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●きざはし |
「……っあ」
それは心臓を直接握りつぶされるような感覚だった。
内側から熱い塊が膨張し、けれど己の人型がそれを無理やり押さえ込んでいる、という感覚。内外の軋轢を神経全てで押さえ込まなければならない状況に、まともな思考など霞のごとく消えてなくなりそうだ。
ぎり、とかみ締めた唇から血がにじむ。意図せずに零れた赤い雫が舌に触れた瞬間、千鶴の心臓が跳ねる。己の血液だというのに、なんて甘く感じるのか――!
(だめ)
止めようと思っても己の歯は必要以上に唇の傷を広げ、甘露を湧き出させようとする。駄目、駄目、と言い聞かせる言葉は最早何の効力も持たず、そんな己の不甲斐なさに涙すら浮かべながらも千鶴は傷口にひたすら舌を這わせる。
「あ、う……っく」
蜘蛛の糸ほどの理性が、これ以上は駄目だと右腕を口に咥えさせる。その腕に移った血を、舌は執拗になめまわしたが、やがてそれがなくなると己の行動を非難するように傷のついた唇を求めるが理性が頑なにそれを防いだ。唇と舌の間を己の腕で遮断し、吸血衝動が収まるのをひたすらに待つ。お願い、早く収まって。私はまだ、狂いたくなんてない。
頭の内側で梵鐘が打ち鳴らされるように苦しい。外界を感じる余裕は無く、ただ己の内側の苦しみが全て。
「――――!」
何かが聞こえた様な気がした。次に、今まで己しか感じられなくなっていた世界に、強引に割り込んできた力を感じて。
どれくらいの時が経ったのか、萎えた瞼をゆるゆると開けられるほどには回復した千鶴が見たものは、視界いっぱいに広がる木枯茶の髪色だった。
「おき……たさ……」
「喋らなくていい」
足は確かに地面についているが、それ以外の場所は沖田に預けられていた。申し訳ない、と思う余裕すら千鶴にはなく、一旦は上げた顔を再び沖田の肩口に預ける。
背中に回された腕が、落ち着かせるように上下に動く。そろりと己を伺いながら息を大きく吸い込めば、それが可能だったことに千鶴は心底安堵した。
「動かしていい?」
千鶴が小さく頷いたのを確認し、沖田が千鶴を抱き上げる。場所を板間から居間に移動し、端に寄せてあった座布団を行儀悪く足で広い場所へ移動させると、千鶴をそっとそこに下ろした。
羅刹の発作は、男の自分ですら耐えがたいものだ。その苦しみを知るからこそ、まだ震えを残す細肩の持ち主である千鶴にとって、それがどれほどのものであるかなど想像するに余りある。
ただでさえ白い肌が、更に蒼白なものになっている。唇ですら色を失っていたが、口の端に残っていた血らしき跡だけが妙に色を主張していた。
「すみません……ご迷惑を」
この期に及んで謝罪の言葉を口にする千鶴に苛立ちさえ覚えながら、けれどそれをぶつけないように溜め息にまぜて吐き出した。
「いいよ。お互い様じゃない」
ぶっきらぼうな口調に隠れているやさしさに、千鶴は頬を緩めた。昔も確か、こんなようなやり取りをしたような気がする。その時は当然このような関係ではなく、それどころか殺す殺さないの関係で、言われた言葉は「もう僕に迷惑をかけたって事は変わらないんだから、謝らなくていいよ」といった実にそっけないものだったのだが、思えばあの頃からちゃんと沖田は優しかったのだ。
漂々とした語り口に惑わされてしまうけれど、真意を思えば至って簡単で。
沖田にとっての一番は近藤。それ以降は皆同じ線上だけれど、どうでもいいといいつつも裏腹に態度は優しい。
池田屋で庇ってくれたこと。
子供達と遊んであげたり、なんだかんだ言いつつ巡察にも同行させてくれ、面倒ごとに巻き込まれれば助けてくれる。
君のためじゃないという言葉は突き放されたようにも感じるけれど、ならば尚の事うれしく思うのは前向きにも程があるのだろうか。
「落ち着いたかと思ってた。油断して君の傍を離れたのは僕の失態だ――ごめん」
驚いて顔をあげれば、傷付いた色の眼差しが揺れていた。千鶴は慌てて頭を振り、今だ自由にならない言葉をもどかしく思いながらも沖田のそれを否定した。
すると、沖田の腕が自分を再び抱きしめる。甘えるようにその胸に頬を寄せると、髪を掬うようにして沖田の指が耳朶の裏から襟足に触れてきた。
