** Happy C×2 **
 ●かわいいひと

 本当に嫌だと思った。
 自分が関係ない人間だって言われても、命に殉じることが己の生きる証だといわれても、それだけはどうしたって嫌だった。
 だけどそんなことを言ったって、例え私が泣いたりわめいたりしても、決してこのひとの心は変わらない。出来るとすれば、彼の中に隠されている柔らかい部分に爪あとを残すくらいだ。
 そして彼はきっと、そんな痛みすら綺麗に隠し切るだろう。傷ついた、という事実は変わらないのに。
 だったらせめて、お傍にいたいと願って。何も出来ないなら、見届けたいと思った。
 彼が彼の目指す高みにたどり着けず途中で果てたとしても、その表情が絶望に彩られていたとしても、それが彼ならば見届けたいと思ったのだ。

 その感情に名前をつけるのなら、愛なのだと。
 本当の意味で私が知ったのは多分、ひとりになってからなのだと――思う。

 

 二人で暮らし始めてからの彼は、ずいぶんと丸くなった。
 というか、甘え上手だと思う。なんだろうこの天然っぷりは! と、こちらがじたじた歯噛みしたくなるほどの狡さを見せる。勿論それが計算じゃなくて、だから天然だって思うのだけれど、だから余計にたちが悪い。
 甘え上手、と評したくなるのは、上手く言えないけど「甘えて」はいない。むしろその点では昔の彼そのままに厳しすぎるほど己を律している。見ているこちらが時々痛くなるほどに。
 ただ変わったのは、彼と私の関係における諸処のやりとりに関して「当たり前」を求めるようになった。心を通わせたものならこうであるべき、契りを交わしたものどうしならこうあるべき、と言ったところ。
 私が彼に遠慮して何か一線を引こうものなら、それが例え無意識のものでも斎藤さんは拗ねる。そう、拗ねるのだ。怒るのではなく、叱るわけでもなく拗ねる。そうされるともう、私はどうしようもなくなってしまう。
 拗ねるのはつまり、それを彼が許して認めているということ。私が当然の権利として主張しても良いこと。だのにそれをしないのはどういうことか、と拗ねる。だから私は、どうしようもなくうろたえてしまうのだ。彼の苛立ちが甘くて、幸せすぎて困る。
 それが一番良く現れるのは名前の呼び方だった。長い間「斎藤さん」で彼を呼んできた私は、なかなかそれを変える事が出来ない。最初はいちいち注意してくれていた斎藤さんも、最近では実力行使――つまり、呼んでも返事をしてくれない――に出るようになった。
 どうしてこんな小さい子どものようなことをするのかと叱ったこともある。斎藤さんも一さんも同じじゃないですか、と癇癪を起こして言い返したら彼は暫く私のことを「雪村」と呼ぶようになった。本当に、なんて人だろう。
 確かに、好きな人に名前を呼ばれないのは寂しい。

(ってだからつまり、一さんもわたしをすきってことだよね)

 一緒に暮らしておいて何を今更、とは自分でも思うけれど、だけどやっぱり好きな人にはしっかり自分の事も好きでいてもらいたい。だけど口には上手に出せない。
 そういう時にふと、名前のことや、それ以外の些細なお願いごとをした時。日常のやりとりで彼が私を愛してくれていることを実感できて、困るのに幸せになる。

(あ、そっか)

 甘え上手なんじゃなくて、甘やかせ上手なんだ。
 やっと気付いて、先ほど帰ってきたばかりの一さんの背中を盗み見る。広い背中。男の方にしては決して屈強な体型ではなく、むしろ線が細いといわれることもある彼のそれは、けれど私にとってみれば誰よりも一番安心できるもの。
 足音を忍ばせて、そそそ、と寄ってみる。そのまま広い背中に甘えてみようかと腕を伸ばした瞬間、くるりと振り返った彼に伸ばした腕を取られ、世界が反転した。
「一本、だ」
 口角を上げて悪戯げに言う斎藤さんに、一瞬だけ膨れて見せてから笑い返す。悔しくなんかないですよ、どうせ気付かれずに近付くなんて、無理だってわかってたんですから。
 彼の膝の上に全体重を預ける形になった私は、両の腕を彼の首筋に絡め、胸元に顔を寄せた。
 不安定な体勢を斎藤さんの腕が支えてくれる。私が甘えたのに、今じゃ逆に彼に抱き寄せられるような形だ。
 いつもならこんな風には決して甘え(られ)ない私を、珍しいとでも思ったのか名を呼ぶことで心の内を問うてきた斎藤さんに、首を振ることでなんでもないと意思表示をする。


 ――ただ、いとしくてどうしようもなかったんです。


 そんなことを言ってもきっと、困らせてしまうだけだと思ったから。
 言葉少なで、寡黙とすら言ってもよくて。
 だけどそれは人との関わりを軽んじている訳では決してないのだというのは、少しの時間を一緒に過ごせばすぐ分かる。

 誰よりもやさしいひと。
 厳しいやさしさを持ったひと。

 そんな彼のお傍にいられる私は、なんて果報者なんだろう。
「さい……一さん」
 全部を言葉にするよりも早く彼の眉根が「うよ」、と寄ったことに気付き、慌てて軌道修正を図る。ぎりぎりのところで許されたそれに、寄せられた眉根が元に戻った。
 そのあまりに如実な反応に思わず噴出して肩をゆらす。なんてかわいいひと。
 笑う私の前で、斎藤さんが不本意そうな顔をする。流石にかわいい、なんて口に出したら怒られるのは必至で、だから言わずにいたのだけれど私の表情から漏れてしまっていたらしい。むす、と引き締められた口元がそれを語り、だけどああ、そんな仕草一つがやっぱりいとしいと伝えたらあなたは困ってしまうだろうか。
「斎藤さん」
 呼んで、やっぱり返事はなくて。
「一さん」
「……なんだ」
 呼ぶと、やっぱり返事を返してくれる。
 紫紺にも見える黒い瞳をまっすぐに見つめると、そこに映る自分が見える。一さんが愛しくて仕方ない、と言ったただの娘だ。
 自分でもわかるくらいだから、一さんならもっとわかるでしょう?
 隠すつもりもないけれど、例え隠したとしても伝わってしまうほどの想いが確かにあって、そしてそれを受け止めてくれるひとがいる。
 同じだけの想いを、返してくれるひとがいる。
「私、随分我侭になりました」
 唐突な告白に一さんが少し、返事に困ったような顔をした。
「それに、欲張りで。あと、贅沢にもなりました」
 あの頃では考えられない幸せに身を置き、時間が流れていく。いつか終わりの来るものだと「知って」はいても、「わかる」ことが出来ないほどに。
「おまえの言う『贅沢』は、然程そうとも思えんが」
「そんなことないです。すごい贅沢です。欲張りです――だから」



 ――もう少しだけ、このままでも良いですか?



 本当はもう夕餉の時間だけれど、あとほんの少しだけ。
「おまえさえよければ、構わない」
 少しでなくとも、と、付け足された言葉と同時に回された腕に力がわずか、込められる。
 土間から、湯の沸き立つ音がしたけれど気付かないふりをして。

 ここにあるぬくもりをかみ締めた。


 

 

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ここに在る幸せ。
20090215up


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