気がつけば、左の腕が利き腕だった。
不調法者と忌み嫌われるからと、両親は一のそれを直そうとはしたらしいがどうにも直らない。やがてそれは、生まれ持ってのもの以上に、一自身の拘りとして右に移ることを諦めた。
左が日陰だというならば、何故日向のものがそれを打ち負かせない。
打ち負かすほど強くないものに、何故生まれ持った己を曲げてまで従わなければならないのか。
弱いものに従う義理はない――それが、理由の全て。
しかし如何に一自身に筋があったとしても、それが世間の筋でないなら受ける評価は散々なものだ。道場に入っては当然矯正させられようとし、断れば破門される。後に新選組三番組組長、副長助勤という肩書きが付き、更に剣術師範ともなった男ながら、特定の流派における切紙すら付いていないのはそういった理由もあるのだろう。副長である土方歳三が天然理心流における指南免許が取れなかったのもそこに尽きる。彼の腕は確かに天賦の才に恵まれたものであったが、「天然理心流」という流派としてみればそぐわぬものであったからだ。
だがそのような括りなど、一にとってみれば「どうでもいい」事だ。それは事実なのだが、腕を磨ける場所がないのは単純に辛い。
それ故、時に右腕での鍛錬を己に課したこともあった。そして利き腕ではない右の腕ですら道場の師範や目録、時に免許皆伝の者までもを破った途端又言われるのだ――剣術の何たるかも知れぬ紛い者が卑怯な技を使ったのだ、と。剣の腕が立てば良いと言うものではない、剣の道が何たるかを心の底から理解するまで切紙すらやれぬ、と。
そのたびに一は落胆した。己にではない、くだらない故習と見栄に囚われた、形ばかりの「武士」にだ。
武士とは何か。強さが全てではないのか。形や理念がどうであろうと、弱ければ死ぬ。死ねば終わりだ。至って単純なはずのそれを、言葉飾りで誤魔化して武士であろうとする者共に心底軽蔑を禁じえない。それが余計に、一の腕を矯正から遠ざけた。
天然理心流という、多摩の田舎道場に身を寄せることになった時も、どうせここも同じだろうと思った。聞いたことのない流派に、通っているものは農民あがりの者ばかり。しかも、時間があれば護身程度に習うといった体のものが多く、とても「流派」と呼ぶにふさわしいとも思えなかった。
だがその一方で、「天然理心流という田舎剣術は、美しさこそかけているものの実戦における強さは何物にも勝る」との噂もあり、それが一の興味をそそったのだ。形ではなく実のあるもの。それはそのまま、自分が求めるものでもあったからだ。
門戸を叩いたとき、現れたのは自分と年近い男だった。漂々としてつかみどころがなく、だが隙がない。人好きのする笑みを消すことなくどうぞどうぞと案内しながら、全身で自分を伺っている様が良くわかる。その男と会った瞬間、一はこの道場に対する認識を改めなければならないと感じた。「今までのところとは違う」。ただその一点に於いて。
「あんたどこの出身だ」
通された別間で開口一番に聞かれたのはそれだった。出生地か流派か迷ったが、一は意図的に「播州明石の出だ」と前者の意味で答えた。
それを腕で試せ、という意味で男はとったらしい。口の端を持ち上げてにやりと笑い、場所を変えようと言ってきた。道場に向かう廊下を歩く男の足裁きは見事なもので、腰は据わっておりぶれがない。それだけでどれほどの腕の持ち主かを伺い知れた。
道場は、かろうじて「道場」といえる体を保っている程度のものだ。壁はところどころに崩れ、天井には染みが広がっている。だが、床だけはきれいに磨き上げられており、それが返って一の心に清々しいものをもたらした。
「見てのとおり、うちは貧乏道場だ。が、腕のほうまでそうかどうかは、あんたが試すといい」
