付き合う前は、好き、という気持ちにいっぱいいっぱいで、想いが通じたらなんてこと考える余裕もなかった。
実際、傍にいられるだけで嬉しくて、そりゃあからかわれるのは苦手だけど、それでもほうって置かれるよりは全然幸せで、だから笑ったりして、変な子だねって言われたり。
『好きだよ』
だからそんなたった四文字の言葉で、世界がこんなにも変わるなんて思ってもいなかった。だけど自分は何も変わらないただの雪村千鶴で、だから、付き合うって何だろうって思ってしまったりも、して。
「お待たせしました!」
1つ上の学年である沖田総司が部活を引退したのはもう先月の事だ。残される形となった千鶴は今までどおり、以前よりも少しだけ広く感じる体育館での部活をこなして日々を終わらせる。
すでに剣道での特待枠を確保している沖田は、受験生と言えど気楽なものだ。が、かといって積極的に部活に参加する訳でもなく、適当に時間をつぶしては剣道部のマネージャー兼彼女でもある雪村千鶴の帰りを待っているという日々。
慌てなくていいよ、ともう何回も言っているのに、千鶴はいつだって大きなスポーツバッグを肩に担ぐようにして待ち合わせ場所である校門に向かって走ってくる。いっそのことわざと時間に遅れたほうがいいのかな、とも沖田は思うが、それはそれで別の心配が増えるので却下した。
「お疲れ様」
「お、お待たせして、すみません」
「だからさ、急がなくても走らなくてもいいって僕、何回言ったっけ?」
息を切らし、頬を赤くして謝る千鶴にため息を零しつつ、沖田は千鶴の肩から大きなバッグをひょいと奪う。代わりにと、最早何が入っているのかわからないほど軽い自分のそれを千鶴に渡し、すたすたと歩き出した。
「沖田先輩、自分でもてます」
「だーめ。見てるほうが嫌なんだよね、だからこれは僕自身の為だから君は気にすることないの」
って、これも何回言ったっけ? との言葉に、千鶴が「うう」と唸る。与えられる優しさに、嬉しいと感じる前に申し訳ないと思ってしまって、ありがとうございますより先にごめんなさいが出てしまう。すると沖田が眼差しを半眼にして千鶴にものを言い、千鶴が慌てて「ありがとうございます」と言う。これも、いつものこと。
「意味なく女の子の鞄を持つなんて馬鹿みたいなことする男に成り下がるつもりなんてないけど、重たい荷物を持ってる子を前に、知らん振り出来るような男になるつもりもないんだよね」
千鶴にとっては重たい荷物を、けれどとてもそうとは思えない所作で肩にかける沖田を見ながら、でも前は違いましたよね、と、喉元まででかかった言葉を寸でで飲み込む。
が、そんな千鶴の微妙な反応に気がついた沖田は、空いているほうの手で千鶴のそれを取った。大きな手。自分のものとは全然違う、骨の硬いそれに、手だけじゃない他のものまでぎゅっと握られた気がして、息が苦しい。
「言わせたいの?」
「いっ、いえっ、いいです!」
に、と口角を持ち上げて言われた言葉に、千鶴が慌てて首をぶんぶんと横に振る。すると沖田はつまらなそうに「ふーん」と零したが、真っ赤になった千鶴を見て満足げに目を三日月にした。
「次の土日は部活?」
「いえ、来週から中間が始まるのでお休みです」
「そっか、じゃあヒマなんだ」
「……どうしてそうなるんですか?」
テストの為の休みと自分は言わなかっただろうか。相変わらずのマイペースっぷりに千鶴が脱力すると、沖田が夕暮れの空気を震わせて笑う。だって千鶴ちゃんなら普段通りで大丈夫でしょう、と、言った言葉は自分を励ます為なのか、それとも己の正当性を主張したい為なのかいまいちわからない。
「両方とは言わないからさ、どっちか遊ぼうよ。何ならテスト勉強でもいいし」
繋いだ手の力が、ほんの少し強くなった気がして千鶴の心臓がぱく、と跳ねる。
「部活引退してから一緒にいられる時間も減っちゃったし。まあ、代わりに彼氏っていう座は手に入れられたわけだけど」
「〜〜〜〜っ」
耳慣れない単語に、心臓が今度はばくばくと暴れだす。正確には耳慣れていない訳じゃない。ただ、自分に関するものとしては縁遠いと思っていただけだ。しかも、まさか相手が沖田で、それこそ告白した、されたというより、お互い好き同士だとわかってようやく付き合い始めた身としてはその事実だけで精一杯で、改めてそれを形容する言葉を言われるととにかくもう身の置き場がなくなるような気がしてならない。
「千鶴ちゃん?」
「ぅ、は、い」
「……まさか付き合ってるつもりないとか言わないよね」
「いっ、言わないです!」
「そっか。なら良かった」
