その子が生まれたとき、なんて小さな生き物なんだろうと思ったことを平助は覚えている。
周りの大人から見れば、平助も十分小さなそれだ。しかし当人は、日頃そんな大人たちから小さいといわれている自分の手にすらすっぽりと収まってしまう、更に小さな小さな手におずおずと触れた時、ああ、自分が守ってやろうと誓ったのだ。
『この子はね、千鶴ちゃんって言うの』
『ちづる?』
隣の家に生まれた待望の女児は、呼ばれたのが自分の名だとわかったかのように柔らかな頬を更に柔らかくして笑ったものだから、平助はただただ目を丸くするしか出来なかった。
たまたま歳の近い子供が揃って生まれた平助の家と隣の家は、家族ぐるみの付き合いだ。千鶴が生まれ、退院したその祝いの席には二家族が勢ぞろいしている。
千鶴には兄がいる。それも、1人ではなく数人。しかも、子供だというのに千鶴を守るのに十分な力を持った者達が。
それでも。
『平助君も、この子のおにいちゃんになってくれるかな』
そういわれた言葉に、否のあろうはずがない。
ちょっと、僕達の妹なんだからどいてくれないかな、と嫌味たっぷりに言われた言葉は右から左で、平助はずっと千鶴のそばを離れなかった。
かわいいなあ、かわいいなあ。
まるでそれしか言葉を知らないように繰り返す様は、周囲を呆れさせるのに十分だった。
「ちっづるー」
いつものように、平助は千鶴を迎えに隣の家を訪れた。小学校は集団登校の為、集合場所に行けば自然と一緒に登校することになるのだが、平助はそこに行く前に千鶴を迎えに行く。
勝手知ったる、と言った態で隣家の扉を開けると大声で千鶴の名前を呼ぶ。ちょっとまってて、という柔らかい声が帰ってくるのをにこにこ受けながら、一足先に玄関に姿を現した出勤前の長兄にもついでに挨拶をする。
「トシ兄、おはよう」
「……お前も毎朝毎朝よく頑張るな」
ったく感心するぜ、との口調とは裏腹に、トシ兄と呼ばれた男の眼差しに浮かぶものは温かい。実際、社会人として働いている自分は千鶴を送ってやれず、すでに中学に上がっている次兄やその下も同様だ。
そんな自分達に代わって実にかいがいしく妹の面倒を見てくれる平助は、トシ兄――歳三にとっても本当の弟のようなものだった。段々と背負っているランドセルにつりあう体型に成長した平助の頭に手を伸ばし、わしわしと乱暴に撫でてやるとそんな扱いが不本意だと言うように頬が膨れた。
「ちょっ、何すんだよ! ガキ扱いするなよな」
「ばーか。ガキをガキ扱いして何が悪い」
「うーるーさーいー」
乱された髪を平助が手櫛で直していると、とたたたと軽い足音と共に千鶴が駆けてくる。とたん、先ほどまで膨れていたのが嘘のように平助の顔がぱあ、と晴れた。
「おはよう平にいちゃん」
「おはよう千鶴。今日もかわいいな」
「ありがとう! あのね、今日はね、はじめおにいちゃんがやってくれたの」
いつも頭のてっぺんで一つにまとめられている髪をぶんぶんと揺らし、嬉しそうに千鶴がそう報告してくる。言われた平助は、はじめおにいちゃんと言われた人物が千鶴の髪を丁寧に結い上げている姿を想像し、「あー……」と微妙な笑みを浮かべた。どんな甘ったるい顔でそれをしていたかと思うと、一の常の顔を知っている身としてはそうならざるを得ない。
「一君は千鶴が大好きだからなあ」
「うん! ちぃもはじめおにいちゃんだいすき!」
「こら。自分の事ちぃって言うなって言っただろうが」
もう小学生なんだから、と、聞きとがめた歳三が低い声で注意すると千鶴がびくんと肩を揺らして「ごめんなさい」と謝る。平助などは別にいいじゃん、とも思うのだが、歳三には自分も逆らえないのでしゅんとしている千鶴の手を握ることで励ます。
「ほら、行こう?」
「気ぃつけて行って来い。平助、頼んだぞ」
「まかせとけって」