別間で対面した、とてもこのような田舎にそぐわぬ涼しげな美貌を持った男が楽しくて仕方ない、と言った顔で告げてくるのを無言で避わした。相手は相手なりに自分の何かを察したようだが、それこそ腕を見て判断すればいいだけのこと。
(だが)
腕を見せるまでに至るかどうか。
渡された竹刀を受け取り、暫しの間思案する。その間にやや年のいった男が面と小手を勧めてきたが、ゆるく首を振って断った。
それを必要とするほど、仕合が出来るとは限らない。
「結構」
言い、竹刀を左に構えた。その姿を見、男らの顔がふ、と変わった。
「なんだ。あんた左利きか」
「如何にも。この道場でもやはり左利きは無作法か」
問えば、弾けるようにその男は笑いだした。無作法か、こりゃあいいと、問うた事自体がおかしいとでも言うような態度だ。
「礼儀云々言うなら、農民風情が勝手に名字を名乗って大小振り回してるほうが無礼だろうよ。ご期待に添えなくて悪いがな、うちは礼儀のなってない連中の集まりだ」
「こらトシ。斎藤君が困っているだろう。いや、すまぬ。兎に角うちの流派ではそうそう細かいことは言わぬ。無論義や礼が無いとは言わんが、利き腕の左右で卑しめるような心の狭い流派ではない」
「強ければいいんですよね」
「総司も。いちいち口を挟んで誤解を招くようなことを言うな」
「いや。ありがたい」
放って置けばいつまでも繰り広げられそうな会話を断ち切ろうとしたわけではなく、心底そう思って一は相槌を打った。
「ありがたいって事は、それなりに腕に自信があるって解釈でいいんだよな」
「それを試されるのでしょう。ならば、今ここで言う必要があるとは思えない」
「ハッ! 言いやがる」
おい総司、おまえが相手してやれ、と男は言った。総司、といわれた男は、門を叩いた一を中まで案内してくれた男だ。あの時と同じで、このような事態でも笑みを浮かべたままだ。ただ少しだけその笑みに苦いものをにじませて、「土方さんはすぐ面倒事を押し付けるんだから」とだけ言うと一の前に立つ。同じように、面や小手などの胴着を着けぬままにだ。
「もともとうちは実戦中心の流派だから、胴着なんかはつけないことのほうが多いんです。だから、助かっちゃうな」
あれ、動きづらくて嫌いなんですよね、と男は笑う。少年の域を出ないあどけない顔にだまされそうになるが、瞳が無垢であればあるほど純粋な強さをうかがわせ、対する一は一片の笑みも浮かべることはなかった。
「本当は竹刀じゃないほうが好きなんだけど」
「こら総司。調子乗ってんじゃねえぞ」
「わかってますって。やだなあ、冗談ですよ」
「冗談言ってる場合じゃねえだろ。おまえも最初から左でやれ」
土方、と呼ばれた男の発した内容に一の眉が動いた。一の見せた、初めてと言ってもいい変化らしい変化に、総司が笑う。
「僕もね、左利きなんだ。あなたの言うように普段は色々やかましい人が多いから一応刀も左差だけどね。まあそんなことで鈍るものでもないし」
「だが、無駄な妥協だ」
「あはは。言うじゃない」
ただのだんまりじゃなさそうだ、と、総司の眼差しが一瞬にまとう光を変化させる。余裕のある笑みはそのままに、深淵に覗かせる光が捕食者のそれに変わった。
「審判役は俺が務める。一本と三本、どちらがいい」
「一本で十分」
「相違ない」
すでに向かい合った二人は仕合を始めている。おうおう、血気盛んな若者ってのはこうなのかと土方は心の中でだけ笑い、表面上は実に神妙な顔で合図を切った。
「始め!」
朗、とした声が道場に響いた。共に正眼、総司はやや左よりに構えを取る癖があり、それはこの仕合でも同じだった。
互いに相手の隙を伺い、且つ出方を待っている。下手にちょっかいを出そうものなら足元をすくわれるのは火を見るより明らかだ。その程度のことなど、互いに踏みしめている床板から嫌というほど伝わってくる。とてもただの仕合とは思えぬほどの殺気が、うねりのように相手の足首にまとわり付いてその自由を奪おうとする。並みの男なら気付かぬままに気力を奪われ、気がつけば仕合は終わっているだろう。だが生憎と、総司も一もただの男ではなかった。
