三番隊に所属する男が脱走したと、千鶴が耳にしたのはすでにその「処置」が終わった後だった。
罪人はその内容によっては、切腹ではなく斬首となる。新選組における約定を違えた者には切腹を申し付ける、とあるが、ことの次第によっては切腹すら許されずに首を斬られることもある。
どれ程の罪をその男が犯したかは知らぬが、今回の一件がその「特例」となったことからも、隊士ではない自分にすら事の重大さが伺い知れる。いつもよりさわさわとどこか浮き足立った屯所内の空気を敏感に感じ取り、しかしそれを面に出してはならぬと、千鶴はいつも以上に気を引き締めて雑用をこなした。
この新選組において、脱走はそれほど珍しいものではない。その数の多さは、本来ならば屯所に呼び戻した上で切腹させるのが正式な処罰でありながら、脱走者の後を追い、そのまま報告のみを持ち帰るという観察方の動きからも、最早見つけ次第処刑するという手法が暗黙の了解となっている事実が教えてくれる。
「あれ? 千鶴どうしたんだよ」
夕食も終わり、夜の巡察当番である組以外は門限に縛られて屯所内にひそむ中、薄闇に溶けた廊下を歩く千鶴の姿を見咎めて平助が声をかけてくる。
千鶴の手の中にある、ふきんを被せられた皿を見、その中に見当をつけた平助が僅か複雑そうな顔をしたのに対し、千鶴も同じような苦味を含んだ笑みを返す。
「夕食、あまり食べてなかったみたいだったから……」
夜の巡察当番は夕餉を済ませてから出かけるのが常であり、三番組組長の姿もそこにはあった。が、いつもならば両隣はおろか真向かいの膳にまで箸を伸ばしては己の糧を取得する斎藤の姿はそこになく、寧ろ自らの糧を他者に譲る姿があった。
「あー……まあ、なあ。っていうか、千鶴おまえ」
「うん……知ってる」
だよなあ、と、平助が襟足を掻き毟りながら気遣わしげな視線を自分に寄越すのを感じ、千鶴は無用とばかりに頭を左右に振る。自分なりに、ここがどういう場所かは分かっているつもりだ。無論全てを受け入れられている訳でもなく、頭では理解していても心が受け付けないことなど多々あるが、この件に関しては己の事情などどうでもいい。問題は。
「三番組の隊士ってだけじゃなくてさ、なんつうか、一君もそれなりに信頼してた相手だったってのもあるし……」
――それを自分が斬ったんだから、まあ後味悪いよなあ。
続けられた言葉に、千鶴が瞠目する。
「え……?」
思わず零れ出た言葉に、平助がしまったと自らの口を手の平で押さえたが既に時は遅い。千鶴の「知っている」という返事に全てを知っているのかと思ったが、どうやら千鶴が知っているのは、三番組の隊士が処罰を受けた、というところまでだったらしく、彼を粛清したのが他ならぬ斎藤だったという事実までは知らなかったらしい。
「……仕方ないんだよ。隊士の不始末は、原則同じ組の人間か同期のヤツが片付けるっていうのが、通例になってるからさ」
そのほうが互いを牽制できるのだと口にして、まるで言い訳のようだと平助は思った。
「斎藤さんが……」
「組長格が介錯をするなんていうのは、本当は異例なんだけど。なんだか一君がやたらと責任を感じたらしくてさ。あ、別に土方さんが申し付けた訳じゃないぜ? 今回の件は、一君が自分から言い出したことだし」
そこまでケジメつける必要なんてねえと思うんだけど、と、おまけのように付け足した言葉が誰の為であるかはわからぬが、目の前にいる千鶴の表情が刻々と暗いものになっていく様に耐えられず、平助はきょろきょろと視線を彷徨わせた。が、やがて諦めたように正面から千鶴を見やる。
「仕方ないって言葉じゃ納得しないの分かってるけど……あんまりそういう顔、一君の前でしてやるなよな」
言われて、はっとしたように千鶴が瞠目する。気まずそうに、けれどしっかりとした意思を持って自分を見つめている平助に対し、己の弱さを突きつけられたようでかっと頬が熱くなった。
「ご、ごめん」
「いや、別にオレに謝ることじゃないし」
重ねられた気遣いの言葉に、更に身の置き場が無くなる。恥ずかしい。胸のうちを隠せぬ性分であることは自他共に認めるところだが、部外者である自分が、当人よりも悲壮な顔を浮かべてどうするというのだ。
「ごめん。ありがとう」
一度俯き、再び上げた顔には先ほどの色はなかった。平助はそれを見ると、ふ、と相好を崩して千鶴の頭を撫でる。
「わっ」
「オレさ、おまえのそういうトコすっげえいいと思う」
「え?」
「そろそろ一君も巡察から戻ってきてるはずだし、それ、持って行ってやれよ」
「う、うん」
