「……何してやがんだ」
あまりの予想外な風景に、部屋を出た土方が珍しく言葉を失い、しかしながら直後にはそれを取り戻して自分をそうさせた人物に言葉を向ける。と、向けられた人物はびくりと肩を跳ねさせ、そのせいかどうかわからぬ困り顔をそろりと向けてきた。
「土方、さん」
返事をした人物――雪村千鶴は、部屋に面した廊下の隅にうずくまるようにして膝を抱えていた。出来ることなら消えてしまいたいんじゃねえだろうか、と、あまりの縮こまり方に土方が思えば、そうそう外れでもなかったらしい。
「あまり屯所内をうろつくんじゃねえと言っといただろうが。幹部部屋(こっち)にはそうそう平隊士は来やしねえが、絶対に来ないとは言えねえ。挙句そんな妙な態度じゃ、事情を知らないヤツらに切り殺されたって文句は言えねえぞ」
おら、とりあえず立て、と膝を抱えた腕を掴んで引き上げると、力が余ったのか千鶴の踵が浮いた。幾ら小さいからと言っても、これは軽すぎではないだろうかと土方は眉間に皺を寄せたのだが、当の本人はそれを、不機嫌のせいだと思ったらしい。申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にしてきた。
「とりあえず部屋に入れ」
「あ、いえ、すぐお暇します。すみませんでした」
「聞こえなかったのか? 俺は入れ、と言ったんだ」
暇じゃねえんだから手間取らすな、とまで言われてしまえば千鶴に否の言えようがない。しょんぼりと肩をまるめて、土方の後を追って彼の部屋に入ると、音を立てずに障子を閉めた。
「で? 何であんなけったいな格好でいやがったんだ」
「……けったい、ですか」
言われた言葉が衝撃的だったのか、千鶴が口の中でその単語を転がす様を土方が半眼でみやる。人の部屋の前で、無言のまま膝を抱えてまるまっている姿を表す言葉として、それ以外のものがあれば言ってみろ、という心境だ。
「ちょっと、とある人から逃げてまして」
「総司か?」
「い、いえ! そりゃたまに逃げたくなる時もありますけど、って」
言ってからしまったと思ったのか、大仰に己の発言に驚いてみせたあと「すみません今の沖田さんには内緒にしておいてください!」と続けてきた。土方にしてみれば、なんでわざわざそんなことをあの餓鬼に言ってやる必要があるんだと逆に問いたい気分だが、千鶴には大事な問題らしい。返事をするのも面倒だが、本気で泣き出しそうな千鶴の顔を見、土方は「ちっ」と舌打ちをした。
「言いやしねえよ。で? 総司じゃねえとすれば、誰から逃げてるってんだ」
「……とある隊士の方から、です」
名を出さずに言いよどむ姿に、含みを感じた土方が視線を強める。何があった、と先ほどとは違う意味を乗せて問えば、僅かな怯えを含んだ眼差しと共に、高く結い上げた髪が揺れる。
「私が女であるとは気付かれていないようなんですが、その……」
「あーわかった、皆まで言わなくていい」
片手で額を押さえ、もう片方の手をひらりと千鶴に振って見せた土方は、苦々しげに溜息をついた。まあこんなこともあるかとは思っていたが、これだけ自分を含めた幹部連中の傍にいる千鶴に、堂々と関係を求める気概のあるヤツなんざそうそういねえだろうと高をくくっていたらこれだ。
女としても「男」としても、色恋に疎そうな千鶴がおろおろと視線をさまよわせているのを、こんなガキをそういう対象で見るヤツがいるのかと、千鶴からすれば実に失礼な感想を持って土方が当人を見れば、珍しく敏感に意図を察した千鶴がその頬を赤らめた。
「そりゃ、私だって私なんかって思ってますよ!?」
「誰もンな事言ってねえだろうが」
「言ってます。土方さんの目が言ってます」
「ほう、俺の目がか。いつから俺の目は口の代わりに言葉を言うようになったのか教えちゃくれねえか」
大人気ない物言いで千鶴を威嚇すれば、案の定少女はだんまりを決め込んで唇を閉じた。土方歳三という男は、酷く冷静な参謀的立ち位置であるくせに、時たま妙にこういうところがあるから困る、と千鶴は内心だけで愚痴を零す。特に沖田といる時にその片鱗が覗くことが多い。
「ったく面倒臭えなあ」
「すみません……」
「何でおまえが謝るんだよ。別におまえのせいじゃねえだろうが」
頭を垂れてしまった千鶴を見、土方が呆れたように言ったが千鶴は顔をあげない。出会った時からそうだが、この子どもは10のうちの1でも自分に非があるのなら全て己のせいにするきらいがある。それは時によっては美徳とも呼べるものだが、少なくとも土方らが身を置く世界では致命的ともなりうるものだ。
無論、そこにまで千鶴を踏み込ませるつもりは毛頭ないのだが。
