この蝦夷の地に梅雨がないと言ったのは誰だったか。
「もう……今日も雨」
目覚めた時はまだ薄日が差していた空も、今ではすっかりその形を潜めて咽び泣いていた。いい加減泣き疲れやしないだろうかと思うほどの連日の雨は、けれど千鶴の心配と呆れをものともせず降り続くばかり。
買い物に行くのは、足元に気をつければ良いだけのことだけれど、こうも毎日雨続きだと洗濯物が乾かなくて困る。それに、今では刀の代わりに鍬を握って田畑を耕し、銃を持って山に入る夫の心配も、普段にもまして増えるばかりで。
勿論、あの夫がそうそうどじを踏むわけがないとわかっていても、不幸はいつだって唐突に起こる。口にしては実際に起こってしまいそうな不安を胸に仕舞い込めば、表情から敏感に妻の抱える不安を察知した夫が優しく自分の頭を撫でてくれた。おまえは本当に心配性だな、と、苦笑まで浮かべて。
しとしとと降り続く雨は、湿気をまとわりつかせるだけでなく不安までもをまとわりつかせる。幸せを感じるほどにそれを失う不安が増すのは当然で、つまり自分は今とても幸せなのだろう。半ば無理矢理に自分をそう納得させると、千鶴はもうすぐ帰ってくる夫の為に夕食の準備を始めた。
この地は元々気温が低く、夏近いといえど朝晩はとても冷え込む。
そこに連日の雨だ。衣はともかく、布団を夏物に変えなくて本当に良かったと思いながら、くべた薪に火をつけて、そっと手をかざした。
二人分の食事を作るのは慣れていたはずなのに、自分にとって大人数の食事を作ることの方が「日常」になっていたのだと気付いた時には、なんともいえない面映さと一抹の寂しさが胸に去来した。
父と二人、暮らしていた時間の方がずっと長かったと言うのに、何故か新選組の食客扱いとして生活を共にしていた時間に身についた癖の方が今の自分を作り上げている。そんな自分を、千鶴は愛しくも誇らしくも思う。
最近になってようやく自分達にとっての「適量」を膳に乗せることが出来るようになったが、最初のうちは作りすぎてしまって、笑うどころか絶句されたものだ。
土方に気付かれぬよう、共にする食事は少量を取り、あとでこっそりと作りすぎたおかずを食べては消費していたのだが、見た目は健康そのものの妻の食事量が、どうにも少なすぎると心配した夫の執拗な質問により事実は間もなく露呈した。それを打ち明けたときに返された、土方の呆れ顔は今でも思いだすと赤面に値する。
人並みにはこなせるあらゆることは、反面器用とも言い難い。時によっては自分よりも土方の方がよほどそつなくこなし、千鶴の妻としての座を脅かす。
所在なさげに肩を縮める千鶴を見ては、「上品な生まれでも育ちでもねえからな」と、だからおまえが気にする事は何もないのだと言外に甘やかしてくれる土方に、だからこそ千鶴は自分が役に立ちたいと願うのだ。
空が天候のせいではなく暗くかげる頃、外から人の気配が伝わってくる。
千鶴は土方を出迎えるべく濡れていた手を拭き、たすきを外して表へとまわると、戸にかけてあった衝立を外して引き戸を開けた。
「おかえりなさいませ」
「ああ、帰った」
土方が外した笠を受け取ろうと手を伸ばした千鶴に、わっさと大層な重量のものが手向けられる。予想外のものに気圧されて一瞬身を引けば、不本意にも土方に噴き出された。
「ガキみてぇな反応だな」
「と、突然こんなの差し出されたら、びっくりするに決まってるじゃないですか」
見れば、千鶴の背丈と同じほどの笹だ。土方と同じく雨にぬれ、身の色を濃くしながら独特の香りまでを濃厚に伝える。
「どうしたんですか? これ」
「おっと気をつけろ。笹の葉は肌を傷つけやすいからな」
手を伸ばしかけた千鶴から、その距離だけ己に笹を引き寄せた土方の頬や手の甲には、それを証明するかの様に赤い筋が幾重も走っている。すでに血の跡すら消えているものがほとんどだが、千鶴は目を丸くして雨を拭くために用意した手拭いて傷口も拭った。
「って! おい、大丈夫だから触るな」
「もう、どうしてこんなに傷だらけになって帰ってくるんですか!」
せっかくの綺麗な顔なのに、の呟きは胸の内だけに留めて、眉をしかめる土方の傷をおさえる。すると千鶴の手から手拭いを奪った土方は、ことも無げに「俺は男だからいいんだよ」とのたまった。
「大体、刀傷でもねえんだ。んな大仰に心配するまでもねえだろうが」
「土方さん」
「これっくらいで眉つりあげんじゃねえよ。折角の七夕だってのに」