行ってきます、の言葉を残して玄関から消えたチビ二人を見送り、歳三は緩く締めていたネクタイをきゅっと絞ると自らの準備に動き出した。
登校はいつも一緒。下校も大抵一緒。
周囲からは段々とからかわれることも多くなってきたが、それがどうしたというのが平助の素直な気持ちだ。
だって、可愛いものは可愛い。守りたいものは守りたい。
その気持ちに従って動くことに、どんな後ろめたさがあるというのか。
「……まあ平助はな、いいんじゃねえの?」
段々と多感な時期に入り、又その自覚もあるクラスメイト達は高学年になっても相変わらずの平助の純朴さに毒気を抜かれてそうとしか評せないでいる。
千鶴が入学してきた時は、まあ小さいし近所だし、で納得した。
しかしその溺愛っぷりは千鶴が二年生になり、三年生になった今も続いていて周囲はさすがに何かこう、妹分に対するものとは違うものが平助にあるのではと冷やかし半分でからかったこともあるのだが、その直後の平助の切れっぷりを目の当たりにしてからは迂闊にその話題に口を出すこともなくなった。ある意味、伝説となる出来事だ。
千鶴を変な目で見るんじゃねえよ、と。
普段、やんちゃとは言え微笑ましい悪戯しかせず常に笑顔でいた平助が、その時ばかりは発言したクラスメイトの机を蹴り倒して冷ややかな顔でそう言ったのだ。ある意味、それしかしなかったのだが、それで十分だった。
あの時の事は思い出すだけでも肝が冷える。目の前で、「なんだよそれ」とぶうぶう言っている平助からは想像も出来ないことが逆に怖い。
「千鶴ちゃん遅くね?」
「あーそういやそうだな」
クラスメイトの呟きに、校舎正面に設置された時計を見て平助も眉を寄せる。いつもなら平助が教室まで迎えに行くのだが、今週は平助の掃除当番の場所が体育館前のピロティと言うこともあって、ここで待ち合わせをしているのだ。
付き合いで残ってくれていた級友に「ちょっと見てくる」と手を振って別れる。
体育館の入り口脇に放り出していたランドセルを片方の肩にひっかけて校舎へと走り、途中すれ違った友達と言葉を交わしつつひんやりとした空気に包まれる昇降口にたどり着いて靴を脱いだ。靴下越しで触れた廊下はとても冷たく、平助は思わず身震いをする。
千鶴の下駄箱を覗き、靴があることを確認する。どうせ拾ってすぐ帰るし、と、靴下のままで千鶴の教室に向かって階段を駆け上がった。
「千鶴ー? いるかー?」
千鶴のクラスの前扉をがらりと開けながら名を呼べば、返事はなかった。代わりとばかりに残っていた千鶴の友人らから「あ、へーにいちゃんだ」との声があがる。千鶴がそう呼ぶので、自然と周りもそう呼ぶようになっていた。
「なあおまえらさ、千鶴しらねえ?」
「千鶴ちゃんならもうとっくに帰ったよ?」
ねー、と同意しあう千鶴の友人たちを見、平助の顔が強張る。
「それ、いつ」
「15分くらいまえだっけ」
「うん。ばいばいって」
「ありがとな」
聞くなり、扉を閉める反動すら使って平助が駆け出す。千鶴はもう帰ったという。けれど、自分とは合流していない。どういうことだ。
トイレにでも寄っているにしても、時間は経ちすぎている。職員室をガラス窓越しに覗いてみたが、千鶴らしき姿はない。
「どっこ行ったんだよ、アイツ」
舌打ちしながらも走り回ったが千鶴の姿は見つからない。もう一度靴を確認しようと昇降口へ向かいかけたとき、死角になっている廊下の最奥からぼそぼそとした声が聞こえた気がして平助は立ち止まった。
直感的に息を潜め、気配を伺いながら近付く。理科室や美術室と言った特別授業の為の校舎に続いている渡り廊下の奥、放課後なら、そのクラブに身を置くものしか使わない校舎の更に奥まったところ。しかも今日は、クラブ活動のコマはない。
「かえして!」
(――――!)
