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Comment:


(薄桜鬼の)左之助さんが何で満州に行ったのかな、と考えたときに
千鶴の為だろうなと思ったのです。
日本にいる限り風間や新政府軍には狙われ続けるんだろうなと。

でもたまに日本に帰って、子どもを新八に見せたりしたらいい!


20090226up



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