七夕、と、夫に言われた単語を反芻してやっと気付いた千鶴に、おまえは中々新しい数えに慣れないなと土方が苦笑する。明治になり、西洋暦を取り入れた時節の数えに慣れないのは仕方ない。別段そのことを取り立てて責めるつもりはなく、ただ自分がこういう物言いをした時に見せる千鶴のほんの少し拗ねたような顔がたまらなく好きなのだ。
案の定、頬を赤くして少しばかり唇を尖らせる千鶴は、そう仕向けられたとは気付かずに己の羞恥と戦っている。以前ならともかく、人の決めた暦ではなくその日その日の自然と調和し生きている今ならば、それが分からないからといって特段困ることもない。慰めではなく、本心からそう思っているのだと分かる土方の言葉に、頬の赤みだけは残したまま、千鶴の口元に笑みが戻った。
「そういえば、昔屯所でもやりましたね」
「良く覚えてんな」
「そりゃあ忘れません。あの時は確か、原田さんと永倉さんが笹を持ってきてくださいました」
最早思い出となった日々に想いを馳せ、千鶴がふ、と微笑む。
確かあれは池田屋の事件が起こるほんの手前。巡察への同行という名目でのみ外出を許されていた千鶴を不憫に思った原田や永倉が、何かぱあっと明るい事をやろうとどこからか随分と立派な笹の枝を持って屯所へと戻ってきた事があったのだ。
それは一体どこから手に入れたものなのかとにこやかに問う山南の質問をかわし、オレ抜きで千鶴にいい格好をするのはずるいとの平助の不満もすべてまあまあと受け流し、驚くばかりの千鶴の前に、永倉が腕っ節を活かして笹を立てる。
『こんだけありゃあ、好きなだけ願いも釣り下げられるってな!』
狭い屯所の庭だったけれど、あまり大声で騒ぐ事も出来なかったけれど。
あの一晩は、確かに自分にとっては忘れ難い思い出の1つになった。無意識に募っていた息苦しさも全て、洗い流してくれるほどに。
「あの時も雨だったな」
「途中まではもってくれていたのですけど……」
「の、くせに雨ん中走り回りやがって、おかげで屯所が泥だらけになっちまった」
眉間に皺を寄せた自分とは対照的に、千鶴は楽しそうに思い出し笑いをする。あの後、その惨状を掃除する羽目になったのは他でもない千鶴だ。無論、掃除自体は汚した張本人――所謂三馬鹿だ、に命じたが、あの仕上がりを見れば誰がやったのかなど火を見るより明らかであり、それを思えば何故千鶴がこうも笑えるのかが不思議でならない。
ならないが、これが千鶴なのだ、とも思う。たとえその後でどんな厄介ごとを押し付けられようとも、相手から向けられた優しさや気遣いと言った厚意を、何よりも大切にする娘だから。
「願いごと、何にしましょうか」
とりあえず先にお風呂に入ってください。風邪をひいてしまいます。
そう言いながら笹を壁に預けさせ、触れた自分の袖口が濡れるのは構わずに、土方の着物の水分を、再び手にした手拭いでとんとんと叩いていく。
小さな手で懸命に自分の世話をする千鶴を、土方は目を細めて見やる。いつもそうだった。こんな小さななりで、想像もできないような波紋ばかりを投げかけて。
だからいつだって損ばかりしていた。為したいことと為さねばならぬことを決して1つにはせず、場の調和に努める娘だった。そのくせ、絶対に譲れないと思った場所では、頑としてそれを譲らぬ娘でもあった。
小さな子供と侮れば、大の大人でも持ちえぬ意思の強さを見せ、かと思えば自分のせいでもないような些事で、そそと泣く。
この不安定さは一体何だと理解しようとして諦めた。分析したところでどうにもならない、あるのはただ、それが千鶴だという事実だけ。
千鶴が沸かした風呂から出た土方が、嬉しそうに笹を見上げる千鶴の横に並ぶ。平屋の質素な家だ、飾りを立てるといっても大した仕事ではないが、夕食の前にやってしまおうという土方の提案の元に、千鶴が書き出した幾つもの願いは。
「……随分所帯じみてやがるな」
「ひっ、土方さん、見ないで下さい!」
ば、っと短冊を隠した千鶴の腕の隙間から、土方がひょいとその一枚を抜き取る。慌ててそれを取り返そうとした千鶴の元からは、その動きに煽られたほかの短冊までもが床に舞う羽目となった。
「あああっ」
「『畑の実りが豊かでありますように』……こっちは、『裏山の無花果が沢山実りますように』って、おまえほとんど食べ物の事ばっかりじゃねえか」
「土方さん! だ、だって食べ物は大事です、冬を越すにも一杯収穫できないと困るんですから!」