千鶴の襟足はわずか汗に濡れており、先の発作がどれほどの苦痛だったのかを伺わせるに容易い。過去を悔いても仕方がないとはわかりつつも、あの時――薫に油断さえしなければ、こんな苦しみを彼女にさせずに済んだのにと、どうしたって後悔は募る。
自分に身体を預ける千鶴から向けられる信頼を感じ取れば感じ取るほど、その後悔は深さを増し、沖田の瞳の翳りが色濃いものになる。髪を掬うように撫でる仕草は、千鶴のみならず己を落ち着かせるための行為でもあった。
「水、飲む?」
こくりと頷いたのを確認し、動こうとした沖田の着物を白い手が掴む。見れば恥ずかしそうに視線をそらしながら唇を噛む千鶴がおり、不思議そうに問う自分に気付いているだろうに、返事を明確にしない。
「どうしたの?」
視線だけでなく言葉にして問えば、更に着物を握り締める力が増した。ああ、そういうことかと沖田は苦笑し、喜びをじわりと滲ませた眼差しを半眼に伏せ、「そんなに僕と離れたくない?」と意地悪げに問う。
唯一赤みを取り戻した耳朶がその答えで、沖田は口では仕方ないなと言いつつ、内心嬉々として千鶴の身体を再び抱き上げた。
「お、沖田さんっ!?」
「だって君、水飲みたいんでしょ? そして、僕と離れたくも無い。だったらこうするしかないじゃない」
「そ、そりゃあ……」
それ以上の問答は不要とばかりに、沖田が千鶴を己の胸へと更に引き寄せる。千鶴はといえば、羞恥から色々と言い訳めいた言葉を発しようと試みたが、事実そうなのだから仕方ないとばかりに、諦めて沖田の胸に顔をうずめた。
こんな風に素直に甘える千鶴も珍しく、だからそれほどに発作が苦しかったのだろうとわかる。
当たり前だ。男である沖田ですら、そして様々な修羅場をそれなりに経験した身であっても、あの苦痛は言葉になど出来ない。
近藤の刀でありたいという願い、そして、千鶴の為に人でありたいという強い願いがなければとっくに、自分もあの羅刹と同じ運命をたどっていたのだろうと思う。それを、唯の娘である千鶴が気力だけで堪えているのだ。
(それとも)
君の中にある、ただただ人でありたいという願いの中に。
その一片にでも、理由として僕が存在するのかな。
堪える苦しみを知っていてもなお、そうであれば嬉しいだなんて。人の欲はどこまで果てがないのだろう。
「飲める?」
台所に汲み置いておいた水を碗に移し、千鶴の口元へと運ぶ。碗を持った沖田の手に千鶴の手がそえられ、そろそろと色を取り戻しつつある唇へと運ばれた。
白く細い喉がこくりこくりと上下し、碗の中身が千鶴の体内へと移動していく。己が完全に支配する動きではないせいか、碗の端から一筋水が零れて千鶴の口端から喉を濡らした。
中身を全て飲み干したところで、軽い吐息と共に碗が千鶴の口元から離れる。沖田がそれを脇に置くと、千鶴の濡れてしまった喉元をそっと拭った。
「もう、大丈夫です」
「やせ我慢はよしなよ。まだ辛いはずだ」
ぴしりと言い切られ、千鶴は言葉を失う。大丈夫、と言ったところでその症状を己が身で知っている相手には、どうも強がりが通じにくい。そして強がり、と言ってしまうくらいには確かに、まだこの身は気だるさを伴っているのは確かで。
「……沖田さんだって、いつも『大丈夫』ばっかり言うじゃないですか」
悔しさと拗ねる気持ちでそう口にすれば、半眼で軽くにらまれた。
「僕はいいの」
「何でですか」
「だって男だから」
あまりに単純なそれに、千鶴が思わず噴出してしまう。その言葉を口にした沖田も幾分気恥ずかしいらしく、頬がわずかに染まっているのは気のせいではないだろう。
男だから、という理由も然ることながら、目の前の人は単に、自分に心配をさせたくないという思いでその辛さを隠していることを知っている。ならば自分だってそうなのに、と千鶴は反論したい気持ちになるのだが、何をどう言ったところで無駄だということも知っていて。
それは互いに、相手を自分より大切に思うからこその事で。そのことに気付けば気付くたびに、幸せすぎて怖くなる。
出会ったその日から毎日のように、殺すよ、と言われて。
冗談だと言いつつ、その目は笑ってなんかいなかった。だけどその牽制があったからこそ、自分はあそこで生きていられたのかもしれない。
そういえば沖田は心底呆れて、お気楽にも程があるというだろうけれど。
「沖田さんはどんどん、私に甘くなっていませんか?」
「仕方ないでしょ」
――君が好きなんだから。
続くはずの言葉なんて、言わなくても伝わって。聞かなくても、わかって。