剣の仕合とは、鍔迫り合いだけではなく相手の気迫、わずかな所作一つも含めて勝敗が決する。だからこそうかつには仕掛けられない。
仕合を見守っていた観客からは、つまらぬ、動かぬではないかと零すものも居たが、近藤、土方、井上と言った古くからの門下生のほか最近食客として道場に身を置くようになった数名のみはただ黙って二人の様子を見ている。おそらく、「静か」に見ていられるのは今のうちだ。もうすぐ、今の数瞬を懐かしむ頃がやってくる。そして「静か」になるのは――させられるのは、間違いなくこちらのほうなのだ。
そしてそれは、すぐに訪れた。
ほぼ同時に、右足を踏みしめて相手へと斬り出した。踏切が早かったのか、受けるほうがあえてその立場を選んだのか、一の一閃が上段から総司に打ち下ろされる。しかしその剣は総司の面を割ることなく横薙ぎに払われた。
払われた先から、今度は総司が攻撃に転じてくる。最早これは剣術の仕合ではない。死合だ、と、見ている人間のほとんどが思った。それほどまでに、二人の攻撃は凄まじいものがあった。慣れぬものが見れば、音がした、と思えばどちらかの傷が増えている、と言った程度にしか把握できない。
総司の教えは厳しいことで有名だった。兎を狩るにも全力を尽くすという獅子の如く、如何に実力の定まらぬものであっても総司は教えの手を緩めることは無い。その為多くの門下生は徐々に道場から足を遠ざけてしまい、結果今の貧乏道場に加速をつけているといっても過言ではない。
だが今の総司を見れば、それでも手を抜いてもらえていたのだとわかる。否、わからされる。だがそれも当然だ。このような男に全力で指導されようものなら、命がいくつあっても足りはしない。
総司が一の右小手をとる。が、わずかに浅く、土方は一本を取らなかった。痺れる様な痛みが一を襲ったが、それよりも向き合う男の強さへの興奮が勝る。借りは返すといわんばかりに踏み込んだ先で同じく総司の小手を鳴らしたが、土方はこれも取らない。
二人が、仕合のために相手を打っていたのはこのあたりまでだった。じきに打ち合いは激しさを増し、禁じ手と言われる急所――眉間や喉にまで容赦なく切っ先を突きつけあっていた。
真剣や木刀ではないといえ、下手をすれば死に至る場所を互いに迷い無く攻めあい、時たま口の端に笑みすら浮かべている鬼神の如き二人を、最早周りの者は色もなく見つめていた。自分が何か余計な茶々を入れたせいで均衡が崩れ、どちらかが死のうものならたまらないといった態で呼吸すら止めている者もいる。
審判役を務めている土方のこめかみに汗が伝う。出来る男だ、とは思っていた。が、総司には適うまいという読みもあったのだ。だが目の前の風景はどうだ。稀代の才能といわれた総司と同じ年の頃の男が、対等に総司とやりあっている。
この男、人を斬ったな、と土方は思った。如何に天才的な剣の才を持とうと、人を斬った前と後では格段にその重みは違う。おそらく人を斬った後の総司ならばまた話も違うだろうが、今この場でそれを言ったところでどうにもならない。腕の均衡した者同士、勝敗を分けるのは――人を斬ったことがあるかが大きい。
だがその差を埋めるのも、天才と言わしめた総司が総司であるが故だった。払われた胴に、みしりと歪む音が響いたのを察しつつも、一の剣の重みが自分に残っているうち――つまり隙が残っているうちに攻撃に転じて左袈裟に竹刀を振り下ろし、強かに一の肩を打つ。ぐ、と短い息が一の唇から漏れ、頬が苦痛にゆがむ。が、総司がやってやったと思うよりも早く意思を取り戻した一の竹刀が自分のみぞおちを付いた。
「かっ……!」
胃液と共に鮮血が舞う。後ろ足で床を踏みしめ、かろうじて崩折れることを回避した。互いに距離を置き、肩で息をしながら、打たれたところ押さえながらも切っ先だけは地に屈することを良しとせず相手を捕らえたままだ。
