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羅刹となり、夜の巡察を担当するようになって数日が過ぎ、更に数日が過ぎて。
それでもオレは、目の前の光景に馴染めずにいる。
むせ返るほどの血の匂いは、『斬った』せいじゃない。斬り『刻んだ』せい。
「……そこまで、することねえんじゃねえの」
討たれた浪士の身体から伸びる影がオレの足元まで手を伸ばしてくる。やがてそれは、影じゃなくて血なんだとわかった。
袋小路の影から月の光の元へ出てきた赤い色は、オレの鼓動を早くする。見慣れたはずの血から目を逸らしたいと思ったのは、もうとっくにオレがヒトでは無いものになっていたからなんだろうと思うと堪らなかった。
「ああ、藤堂君はまだ羅刹隊になったばかりですからね」
直に、これが必要なのだとわかりますよと。見知ったひとが、見知らぬ顔で笑う。
「慣れるまでは苦しむかもしれませんが、その時期を越えてしまえば楽なものです。それどころか、湧き上がる力に喜びすら覚えることでしょう」
血の海に群がる隊士の傍にただ直立しながら、目には慈愛に満ちた笑みを、口元には酷薄なそれを浮かべて山南さんがオレに告げた言葉はちっとも嬉しい内容じゃなかった。
楽になる? 本当に?
(それは慣れるんじゃなくて、何かを失うってことなんじゃないのか?)
無意識に固く瞑った両目を気力だけで開き、体調が優れなければ先に戻っていいという言葉に乗じてオレはその場を後にする。
背後から照らす月の光で出来たオレの足元に伸びるものは、影なのか血なのかそれもわからなかった。
どっちでも、良かった。
静まり返った屯所に戻り、鉢金を外して広間の畳に足を投げ出した。以前なら、巡察から戻ると左之さんや新八っつあんたちがわらわらと寄ってきては、今日も無事だったのかよ、なんて軽口を言ってきたのにその賑やかさはもう無い。
耳が痛いほどの静寂が圧力になってオレを押しつぶそうとしているみたいで、情けないけど、誰もいないのを良い事に自分の肩を抱きしめる。力を込めれば込めるほど感じる痛みに安心して、ああ、まだオレ生きてるのかなって。
「……生きてんのかなあ」
息はしてるけど。自分の意思で身体は動くけど。
(『生きてる』って、なんだっけ)
窓の格子から差す込む月の光が太陽の代わりになり、寂しいという気持ちはとうに消えて安堵だけが広がる。太陽の光はもう自分には強すぎて、焦がれる気持ちも無い。
沢山のことが少しずつ前のオレとは違うから、気付こうと思えば気付けるし目を逸らそうと思えば幾らでも逸らせる。逸らしたほうが楽なんだろうなって思いながら、それを怖いと思うくらいにはまだオレは人間だった。
ふいに廊下の空気が動き、誰かが近寄ってきているのがわかる。屯所内であることと、相手が気配を全く消していないことから身内の誰かだろうと判断して動かずにいると、やがて顔を出したのは千鶴だった。
「あ、やっぱり。よかったあ」
「千鶴。どうしたんだよこんな時間に」
会話をする間にも、千鶴は広間に入りオレの斜め前に腰を下ろす。袴だというのに、無意識に膝頭に手を入れるのは、千鶴のくせだ。
コイツの所作は、見るものが見れば女のそれだと分かると言ったのは一君だったろうか。そう聞かされると確かにそうなんだよなあと今更に感心しつつ、オレの視線に気付いたのか「ん?」と首を傾げた千鶴から目を逸らした。
「そろそろ巡察から戻ってくる頃かなって待ってたんだけど、全員の気配じゃなかったし、もしかしたら平助君だけ先に帰ってきたのかなって思ったの」
「待ってた? 何で」
「おかえりなさいって言おうと思って」
昼間は中々会えないし、こんな時でしか傍にいられないしと千鶴は笑う。その笑顔を見て、気付けばオレも笑ってた。
確かに月の光で満足していたはずなのに、それがもうオレにとっての普通なんだって思っていたのに、千鶴が傍にきて笑った途端『違う』ってことに気付いたんだ。
「おかえりなさい、平助君」
「……ただいま、千鶴」
千鶴がいるから、オレはまだ『こっち側』にいられるんだって。
「平助君疲れてる? ちょっと顔色悪いみたい」
「ん、そうか? 平気平気、それよりおまえの方こそ大丈夫かよこんな時間まで起きててさ」
「うん。私は他の皆さんみたいに何かしている訳でもないし。あ、お茶淹れてこようか、温めのほうがいいよね」
「あーいいよいいよ。それよりさ」
立ち上がりかけた千鶴の手を思わず取って引き止める。腰を浮かしかけた千鶴が「?」って顔になりながらも元の位置に座ったのに、オレの手はまだ千鶴のそれを掴んだままだった。
「もうちょっと、いてよ……何か話してたいんだ、おまえと」
普通に笑ってそう言ったつもりだったのに、自分で思ったより随分と情けない顔になってたのかもしれない。
それでも千鶴が、一瞬の後にはいつものように笑って、「うん」って言ってくれたから救われて。それから二人で、他愛の無い話を繰り返した。左之さん達が近いうちにちょっかい出しに来るらしいとか、総司が相変わらず良く分からない意地悪をするだとか。
その一つ一つが温かくて、さっき自分を強く抱きしめたときなんかよりよっぽどああオレ、生きてるんだって思えた。
「喋ってると喉渇くね。私、やっぱりお茶淹れてくるよ」
すぐ戻ってくるからちょっとだけ待ってて、と、立ち上がる千鶴の背中にオレは声をかける。
「ありがとな」