「あのな千鶴。例え他人がどう言おうと、てめえに非がねえと思うことに関して軽々しく頭を下げるんじゃねえ」
ましてや誰も非難してねえなら尚更だ、と、言えば返される言葉も「すみません」だ。こりゃあ重症だなと無意識に溜息が零れ、それがまたも目の前の子どもを萎縮させるものだと気付き、やりきれない思いで綺麗に結い上げられた襟足をかいた。
「で? どこのどいつだ」
「お名前までは」
「何番組かくらいはわかるだろう」
「あ、はい。十番組の方です」
告げられた数字から、組長である男の顔を思い浮かべると「なら話は早えな」と土方は独り言ちた。これが一番や二番と言った数字だったならば頭も抱えたが、こういった色事に一番長けたあの男が束ねる組のものならば、自分が出るまでもないだろう。
あとで原田を呼んで、上手く気を配る様言えば済む話だ。
相変わらず萎縮したままの千鶴を見、土方は「しかし」と言葉を続ける。
「てめえの組長が可愛がってるおまえに手を出そうなんざ、随分気に入られたもんだな。総司や斎藤はともかく、原田や平助のそれなんざ、あからさまに女に対するもんだろうがよ」
気をつけろと言ったところで聞きやしない幹部を思い出し、土方は苦い顔をする。原田などは二人きりの時とそうでない時で上手く千鶴への態度を使い分けているのかも知れないが、平助などはあからさまに年下の少女にたいする態度で千鶴と接している。
二人を含め、衆道の気など全く感じられぬ隊士の間ですら「雪村が相手なら」という声を聞かぬわけでもない。元が娘なのだから当然といえば当然なのだが、「男」として通っている千鶴に対してそういう目を向けること自体が土方には理解出来ないでいた。
しかしながら事実は事実として、そういった相手への牽制も含めて平助らの態度を利用していた節もある。幹部が「そういう扱い」をする小姓に対し、手を出すものなどいないだろうという目論見の上で。
だというのに、これだ。
言われた千鶴にしてみれば答えなど持たぬ問いを投げかけた土方は、彼にとっての「ただの子供」を見つめる。小さな小さな子供。出会った時よりは幾分背も伸び、顔つきも凛としたものになってはいるが、まだ女と呼ぶのも躊躇われるほどの子供だと思う。
組長を務めている平助とさほど歳の頃は変わらぬであろうが、背負うものの違いからか、はたまた無意識の内の男女に対する意識の差か、土方にとって平助は男であり、新選組幹部という認識はあっても、千鶴に対しては女どころか娘という認識すら薄いものでしかない。無論、千鶴の性を軽んじているわけではないが、どうにも自分が見ている「雪村千鶴」と、他の隊士が見ている「雪村千鶴」の間に差があるように思えてならない。
そう思うのは自分が、他の隊士よりも彼女と歳の頃が離れているせいだろうか。
「あとで原田に言っておいてやるから、おまえはさっさと自分の部屋へ戻れ。落ち着くまではそれとなく山崎や島田に気を配るように言うが、最終的にてめえの身を守るのはてめえだって事を覚えておけ。それに、おまえが女だってバレでもしたら、それこそ別の対面整えるのが面倒だろうがよ」
わかったら戻れ、と、文机に向かいつつひらりと振った手の向こうで、何故か千鶴の目がぱちりと瞬いた。また大仰に頭でも下げるかと思った土方が、予想とは違う反応に違う意味で眉をひそめる。
「なんだ? まだ何かありやがるのか」
「っ、あ、いえ!」
「何でもないって顔じゃねえだろう。面倒事なんざ1つも2つも同じなんだよ、後でバラバラ出されるよりはまとめてもらったほうがこっちも楽なんだがな」
「いえ、問題ではなくて、びっくりしたというか」
言いながら、千鶴の頬がほんの僅かだけ緩む。
その反応が理解できず、ますます土方の眉間の皺が深いものになる。と、千鶴が慌てたように居住まいを正して言葉を重ねた。
「すっ、すみません! ただ、その、あの……『斬る』んじゃないんだな、と思いまして」
「あ? なんだおまえは。そんなに死にてえのか」
千鶴の言う事が理解できずに問い返せば、「そんなわけないじゃないですか!」と大仰なまでの返事が返ってくる。ならば何を騒ぐことがあるというのか。
「だったらくだらねえ事言ってねえでとっとと部屋へ帰れ」
「はっ、はい! あの、すみませんでしたお忙しいところ」
後でお茶をお持ちしますね、と言う千鶴に、土方は最早応えず文机に向かう。すぐの後にはたりと僅かな音を立てて障子が閉められると、先ほど持ち上げたに相応しい軽さの足音が、やがて廊の向こうに消えた。
静寂が訪れた部屋に響くは、己の筆の音だけ。溜まっていた書面に目を通しては、必要と思われる返事を書いていく。作業としては同じだが、その内容の重さはそれぞれ天地ほどの開きがあるこの仕事は、自らしか出来ぬこととは言え心の休まるものではない。
