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●これからの君に永遠を祈る |
「あのさ、もういいよ」
もうどれくらい同じ毎日の繰り返しになったのか。
数を数えるのも無駄なくらい繰り返された結果の今日、やっとの思いで言葉にした『言葉』を聞いて千鶴の手が止まった。
「何がですか? あ、お薬ですか? 駄目ですよ、苦いからって飲むのやめたら」
「そうじゃなくて。もう自由になっていいよって言ってるの」
最初の言葉だけで伝わってくれれば楽だった僕の呼吸は、二言目を続けたせいでもう切れている。苦しくて息を吸いたいのに、肺内にある湿った空気を追い出したいと身体が言うことをきかずに喉でせめぎあうから咳き込みそうになる。
千鶴はいつもどおり枕元に持ってきた薬と湯飲みをのせた盆を静かにおいて、何かを言おうとした口を一旦閉じた。慣れたように、いや、実際慣れているんだろう。僕が咳き込まずとも苦しい状態にあることに気付き、落ち着くまでそうやって待っていてくれた。
元気な時は、草履を履いて立つ地面が僕の在る場所で。
時たま、座布団に座る程度だった『休憩』は、その場を布団に譲り休憩どころか『日常』へと形を変えた。
これでももった方なのかもしれない。とっくに果てていたはずの命を繋いでいた変若水は最早その効力を失い、清浄な陸奥の空気も水も、この身に巣食う病魔を抑えきれなくなった。
残るのはただ、すかすかに薄められた寿命。
どれくらい経ったのか、ようやく落ち着いた身体を確かめるように深呼吸をし、傍らに座したままの千鶴への視線を向ける。笑みの形に頬をかたどったと言うのに、向けた相手は固い表情のままだった。
「聞こえなかった?」
「聞こえました」
「じゃあ」
「でも、ききません」
お薬飲んでください、と、千鶴の細い手が僕を身体を起こそうと背中に差し入れられる。普段なら自分も手伝って半身を起こす行為を今日は何もせずにいれば、やはり彼女だけの力だけでは無理らしく、困り声で非難を受けた。
起きてください、の声にも、どうして今日はそんな我侭なんですか、の声にも僕は笑顔だけを返す。
すると千鶴はとうとう瞳に怒ったような色をのせて僕を睨んだ。と、思ったらそれが揺れる。
「すぐに泣くんだから、千鶴は」
「だれの、せいですか」
「え、僕なの? やだなあ、僕はこんなにも君の事思ってるのに」
自由にすら、してあげようとしているのに。
言葉にしなかったところまで正確に読み取った千鶴は、感情の高ぶりのせいで頬を赤くしてより強く僕を睨む。睨んで――間違えたというように、こぼれかけた涙さえ抑えて、静かな静かな眼差しで僕を見た。
(僕は君のそういうところが嫌いなんだ)
迷惑しかかけられない僕と違って、千鶴は僕の面倒を見て、恨み言一つ零さずに笑顔だけを向けてくれて。
そんな君に、もう何も出来なくなった僕がしてあげられる唯一のことすら受け入れてくれず、挙句それが君の愛を裏切るものだというのに、怒りを向けることすら良しとしない。
こんなふうに。僕ばかり。いつも。
(だから僕は君が愛しくてしかたないんだ)
「ねえ、わかってよ」
懇願のような言葉にすら、千鶴は首を縦には振らない。
何かを堪えるように、膝の上で硬く手を握り締めるだけ。
「元気になります」
「ならないよ」
「ならなくても、ずっとお傍にいます」
「死に別れるくらいなら、生きてる僕を覚えてて欲しいんだけどさ」
あ、泣くかな。
だけど千鶴は泣かなかった。ひくりと喉を一度だけ鳴らして、ぐっと唇を噛んで、見るだけ見たら泣きそうなのなんて丸分かりなのに、全然そんな言葉なんてききません、って顔を作る。もしかして、ちょっと僕に似てきたんじゃないの?
「生きている総司さんも、生きていた総司さんも、全部覚えています」
死、という言葉を拒絶するような言い方に彼女の僕に対する愛情を図らずも突きつけられる形になり、僕は困って笑うしかない。そんな君だから、幸せになって欲しいのに。
(もう僕がしてあげられることなんて、何もない)
だから。死に逝くためだけに時間を消費している僕の傍になんかいないで、次の幸せを見つけて欲しいと。
思うたびに、願うたびに死病とは違う胸の痛みが僕を襲うけれど、この痛みには負けるつもりなどなかった。最後まで傍に居て欲しいという願いは、焼け付くほどに全身を駆け巡って千鶴を求めるけれど、きっと僕は穏やかになんて最後を迎えられないだろう。
だって僕はこんなにも千鶴が好きで、好きで、片時だって離れていたくなくて、間際の時に残す言葉はきっと「寂しい」だとか「離れたくない」だとかになるに決まってる。
男らしく格好よく「幸せになって」って言いたいけれど、せいぜい言えて「ありがとう」くらいだろう。だったら、いえるうちに僕は君の幸せを願いたい。
僕がいなくなってからの幸せを。
(なのにどうして君は)
「総司さんと私は夫婦ですよね? 夫婦ってなんですか」
言外に、苦楽を共にするものでしょう、と。その苦楽の最たるものが死と生だと眼差しだけで訴え――硬く握り締めていた手を布団の中にあった僕の手をつつむために広げたりなんかしたから、僕は目をつぶる。
こんなふうに手を伸ばしてもらわないともう、君の手を握ることすらできない。
「もう僕は、君を抱きしめることも出来ないんだよ」
すると千鶴は笑う。布団の中で僕の手を握り締めてくれながら。
「大丈夫です。私が総司さんを抱きしめますから」
そんなことどうってことないじゃないですか、って、本当に大したことないように笑うから僕までそんな気がしてきちゃうじゃない。君は不思議な子だよね。
「そんなことで不安になっちゃったんですか?」
「そんなこと、じゃないよ」
君の本心には気付かない振りして、表面上の笑顔に甘えて拗ねる。こうやって僕はどんどん弱くなっていく。君ばかり強くして、だからもう、自由にしてあげたいのに。
離したくなんかない。離れたくなんかない。
「そのうち、愛してるって言葉すら言えなくなるかもしれない」
それでもいいの、と問えば、やっぱり千鶴は笑って答える。
「いいですよ。私がその分、沢山愛してますって言いますから」
もし総司さんも同じように思ってくださるなら、少しだけ笑って下さると嬉しいですと提案をもちかけてくる。だから僕は、泣きそうな顔で笑った。
愛してる。愛している。
「……君は馬鹿な子だね」
悔し紛れに呟いた言葉に、千鶴はなぜか今度こそ泣きそうな顔でそれでも笑って。
「それって、愛の言葉ですよね?」
なんて言うから、握り締められた手を精一杯の力で握り締め返した。
Fin
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Comment:
それでも沖田さんはちゃんと、「ありがとう」と「幸せになって」を言えるひとだと思います。
初出:20090405
再掲:20090416 up
*Back*
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