この期に及んでそんな事言われたら、幾ら君でもお仕置きが必要だよねなどと言われ、別の意味で心臓が痛くなる。一体そのお仕置きとはどんなものなのか、到底千鶴には想像も出来ない。
繋いでいないほうの手で、そっと頬に触れる。自分の指が、ひんやりとして気持ち良い事実に、千鶴はほう、と息をついた。
校内でも、特定の誰かと付き合っている人はそれなりにいる。同じ学校で付き合ってる子もいれば、他校の生徒と付き合っている子だっている。こんな風に手を繋いで帰る人たちもいれば、そうじゃない人たちもいて。
だけど皆、自分よりよっぽど「恋人同士」らしく見えて、それに比べて自分はどうしてこう、落ち着きがないのかと少しばかり悲しくなる。相手が沖田先輩じゃ仕方ないよ、と言ってくれる友達もいるけれど、じゃあ例えば沖田が今よりも平均的な顔立ちをしていて、剣道だって特段上手じゃなくて、背だって自分よりも低かったりしたら自分は余裕で隣を歩けるだろうか、と考えて、それもやっぱり違うと千鶴は思う。
ただ自分は沖田が好きで、好きで。
恋人同士になる前から、隣を歩くのは緊張した。だけど、こんなのじゃなかった気がする。
この気持ちはなんだろう。目の前の、夜に繋がる最後の赤みを空に放つ夕暮れのような、さわさわと胸の奥をつつく感情の正体は。
「あのさ、千鶴ちゃん……そんなに緊張しないでくれるかな」
「へっ!? いえ、き、緊張なんて別に――」
「してない?」
夕方のせいでいつもより赤みの増した髪に縁取られた顔が向けられ、沖田の肌の白さが際立って見える。長めの前髪から覗いた眼差しは、辺りの暗さを受けて鏡面のように自分を映していて。
嘘なんてついても無駄だよ、と、言外に言われているようで唇をつぐむ。でも、だって、緊張なんてしないほうが無理だ。
ずっと好きで、気付いたら好きで、だけどその先なんて考えてなかった。
ただ傍にいられたら良くて、笑ってくれたら嬉しくて――その視線を、独り占めできるなんて思ってもいなかったんだもの。
好きだ、なんて。思ってもらえるなんて。
つながれていた手が離れる。あ、と思った次の瞬間には、突然乱暴な仕草で髪が撫でられた。
「あんまり可愛い顔しないでよ。悪戯したくなる」
「し、してるじゃないですかっ! ちょ、先輩やめてくださいっ」
「名前で呼んでくれたらね」
いつまで経っても「沖田先輩」だし、と、拗ねた響きを発した唇が空を向く。沖田の性格そのものの会話の流れについていけず、千鶴が一通りの会話を脳内で反芻した後に耳を熱くする。名前、名前。沖田先輩の名前は沖田総司。それは知っている。当たり前だ、少し前まで彼は剣道部員で、自分はそのマネージャーだったのだから。
部員のフルネームなんて数え切れないほど目にする機会があり、かつ部員同士下の名前で呼び合うことだってある。沖田と同年の斎藤だけでなく、自分のクラスメイトである平助ですら、歳の上下を飛び越えて「総司!」と呼んでいる。だから、わかる。わかるけど。
「そんなに途方にくれるようなことかなあ」
「……そんな顔、してますか?」
「してるしてる。写メって皆に送りたいくらいには」
「しっ、しないでください」
「うんしないよ。勿体ないし」
ころ、と流れた会話に別の意味で絶句し、できることは唸ることばかり。
付き合うようになったって、こんな関係は以前のままだ。なにかと沖田が千鶴をからかい、そして千鶴が勝てることはない。大抵は周囲の人間が見かねて仲裁に入ったり、気まぐれに沖田が負けたフリをしたり、と言ったところだ。好きで、つきあって、と言った形になっても、決して対等になんてなれない。自分はずっとこうやって、沖田の一挙手一投足に振り回されるのだ。
千鶴の赤く染まった頬や耳を見て、沖田が苦笑する。自分が乱した髪を手櫛で直してやりながら、早くもっと自分のものにしたくて、けれど怯えさせたくもないから困る。好き勝手してきた自覚もある自分を、これだけ辛抱強くしているのが誰なのか、一体いつになったら彼女は自覚するんだろうか。
クラスメイトの友人、部活の先輩、あらゆる立場と肩書きを利用して、千鶴の中における自分のテリトリーを広げるのにどれほど苦労したかなど千鶴は一生気付くまい。漂々とした態度は生まれもってのもので、この時ほど己の性格に感謝したこともないと言う事実にも。
必要以上に警戒されず、こういうひとだから、という免罪符を以って踏み込む事を許してもらえる。
その免罪符を使うのも使わないのも自分の自由で、だから猫のようだと言われたこともある。相手から望まない手を差し出されても、その手を取る気などさらさらない。申し訳ないとも思わない。そんな自分が唯一、免罪符をフル活用して近付き、かつ伸びた手は全力で掴んで本体ごと引き寄せた。