それを聞いた千鶴はやっぱり笑って、少し照れたように「お茶くらい幾らでも淹れるよ」って残して去っていく。
(違うよ千鶴)
それだけじゃない。千鶴がおかえりって言ってくれること。笑ってくれること。傍に、いてくれること。
「守って……やりたいなあ」
アイツがずっと笑っていられるように、泣くことなんかないように。
守ってやりたいのに。
「無理ですよ。昼の世界に住む彼女と、夜の世界に住む我々とでは交わりようがない」
諦めたほうが君の、何よりも彼女の為ですと山南さんは言った。珍しく、懐かしいと思える山南さんらしい表情で。
「君が寝ている昼間に何かがあったら? この先、血に狂って万が一にでも自分が彼女を傷つけてしまわないと、そう断言できるのですか?」
眼鏡の奥の双眸が光る。口調こそ穏やかなのに、まるで自分にそう言い聞かせているような言葉がひっかかって、言われた言葉を自分がどう思うかよりも山南さんにそう思わせるきっかけとなった出来事を思い出す。
「だから……明里さんと別れたのか?」
オレを指す『君』という言葉が山南さんを含めた羅刹を指す『自分』に代わったことが何よりの証拠だった。山南さんにしては珍しい尻尾の見せ方で、だから本当はそれ自体が答えだったのに。
それを聞くことが、どれほど山南さんの傷を抉るかを知っていたのに。
その名前を出した瞬間、確かに山南さんの瞳が揺れた。けれどそれはほんの一瞬ですぐにいつもの正体を掴ませない笑みが覆う。
「一般論ですよ。彼女は関係ない」
山南さんが公には死亡扱いとなることが決まったあの夜。どこからその話が漏れたのか、前川邸の西にある部屋の窓格子を叩いたのが明里さんだった。
明里さんは島原の天神だった人で、その頃から山南さんの馴染みだった女性だ。今は普通の女性として暮らしている。身請けしたのは、他でもない山南さんだ。
島原の女性を身請けする意味を知らないわけじゃない。そして、山南さんが気まぐれや善意でそれをする人じゃないってことも知っている。なによりも、二人を見ていれば、そこにどんな感情があってどんな関係だったのかなんて馬鹿でも分かる。
羅刹となり夜の世界のものとして生きる事になった山南さんに、生前のものとの接触は許されない。
でも山南さんがそうしたのは、そんな当たり前な理由じゃなく、きっと。
右手の感覚がないことに気付き、それでやっと自分がそうなるほどに手を握り締めていたことに気付く。改めて自分の意思で強く握り締めなおしながら、「でも」とオレは言い募った。
「傍にいる時だけでも、守れるじゃんか。前みたいにはいられないからって、出来ることまで諦めるのなんてオレは嫌だ」
「それで? 今はそうでもいいでしょう。それでその先はどうするんです」
「先……?」
「そうです。自分の代わりに常に相手を守る人を見つけてでも差し上げるのですか? それとも、人並みの幸せを与えてやることも出来ないのに、自分がその位置に収まるとでも?」
「――っ、オレ、は!」
「一般論ですよ、藤堂君」
冷ややかな声はオレを落ち着かせはしなかった。けれどそれ以上言葉を続けることは出来ず、ただ山南さんを睨みつけるしか出来なかったオレは、結局彼の言い分を認めてしまったことになるんだろうか。
(でも、イヤだ)
いやだ。いやだ。
『そばにいても、いいかな』
そう言ってくれた千鶴。
『出来るだけ、ううん、平助君が嫌だって言うまでそばにいたいんだけど、だめかな』
オレをこっち側にいさせてくれる千鶴。
「……オレは、狂ったりなんか、しない。血に狂ったりなんか絶対にしねえよ。アイツを傷つけることもしない、絶対にしねえ!」
気が付けば叫んでいた。山南さんに向かって、その実自分自身に誓うように。
明里さんは泣いていた。山南さんの名前を何度も呼んで、何故と叫んで。出窓の格子を掴んだ細指に浮かんだ骨を忘れない。どれほどの力でそれを掴んだのか、本当に掴みたかったものはその先にある山南さんの命で温もりで、つかめないもどかしさに叫ぶ声を忘れない。
「オレと山南さんは違う。どっちが正しいかなんてわからないし、もしかしたら山南さんが言ってることの方が正しいかもしれないけど、オレは嫌だ……嫌だ」
「嫌だと駄々をこねるなら子どもでも出来ます。けれど……そうですね、君がそう思うなら気の済むまで己の考えを貫くといい。別に私は困りません」
それに。
「直に君にもわかりますよ」
それが、会話の最後だった。これ以上言っても無駄だと思ったのか違う意図があったのかはわからない。ただ、その言葉を残して山南さんは去っていく。
残された俺は暫くそこに立ち尽くす。言い表せない怒りと虚しさを混在させたまま、吐き出す先がなくて。
やがて白む空に追われる様に自室に戻ると、耳の奥に残る千鶴の声を反芻させて目を閉じた。
何故かこめかみが痛んで、泣きそうになった。
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Comment:
山南さんと平助君が一番境遇が似てませんかね。
(出身同じ一刀流だし羅刹だし好きな人いるし)
明里さんの存在は創作ではないかと取りざたされておりますが、いるということで
捏造話を。
その前提で、どっちも正しいかもしれなくてどっちもどうなのよ、という葛藤を
書きたかったのです。
平ちゃんごめんね。
20090305up
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