「仕方ないんですか?」
相手の為に強くありたいと願うのに、甘やかされるのが嬉しくて、その矛盾に自分で焦れる。焦れてぶつけた言葉すら受け止めてくれるから、本当にもう、どうしたらいいのか。
「僕は今まで散々君に冷たくしてきたし。甘やかしすぎて丁度良いくらいだからいいんじゃないの?」
あ、自覚があったんだ、と意外な思いで見上げれば拗ねたような表情(かお)。そうか、あれはやっぱり意地悪だったのかなと思い返しつつ、確かにあれを愛情表現と捉えられるほど、千鶴は能天気でも楽観的でもなかったから小さく笑う。
「顔色、戻ってきたみたいだね」
「はい。もう本当に大丈夫です。ご心配お掛けしてすみませんでし、たっ!?」
再びふわりと抱き上げられ、千鶴の身体が宙に浮く。そのまますたすたと元の居間へ運ばれ、先ほど広げた座布団の上に、千鶴を抱きかかえたまま沖田が座る。
「あの、あの、沖田さん?」
「何?」
「……おろして頂けないでしょうか」
「駄目」
だって心配したんだから、と、存外真面目な響きが滲んだ声で言われてしまえば、否の在り様がない。
もぞもぞと動いて腕の中の位置を微調整し、目の前にある喉仏から顎の線を辿って大好きな眼差しを追う。予想通り、柔らかな春の芽吹きを思わせる瞳がまっすぐに自分を見つめていた。
やっぱり沖田は自分に甘い、と、照れて視線を逸らす。どうしてこんなに優しくされるのかが分からないなどと言えば、分からせてやるとばかりにとてつもない事が起こりそうなので、そこはぐっと堪える。
「何か馬鹿なこと考えたでしょ」
だけどそれはやっぱり筒抜けだったようで。
「そっ、そんなことないです何も考えてないし何も疑問に思ってません!」
ふうん、と、決して同意ではない返答の響きに遠い昔のやりとりを思い出す。この人がこんな声を出す時は決まって、自分をやりこめる時なのだ。
「まあね。僕も君に、愛情を疑われても仕方が無いなあって事をしてきた自覚はあるけどさ」
さすがに夫婦になっても疑われるのは寂しいよね、などというものだから、千鶴は慌てて顔を上げて否定の言葉を紡ごうとし。
「う、疑うとかそんなんじゃ……っ! ただ、そう思っていただける訳がわからな――」
猫の目がくるりと光るのを見て、言葉を止めた。
が、すでに遅い。
千鶴の身体が目に見えてがちりと固まり、沖田がにこにことそれを見下ろす。猫に抱きかかえられた鼠は到底逃げること適わず、ただただその沙汰を待つばかりだ。
「怯えないでよ」
「……怯えさせないで下さい」
「そうきたか」
至極真面目な千鶴の訴えがおかしくて沖田が噴出す。自分はこの子の、こういう時折おかしな迄のまっすぐさが好きになったのだなあと何故か懐かしさを覚えながら、額にちゅう、と音を立てて口付けた。
「怖い?」
「……だい、じょうぶです」
「そう」
なら、これは? と、次は眦に口付けを落とす。それも大丈夫だとの答えが返れば、次は頬骨に落とし、丸みに落とし。唇の端に落として、一旦顔をあげて柔らかな眼差しを千鶴に向ける。
すると千鶴が子供の様に無邪気に笑うから、なんだか面映くなってしまって目が泳ぐ。本当に、自分らしくない。
「発作が起きたばかりだからね。これ以上は我慢しておくよ」
照れたのを知られたくなくてそう言っても、千鶴はどこか嬉しそうに頬を緩ませたまま肩口に甘えてすりよってきた。一瞬、自分の理性を試しているのかと思ったが、千鶴はそんな器用な娘ではない――から、性質が悪い。
「あ、でも僕の時は我慢しなくていいからね」
発作直後でも、それくらいの体力はあるし。
悔し紛れに言った言葉は思いのほか効果があったらしく、びくんと身を震わせた妻から痛くない一撃が胸に与えられた。
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Comment:
何を書こうとしていたのかわからぬまま、気がつけば二ヶ月ほど
放置しておりました。
途中からヤケになって、「たまにはべたあまでもいいじょない!」と
割り切ったらすんなり書けた。とか言う。
沖田呼びが総司呼びか迷いましたが、発作が起こりやすい時期=最初の方と
いうことで沖田呼びにしました。
20090618up
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