「トシさん、そろそろ止めたほうが」
「わかっている。おい、仕合は引き分けだ、双方竹刀を収めろ!」
土方がまるで大名の下知のように命じた内容は、双方に無視される形となった。冗談ではない、と言った眼差しを二人共が浮かべ、そして自分だけではなく相手もそう思っていると認め合い――にやりと笑う。
「ここまでやらせておいて引き分けなんて、いくら土方さんでも無粋すぎやしませんか」
「勝負に引き分けなど、ない。勝つか負けるかだ」
「ははっ! やっぱりおもしろいや君」
益々叩き潰したくなったなあ。
まるで愛しい娘に愛の言葉をささやくような総司の声に、見ていたものの一人が腰を抜かした。先ほど土方に声をかけた男――井上がそれを見ると、慌てて駆け寄って風の通る庭へと男をひっぱりだした。
この道場に通うものは、何も手練手管の猛者共ばかりではない。ほとんどが、この男のように普段は田畑を耕している普通の男だ。
総司は隙無く口元の血をぬぐいつつ、爛々と目を輝かせていた。自らの身体の痛みなどまったく感じておらず、ただただ目の前の男を倒したいという純粋な思いが全身を支配していた。対する一も、これほどまでに強い男とやりあったことが無く、そしてそのような男に自分の腕が負けていないという事実がただただ嬉しい。
純粋な強さこそが、武士の証。ならば、目の前の男を倒して見せれば、自分が目指すものに更に近づけるのではないか。
強く眼差しを交し合い、竹刀を握り締めなおす。次の一瞬で、おそらく勝負は決まるだろう。立っているものが、勝者だ。
「行く」
一は短く、それだけを告げた。総司は答えず、ただ唇を三日月に形作る。それはもう、嬉しそうに。
だが一の踏み込みよりも早く、部外者によってその均衡は破られた。
「だ――っから終わりだって言ってんだろうがこの餓鬼共っ!!」
土方が踵を強く打ち鳴らし、持っていた竹刀で両者の間を叩き付けた。ともすればそれがきっかけとなり最後の一太刀が交わされてもおかしくなかったのだが、土方の気迫がそれを許さなかった。
それまで黙って仕合を見ていた食客が、けたけた笑い出す。さすが土方さん、割り込みも半端ねえ、と。
「笑い事じゃねえ原田! いいからてめえも手伝え」
明らかに割り込みを不服に思っている二人は、ともすれば今にでも決着をつけようと牙をもたげ始めている。こうなれば力尽くで止めるしかなく、如何に手負いといえどこの二人を相手にそれを出来る人間は限られている。
「へーへー。お手伝いしますよ、っと。おら、もう終わりだってよ」
「何を……っ」
原田と呼ばれた長身の男がみしみしと床を鳴らしながら近づいて来、一に手のひらを差し出す。獲物をよこせ、の意味だ。
日に焼けた赤い髪が男を気迫のように彩り、図らずも一瞬の間が生まれる。その隙を原田は見逃さなかった。普段ならばそのようなことは決してさせないはずの一も、総司との仕合で疲労が溜まっていた。その、ほんの一瞬の隙を確実に掴み取ったこの男も相当な手練れだ。
何が田舎道場だ。戦った総司といいこの男といい、そして自分たちの仕合に割って入った土方といい、化け物と呼んで差し支えない男たちがごろごろ居るではないか。
原田に竹刀を取り上げられ、総司をみれば向こうもほぼ同時に土方に獲物を取り上げられていた。というよりは、弾き飛ばされていたと言うほうが正しいか。
「乱暴だな」
「てめえがいつまでも離さねえからだろうが。仕合は終わったつっただろう。審判にはおとなしく従いやがれ」
「終わってなんかない。決着がまだだ。ねえ斎藤君」
「ああ」
これだけやり合ってまだ足りねえのか、と辟易しつつ眉間の皺を深くした土方が大仰にため息をついた。そして斎藤に向き直ると不機嫌そのものの声で告げる。