ほら早く、と、押されるように足を斎藤の部屋へと向ける。後ろ髪を引かれる気持ちもありつつ、見送られるがままに歩みを進めた。
幹部が部屋を持つ一角は、夜になると物音を聞くことすら珍しい静寂に包まれる。無論、部屋で酒を酌み交わす際は、それはもう見事なまでの騒々しさに包まれることもあるが、大抵は屯所の奥まった自室ではなく、中庭に面した縁側で宴会を催すことが多い。
今晩は特に静かなように感じるのは、昼間の事件があったからだろうか。それとも己の感じ方一つなのだろうかと、答えのない問答を繰り返しながら、千鶴はやがて目的の男の部屋の前にたどり着いた。
行灯から漏れ出る光が、廊下に面した障子をも照らす。主がいるのかいないのかわからぬほどの静けさだが、千鶴は握り飯と茶の乗った盆を脇へ置くと、名乗りながらす、と僅かに障子を開ける。
「何用だ」
短く返された言葉が酷く硬いものに感じ、勝手に身が竦む。声にその動揺が出なければいいと祈りながら、千鶴は言葉を続けた。
「お夜食をお持ちしました。あまり、夕食を食べてらっしゃらなかったように見えましたので」
暫しの沈黙の後に、要らぬとの返答が返された。だがそのまま戻る気にもなれず、逡巡のままに動けずにいた千鶴に、やがてため息と共に「入れ」と言葉がかけられた。
「失礼します」
開いた障子から盆を差し入れ、自らも部屋に入り障子を閉める。こちらを向かぬまま文机に向かっている背中はいつもと変わりないように見えて、纏う空気がやはり硬い。
「そこへ置いておけ。気が向けば手をつける」
だからもう去ねと。そう、言われている気がした。
こちらをちらとも見ぬ行為も、常の斎藤らしからぬ行為だ。土方などは、千鶴が如何に食事を運ぼうが茶を運ぼうが、視線を向けるどころか返事さえも寄越さない場合もある。が、斎藤に限ってはどんなに手の込んだ仕事をしていても、千鶴が茶を入れれば必ずその手を止めて、肩越しではあるがまっすぐに目を見て礼を言ってくれるのだ。
「どうした。まだ何か用でもあるのか」
一向に立ち去る気配の無い千鶴に、ようやく斎藤の視線が向けられる。険の含まれた声に思わず謝罪の言葉を口にしながら、それでも千鶴はその場を立ち去ることが出来ず途方にくれる。何か理由を探さねばと、思いつく限りの助力を申し出るが、そのどれもが無用と、言葉無く振られる首で拒絶された。
「もう夜も遅い。早く休め」
「斎藤さんは……」
「俺にはやらねばならぬ仕事がある。あんたはもう休め。皿は自分で片付けておく」
「……」
「千鶴」
名を呼ばれ、慌てて頭を下げて部屋を辞すべく身を引いたところで、彼らしくもないため息が零された。
「何を聞いたかは知らぬが、恨み言なら後にしてくれないか。今はあんたの相手をしている暇はない」
「え?」
ともすれば聞き逃してしまいそうなほど、微かな声音の変化を千鶴は敏感に感じ取る。
「俺は当然の任を果たしたまでだ。あんたにとっては納得の行かぬことかもしれんが、新選組の隊規に背いた以上、命を以って贖うは当然の成り行き。所詮壬生狼のやることと、気に入らねば目を背け、耳を塞げばよい」
「ち、違います! そういうことじゃなくて……!」
再び文机に向かった斎藤の背に、千鶴は言い募る。
「確かに、納得がいくかいかないかで言ったら、どんな理由があろうとも人の命を奪うことに対して私は頷くことは出来ません。でも、ここがそういう場所だってことは、ちゃんとわかっているつもりです」
「ならば何故、そのような目で俺を見る。はっきりと己の意思を伝えるつもりがないならば、会話にもならん」
存外に厳しい返答に、言いかけた言葉が喉の奥で凍りついた。知らず汗をかいた手の平を握り締め、膝の上に置く。
「……罪を犯したのは、斎藤さんの隊の方だと伺いました」
「ああ」
「粛清をされたのが……斎藤さんだと言う事も」
「…………」
かたり、と筆が置かれる。それは何かの合図のように、静かな部屋に響いた。
自分は何を言いたいのだろう。良くわからぬままに口をついて出る言葉は、斎藤にとって刃になりはしないのだろうか。
肩越しではなく、半身を向けて視線を合わせてくる斎藤の静謐な眼差しを受けながら、その奥に沈んでいく暗闇を見つけて胸が締め付けられる。
彼の眼差しは、まるで湖のようだと千鶴は思う。
静かな静かな森の奥にある、名も知れぬそれ。朽ちた木々を受け止め、川や海のようにどこにも移すことも運ぶこともなく、ただただその身の奥底へと沈めていく。気の遠くなるような時間が経ち、やがてそれが朽ちて同質のものとなるまで、あくまでも表面は穏やかに凪ぐだけだ。