少しずつ少しずつ近付いて、離れて、踏み込んで。
部活の先輩、という肩書きが無くなる代わりに、新しい肩書きを頂戴とおねだりをした。あの時のきょとんとした顔はきっとずっと忘れられないだろう。まん丸の目がぽとりとおっこちそうなほどだったのだから。
「だ、だって先輩はずっと先輩だったから……」
「でも今は違うでしょ」
「……そうじ、さん」
で、いいですか? と、まるで名前を呼ぶというより一文を読み上げたうちの一単語という感じの音は、けれどそれなりの威力で沖田の胸中を荒らす。
良く出来ました、なんて、余裕ぶれる己が凄い。ちり、と痛む頬の上は、なんでだかなんて認めたくもない。
どれほど自分は、この子がすきなんだろう。
「付き合うって、大変ですね」
心臓が持たないです、と、自分で精一杯の千鶴が相手でよかったと心底思う。お願いだから気付かないで。こんなにも余裕がなくて、みっともない僕のことなんて。
「でも、どきどきするのは付き合ってなくても好きだったら同じですし……そう考えると、付き合うって、どういうことなんでしょうね」
「君はホントに時々変な事を考える子だよね」
「うう」
だから僕は他に目を向けているヒマなんかなくて、いつだって君のことばかり気になってしまう。
最初はただおもしろくてちょっかい出してただけなのに、気がつけば何もしなくたって君は僕の事をはらはらさせて、だから目を離すなんてとんでもない。
他の誰かの前でそんな顔するのだって絶対に駄目。だから僕は、ただの先輩であることを放棄したんだから。
「相手以外は見向きもしませんってことじゃない?」
願望を乗せて沖田なりの答えを口にする。千鶴は顔をあげて、沖田の声を聞いた。
「友達でも、ただの先輩後輩でもなくて『特別』になったんだから」
だから、千鶴ちゃんは僕以外の男の事見ちゃ駄目だよ。
半分本気で、半分おどけた響きでそう言うと、千鶴が何故か驚いたように睫を瞬かせる。すっかり暮れた初夏の空は、同じ音で星がきらきらと光っていた。
「そんなの、前からです」
光が流れる。
暮れた空に白い星。僕の胸には君の言葉が。
「だって、好きだって思ったらもう、その人のことしか考えられないじゃないですか。付き合ってたって、付き合う前だって、そんなの同じです」
だから余計にわからないんです、と、続いた言葉は沖田の耳には届かない。ああ、もう、本当に。
自分の気持ちに必死な少女は、何故「つきあう」以上相手も同じ気持ちだと気付かないんだろうか。
そうして、そう言われたらどうなるか、とか。
(わからないから、言えるんだろうなあ)
すっかり暮れた宵闇の中、千鶴の白い肌が浮き上がる。彼女のペースにあわせながらゆっくりと帰る時間は、自分たちの鼓動とは相反して穏やかに過ぎていく。自分の中にこんな感情があるなんて気付かなかった。多分、知ってはいて、だけど面倒だなと思っていて、且つ縁遠いと思っていたその感情は、今ではこの身体の大部分を占めている。
以前の自分が今の自分を見れば、馬鹿だなと笑うだろう。だけどそんな彼に自分は別の笑みを返せる自信がある。
幸せだよ、と。
「僕は君が好きだよ」
千鶴の三歩が沖田の二歩。歩く速度は、それでも同じ。
「私だっておき……総司さんが好きです」
身長も手の平の大きさも違う。沖田が少し屈んで、千鶴が少し、背伸びをして。
視線があって、片方が笑う。
「付き合うって、こういうことじゃない?」
想いを伝え合って、受け止めてもらえる。決して一方通行ではなく返されるもの。
千鶴の頬が緩むのは、沖田の笑みと言葉を受けて。ほら、これだって同じこと。
まあ他にもあるけどね、と、浮かんだ数々の言葉を今はしまう。折角少しだけ解けた千鶴の緊張を、無駄にぎゅうぎゅうと締めるつもりなんてないのだから。
千鶴の嬉しそうな顔を見ながら、又沖田も笑う。互いに与え合う連鎖なら、悲しい顔より笑顔がいい。
繋いだ手は夏に向かう暑さにまけて、じんわりと内側に汗をかく。
それでも、このままでいいとおもった。
このままが、いいと思った。
Fin
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Comment:
リクエストは「SSLで付き合い始めのおちきづ」でした。
同じ日に生まれた大好きなステさんへ。
たくさんの幸せが降り注ぎますように。
20100803up
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