「斎藤君だったな。君の実力はわかった。だが」
語尾についた逆説の単語に、斎藤が一気に落胆する。ああ、ここもそうか。
落胆を隠そうともせず、続きを聞くまでもないと斎藤の足が道場の外へと向かう。おい、と原田が声をかけてきたが振り向こうとも思わなかった。
「おいこら斎藤。戻る前に礼くらいしていけ」
最早敬称すらつけずに土方が短く一に言葉を叩きつける。土方が発した言葉に含まれる意味は二つだった。
思わずぴたり、と歩みを止め、肩越しに振り返る。見れば非常に苦々しい顔をした男が自分をにらみつけていた。
「いくら田舎道場つったってな、礼儀ってもんはあるんだ。仕合が終わったんなら礼で終わるっつうのが当たり前だろ」
確かにそれはそうだ、と素直にも納得しかけ、だがしかし例の如く自分を否定しようとする相手に払う礼はないと更に思い直し、微妙なずれに気付く。
自分を斎藤、と呼びすてた、本当の意味に。
そして「帰る」ではなく「戻る」と言ったその意味に。
「聞こえなかったのか。俺は戻れ、と言ったんだ」
迫力に押され、思わず元の位置に戻る。このあたりは如何に腕が立つとは言え十七、八の子供だ。
促されるがまま、総司と共に仕合後の礼を取る。取ったところで総司に打たれたところがいまさらに激しく痛んだ。特に強く打ち据えられた右肩を思わず抑えると、見たことかと言わんばかりの顔を土方に向けられた。
「揃いも揃って無茶しすぎなんだよてめえら。この道場で人死なんて出した日にゃ、周助さんに申し訳が立たねえだろうが」
人の良い道場主の顔を思い浮かべ、斎藤はともかく門下生であるにも関わらず配慮の足りない総司をぎり、と睨み付ける。さすがに総司もばつの悪い顔をし、しかしそれが悔しいのかふいと土方から視線をそらした。
「話は終いだ。源さん、悪いがこいつらの手当てをしてやっちゃくれねえか」
「はいよ。任されました。さあ、行こうか」
原田君も手伝ってくれるかね、と、井上の頼みに原田に否はなかった。沖田はともかく状況の飲み込めぬ斎藤に、まさか歩けねえとは言わねえよな、と原田が言い、斎藤は無言で首を縦に振る。
一の視線はまっすぐに土方に向かっていた。土方はそれに気付き、なんだと視線で返す。
「終わり、ですか?」
「あ? なんだおまえ、まだヤり足りねえってのか」
「ではなく。この仕合の決着が、です」
まっすぐに向けられた質問に、土方がその真意を探る。仕合は終わり、引き分けだと自分は告げた。そして互いに礼を交わして勝負は終わり、だが目の前の男はまだ何かを求めている。いや、あるのだと思っている。
決着と彼は言った。決着とはなにか。仕合が全てではないのか。
読みあぐねた土方の先で、一の左手が強く握られた。ああ、そういうことかと土方は嘆息すると共に、コイツもくだらねえ偏見で苦労したんだなと些かの同情が沸く。形は違えど、自分や近藤も身分の上で差別されてきた身だ。強さが全てといいつつそうで在れない矛盾による苦しみは、他のものよりはよほど理解出来る。
「俺は引き分けだと、言わなかったか?」
「……言いました」
「なら以上だ。不満か?」
一の目が驚きに見開かれる。平坦な感情のみを浮かべていた凪いだ湖面に、一筋の風が吹く。
今までも、一度は受け入れてくれた道場はあった。が、その後自分の腕を見るや否や、己の流派の威信をかけて一を否定するものが殆どで。
だがここはどうか。おそらくこの道場でも腕の立つ総司と対等に「戦えてしまった」浪士風情の自分に対し、それでも言ったことを曲げはしない。
「俺は農民あがりだが、言ったことを曲げやしねえよ。最初に言ったろう、利き腕の如何で強さを判断しやしねえって。男が一度口にしたことを撤回するなんざありえねえよ。俺が言いてえのは一つだけだ。がむしゃらに強さを求めるのもいいが、もっと周りを見ろ。そんだけの腕がありゃ納得も行くが、蔑む奴らとわざわざ同じ土俵に立ってやる義理はねえさ」