「『雨が早く止みますように』って、こりゃ今日明日限定の願い事だな」
「もう! 返してください!」
真っ赤になって手を伸ばす千鶴に、これ以上は機嫌を損ねると判断した土方が大人しく短冊を返す。
だがどうにも腑に落ちない土方は、こいつは昔もこうだったかと首をひねりながら、いや、そうでもなかったと記憶を引き出した。
父親が早く見つかるように。
巡察に出た皆が、無事に一日を終えられるように。
そんな、それこそ願掛け以外の何ものでもない願いが幾つもあったように記憶している。
まさか自分と暮らすようになったせいでこんなにも所帯じみたのかと眉を寄せ、しかし一向に女性らしさを失わない千鶴に首をかしげる。この不釣合い加減は一体何だというのか。
「おい、千鶴」
「はい?」
「なんていうか……もっとこう、別の願い事はねえのか」
「別の?」
きょとん、とした千鶴の眼差しは、自分の言っている事がまるで想像できないと言った態だ。
何と言ったものかと逡巡し、結局は「だから。もっとこうなりてえとか、こうあったらいい、とかそういう類のだ」と、実に曖昧なものになってしまった。
だが、千鶴にはそれで伝わったらしい。ああ、とやっと気付いたとような声をあげ、やがてくすくすと笑いを零す。自分は笑うような事を言っただろうかと土方が不審に思えば、口元にだけ笑みを残したまま、まっすぐな眼差しで千鶴が自分を見上げてきた。
「私の本当の願いは、土方さんに言いましたから」
笹に掲げる願いでも、空に祈る願いでもない。
自分が本当にかなえて欲しい一番の願いは、他でもない、目の前にいる人にしか叶えられないものだから。
「一番の願い事を、土方さんにお願いしました。だからもう、そういう意味での願い事を、私が願うことは無いんです」
驚くほどに凛とした視線を向けられ、土方の言葉が失われる。一回り以上も歳下の、千鶴に敵わないと思わされるのはこんな時だ。理屈ではなく、ひととしての本能的な部分で、千鶴が持つ芯の強さに驚かされる瞬間。迷いのない、まっすぐなその思いに。
「わ、わたしだってこんな願い事しかない訳じゃないんですよっ? でも、本当の願いはもうお祈りしちゃいましたし、残ってるっていったらこんなことで、でも食べる事は凄く大事ですし」
もごもごと言い訳めいた発言は、女であるが故に生まれる羞恥か。つい一瞬前に自分を驚かせた表情はどこへやら、歳相応の恥じらいを見せる仕草に参った、と思う。本当に自分は、どれほどこの娘を愛しいと思えば、想いに果てが見えるのだろうか。
「願いは叶えられたか?」
苦笑を滲ませて土方が問う。
自分はおまえを幸せに出来ているか。おまえが選んだ道に、後悔はないのかと。
千鶴が笑う。一瞬の迷いも見せずに。
「叶えていただいてます」
進行形で返された答えは、まだまだ彼女が満足していない証拠。すぐにその意図に気付き、土方が噴出した。
「怖い女だな、おまえは」
「……怖い、って、女性に対して言う言葉じゃないです」
たとえ褒め言葉だとしたって、ちょっと傷付くんですよ?
そう零した千鶴の瞳に、事実傷付いた色を見つけ土方がその肩を抱き寄せる。悪かった、と囁きを乗せて。
「おまえの願いは、何だって俺が叶えてやる」
たった1つだけは、どうにもならないけれど。
互いに気付いていた、わかっていたその「1つ」をあえて互いに口にせず、抱き合った相手の温度だけに思いを馳せる。今はこれで、十分すぎるほど幸せなのだから。
いつかこの熱ですら、この腕に残らなくても。
増える思い出は、救いにもなるが悲しみを生むものにもなる。わかっていても、望んでも望まなくても日々それは重なって。
だけど手放すことなんか出来ない。それが出来るのなら、自分はとうの昔にこのひとの隣にはいない。これが自分の選んだ道。あなたに、願った事。
「信じてます」
「ああ」
願った、こと。
同時に顔をあげ、重なった視線に微笑み合う。柔らかく口付けて、又微笑みあって、深く口付けた。
雨は降りやまず、さあさあと地を濡らす。外に出せず戸の内側に飾られた笹の葉は、揺れることなくそこに佇み続けた。
了
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Comment:
ついった仲間のYさん3人へ。
七夕って随分昔からあったんだとびっくりしました。
20100707up
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