かた、と筆を置いた手とは反対のそれを利き腕の肩にやり、首を回す。向き不向きは別として、好きな仕事じゃねえな、と内心零したところで傍らにある湯のみに気がついた。
そう言えば、茶を持ってくると言っていたなと思い出す。そして、書面に向かっている間にそのような声をかけられた記憶もそこはかとなく残っていて。
その正しい時刻までは思い出せぬが、手に取った茶の温度からしてそう遠い時間ではない。むしろ、つい先ほどと言っても良いくらいであろう。
そろそろ自分の仕事が一段落する頃を見越したのだとしたら、大したものだ。誰が仕事上がりに冷めた茶などを飲みたいと思うだろうか。己の好みが熱めのそれであれば尚更だ。
呼気と共にしか飲めぬ温度の茶を一口啜り、広がる苦味と熱に知らず身体が解けてゆく。湯飲みから唇を離し、大きく息をついた。
『斬る、じゃないんだな、と思いまして』
数刻前に聞いた、千鶴の声が響く。それを聞いた時に、土方の胸に湧いた感情は、「心外」の一言だった。
自分達は何も、誰彼構わず斬り殺している訳ではない。志があるからこそ、その道を阻むものであれば斬るというだけだ。
確かに千鶴と出会ったばかりの頃は、今後の憂いを考えれば千鶴の命を絶つことも止むを得まいと思っていた。千鶴が知ってしまった秘密は決して小さくは無く、寧ろこの組織の根底を揺るがしかねない機密中の機密事項であり、年端もいかぬ子供の命を奪う事に躊躇いがない訳ではないが、情にかまけて新選組そのものが潰れてしまっては元も子もない。
そう、千鶴の命が永らえたのは彼女が変若水の生みの親である雪村綱道の娘であったことと、決定的な失態を犯していなかったというただそれだけの事だ。
正確に言えば、「無闇に女子供を殺したくない」という「理由探し」に、「運良く」ひっかかっただけの事。
彼女が何か失態を犯せば、ひっかかっただけの彼女の命はあっという間に落ちて消えてなくなる、その程度のもの。彼女だから助けた訳ではない。あの時点で命を奪うまでの決定的な理由が無かっただけだ。
再びに茶を啜る。温度だけでなく味も己好みのそれに、何故か己の眉間の皺が深いものになっていくのを止められず、鬼副長などとは良くも言ったものだと自嘲した。
知らず、あの子供の存在が己の中で広がり始めている。自分だけではない、この新選組という組織の中で。
志の為に他人の命を奪い、血を流す己らが千鶴に求めるものは何なのか。それを考えれば答えは明白であり、それを弱さと取り唾棄するか、人として当然と居直るかはそれこそ人それぞれだろう。そう思えば、規律に縛られた男所帯であるが故に排泄の対象として向けられるものばかりではなく、彼女が彼女であるが故に向けられる情もあるのだろう。それこそ、自らが所属する組の頭が気をかけている存在であろうとも、抑えられぬほどに。
「だとしたら、少しばかり厄介か……」
女であることがばれたとしても、最早殺せぬであろう。面倒だとは思うが、それを仕方のないことだと許容してしまうほどに、気がつけば彼女はこの組織に溶け込んでいた。その事実は、認めねばなるまい。
こんなにも関わらせるつもりはなかったのだと悔いても始まらず、その悔いは何に対するものなのかも分からぬ。己が組織の為か、千鶴の為か。それとも。
「……殺す訳ねえだろうが、馬鹿野郎」
心外だ、と思ったその心、は。
子供でしかない。けれどもう、「只の」子供ではない。志の邪魔になるならば、殺さねばならぬことに変わりは無いが、出会った頃よりも格段に、その時の喪失は大きいものであろう。
兆しに気付かねば芽は吹かず、故に花も咲かぬ。咲く花が無ければ成る実があろうはずもない。
けれど確かにあった「それ」が、どうしようもなく渇望した存在に向けられるものだと気付いた時には、最早許されざる時代のうねりに、土方は身を投じていた。
やがて時が移り、新選組という組織が大きく変わった後の時代に。
只の子供で無くなった千鶴が更に、自分にとって別の存在になろうとは、この時の土方には分かるはずもなかった。
Fin
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Comment:
屯所時代の土方さんは、千鶴のことなんて(女として)なんとも思っていなかったに一票なのですが、
それでも自分で思うよりずっと重みの有る存在だったらいいなあという希望。
20100305up
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