諦めと納得は違うんだよ、と、最後に付け足された言葉に知らぬ世界を突きつけられた気がした。それきり、追い払うように手の甲をひらひらさせて歩いていってしまった土方の背をしばし追い続け、やがて原田に背を押されて道場を後にした。
「あの人本当に説教癖あるよね。嫌になるなあ」
同じ道場に住まうもの、となれば客ではない。口調をすっかり改めた総司が一に同意を求めたが、返るものはなかった。
「何? 口も利けない程ひどく打っちゃったかな」
ごめんね、などと露ほどにも思っていないくせにしらっと言ってのける総司に「無用な気遣いだ」と返す。そしてあんたのほうこそ今日の夕餉が取れないのではないか、と言い返せばあからさまに鼻白んだ視線で「馬鹿なこと言わないでくれる?」と返された。
「二人とも。大怪我なんだからおとなしくしないか」
今にも第二戦を始めそうな二人に、治療をしていた井上が苦言を呈する。父、と呼んでも差し支えないほどの男は慣れた手付きで当て木をし、さらしを巻いていく。
「あとでちゃんと医者に見せるから、今はこれで我慢をしておくれ」
総司の腹や腕をそっと扱いながらも、視線は総司のみではなく一をも見ている。
「いや、医者など――っ!?」
不要、と続けようとした途端、自分の手当てをしていた原田が一の肩に触れていた手に力をこめてきた。痛みを通り越して熱の塊が肩から全身を走り、息を固めた一を意地悪げに原田が見下ろしてくる。
「強がってんじゃねえよ。こんな大怪我で大丈夫なワケねえだろうが」
「……っ、アンタが馬鹿力なだけだろう」
「それだけの強がりが言えりゃ十分だ!」
おまけとばかりに背中を叩かれ、こいつ本気で殺してやろうかと一は思ったが悪気がないのはその瞳を見ればわかる。色々な意味で性質が悪い、と今度は内心ではなく堂々とため息をつき、自分と同じくらいには白い布であちこちを彩った総司を見やった。
あんたは、と短く問うてきた一を、総司は視線だけで見る。
「あんたは何故、剣を取る」
ぱちりと音がしそうな瞬きを一つし、今度は視線だけではなく顔ごとを食客となった男へと向ける。
これだけの腕ならば剣を取って久しいだろうに、何故に初心者のような質問を自分へぶつけるのかその意図を量りかねる。何か深い意味があるのかとじ、と、空の青よりも水の蒼に近い色を混ぜたような色素の薄い瞳を見つめれば、そこにあるのはただ純粋な疑問だけだった。
ふん、と喉を鳴らして総司は暫し思案する。剣を取った理由はあるが、彼が言っているのはきっかけではなく何故「今」、剣を握っているのかということだろう。
「教えてあげてもいいけど、君が望む答えは多分、僕よりも土方さんに聞いたほうがいいんじゃない?」
「俺の望む理由?」
「僕のも至って簡単だけど、あの人のほうが単純だし」
まあ近藤さんの為っていう点では一緒だけどね、と、それを認めているくせに面白くないといった態で鼻白む。
試合の審判を務めた土方という男を思い出し、一は双眸を細めた。
彼の発した言葉はいちいち過去の何とも重ならない。恐ろしく単純で、明快な答え。
それはつまり。
「…………」
一は無言のままに総司から視線を外し、のどか過ぎる外の景色を見る。
今まで感じたことのない熱を胸の奥に感じ、しかし今だ言葉にはすることが出来ず己の瞳と似た色の空をただ見上げていた。
Fin
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Comment:
新選組らしい話を書きたくて書いたお話。
斎藤さんと沖田さんの戦闘シーンと、斎藤さんが土方さんを特別に思うきっかけみたいな
ものを書きたかったのです。
力不足は承知の上さ!
20090531up
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