湖に落ちていったそれらは、形を崩してもその質を水に溶け込ませる。ならば、そこにある救いとは一体どのようなものだろうか。現象をただ事実として受け止め続けるその姿は、どうしようもなく、淋しい。
「冷酷だと、非難をしにきたか。昨日まで同じ組の仲間であった男を、確かに斬ったのは俺だ。事実である以上、言い訳をする気はない」
「っ、違います!」
「ならば何故、そのような目で俺を見る」
(『あんまりそういう顔、一君の前でしてやるなよな』)
ごめん、と心の中で平助に詫びる。折角してくれた忠告を、自分は早速無下にしてしまった。
泣きたい気持ちになりながら、それこそ最悪だと腹の下に力を入れ直す。
「斎藤さんが、お仕事でそうされたのは、わかっているつもりです。けれど、斎藤さんが仰ったように、その方はずっと斎藤さんと一緒にこの新選組にいらっしゃって」
「恨み言なら後にしろと言ったはずだ」
「そうじゃ、なくて! 私は、斎藤さんの方が――」
己の心を、気遣われるなど僅かにも思っていない問答がたまらなく辛い。
仲間を斬る行為を、任務だと平然と言ってしまえる彼の強さが、痛い。
上手く伝えることも出来ぬくせに、言葉を紡がずにいられない己の弱さに辟易する。ただ心配なのだと、言いたいだけなのに。言ったところでどうにも出来ぬ己の無力さもわかるから、一歩を踏み出す事もできない。
ならばこの場にいる自分は、何だというのか。
先ほどまで満ちていた苛立ちとは違う困惑を斎藤から感じ、千鶴は「すみません」と頭を下げた。すると、謝られる理由がわからぬと返される。確かにそうだ。自分ははっきりと、自分の気持ちを伝えていない。
顔をあげ、交わされたその眼差しは相変わらず揺らぐ事はない。ただ静かに、在るだけ。
(斎藤さんは、どこ?)
志の為に、為すことを成すと言い切った彼の言葉にも行動にも一片の迷いはなくて。
だけど何も感じていない訳じゃないのは、自分にももうわかる。目の前の男が、どれほどに優しい人物であるかを身を以って知っているから。
自らの志を達する為に無私になる。
それは強欲ということか。清廉ということか。
危ういほどの細い糸で隔たれているようで、誰も切ることの出来ない鋼のような強さをもったそれでもあるようで。
ただ。
(あなたの)
気持ちばかりがおざなりにされているようで辛い、というのは、失礼なのだろうか。
こんなにも優しいひとであるのに、彼のとる行動は誰よりも明白だ。感情など志の前には何の価値もないとばかりに、同士の粛清すら迷わず行うこのひとは、けれどどれだけの傷をその身に負っているのだろうか。
「何故おまえがそのような顔をする」
「……どんな、顔をしていますか?」
言葉が見つからず、質問に質問を返してしまう。斎藤は千鶴の問いに暫し沈黙し、やがて視線を逸らさぬままに答えた。
「ひどい顔だ。まるで、この世の終わりのような顔をしている」
「そうかも、しれません」
「何故」
問うてくる男の眼差しが、僅か柔らかい色を纏う。己の心がどれほど傷ついているかにはまるで目を向けず、傍にいる者の傷にばかり手を差し伸べて。多分、どれ程に自分が傷ついているのかも分からないのであろう。それが何よりも辛い。
こんなにも優しいひとなのに、どうして。どうして。
心ばかりではない。戦場においても同じだ。如何にその身が深く傷つこうとも、一言も苦痛を漏らしはしない。彼の口から発せられる言葉は、敵への宣告と、仲間への指示や励ましのみだ。
痛い、苦しいなどとは死んでも言わぬ男だと。
身も心も千々に切れて尚分かるから、苦しくて。
「千鶴」
呼ぶ声が優しい。そんな声で呼ばないで下さいと、訴えるように首を左右に振ることしか出来ない。
彼の心を全てわかったかのように悼み、上手く伝える術を持たず口ごもる様はなんとおこがましく無様なものか。
「斎藤さん」
男の名を呼ぶことしか出来ず、千鶴はただその名を繰り返す。
涙を零さぬ代わりに男の名ばかりをこぼし続ける自分を、その男は何も聞かずにただ、見つめ続けていた。
――そのこころに触れることができたら、どんなに。
(私は、あなたのことが)
了
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Comment:
魚谷あおさん(@緋垂)のお誕生日プレゼント。
斎藤さんSSでリクエストを頂きながら、時間がかかったうえにものっそい
暗い話になりましたごめんなちい。
あおたま、お誕生日おめでとうございました! 愛!!
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