探していた少女の声が、涙声となって平助の耳に届く。
見れば、平助よりも一つ上と思しき男子が数名、千鶴の周りを取り囲むようにして立っている。その、中心人物と見られる少年の手には、千鶴の髪紐。
「おまえ、アイツの妹なんだろ?」
「生意気なんだよあいつ。ちょっと年上だからっていばりちらしてさ。もう1人のほうもいっつもオレたちのこと、馬鹿にしたような目でみやがるし」
「そんなこと、はじめおにいちゃんもそうにいちゃんもしないもん」
小さな手が必死に赤い紐を掴もうと伸ばされるが、身長の差でそれは叶わない。
「邪魔なんだよ!」
「きゃあ!」
少年の1人が千鶴を突き飛ばす。小さな身体がよろけ、ぺたりと廊下に座り込んだ。
「てっめえら何やってんだよ!!」
その瞬間、平助が感情のままに場に飛び出した。千鶴をいじめていた少年3人は、急に現れた平助に驚いたようだったが、すぐにその顔を馬鹿にしたようなものに変える。
「なんだ。近藤兄弟の手下じゃん」
「へー…にーちゃ……」
「千鶴、大丈夫か!?」
平助の姿を見た瞬間、ずっと堪えていたらしい千鶴の目が潤み始める。転んだ千鶴の背に手を置いた平助のシャツを、小さな手がぎゅうと握っていた。その手が震えていることに気付き、平助の脳内がかっと赤く染まる。
「千鶴、ちょっと脇寄ってろ」
「平にいちゃん?」
「いいから」
自分のランドセルを千鶴に託し、平助が立ち上がる。長い前髪の下から千鶴を泣かせた相手を睨みつけ、仁王立ちした。
「あのさ、総司や一君に恨みがあるならそっち行ってくんない? いくらでも好きにしていいからさ――出来るもんなら」
「なっ……」
「向かってく勇気も度胸もねえからって、こいつのこといじめてんじゃねえ!」
言うなり、平助が少年達に向かっていく。1対3、しかも、相手は平助よりも上級生だ。
総司や一はすでに卒業しているが、在学中に彼らに対する恨みがなにかしらあったのだろう。どう控えめに評したところで決して「目立たない」とはお世辞にも言えないあの二人だ。本人達が意識していようとなかろうと、人気と共に買う恨みも多い。
『頼んだぞ』
歳三が言ったあの一言には、そういった背景も十二分に含まれていることを平助は知っている。
けれど、それがなかったとしても千鶴を守る理由に不足はない。
がん、っと、殴りつけた最初の一発で相手の1人が倒れる。が、同時に残りの二人が平助に同時に襲い掛かり、身体を押さえつけた上で反撃を試みようとする。それを察した平助が、殴った後のアンバランスな体勢のまま反撃に転じ、しかし一発を顔にくらってしまった。
「へいにいちゃん!」
千鶴の悲鳴が上がり、見れば千鶴が身体全部で平助に再度殴りかかろうとした上級生の足にしがみついている。
案の定突き飛ばされた千鶴が廊下に身体をぶつける直前、ギリギリのところで平助の腕が千鶴のそれを掴む。そのまま足を蹴り出して千鶴を突き飛ばした相手の脛にお見舞いしてやりながら、千鶴の無事を確認した。
「馬鹿! なにやってんだよ、危ないじゃんか!」
だってへいにいちゃんが、と、こんな時でも自分の心配をする千鶴に、けれど平助はしかりつける。
「俺の心配とかしてる場合じゃないし! 大体、オレがこんなヤツらに負けるわけねーじゃん」
泣きべそをかく千鶴の頭を一度だけ撫で、平助は再び少年らに向き直る。少年三人は、自分より明らかに体型の劣る平助の思わぬ実力に腰が引き始めていたが、上級生の面目が立たないとでもいうように場に残っている。
「一君や総司には及ばないかもしんねーけど、コイツの事いじめんなら徹底的にやるぜ? 上級生だからって関係ねえよ」
言いながら平助は手のひらを相手に突き出した。
「返せよそれ。おまえなんかが触っていいもんじゃねえ」
千鶴の赤い髪紐は、すでに亡くなった母親から貰ったものだ。いまどきの子供が結ぶにしてはやや古風なそれを、千鶴がずっと大切にしていることを平助は知っている。
一歩近付けば、二人が一歩下がった。紐を握り締めているリーダーらしき少年だけが、その場を動かぬままにこう告げた。
「とりかえせるもんなら、やってみろよ」
「――やってやるさ!」
あとはもう、作戦も型もなにもない殴り合いの子供げんかだった。
小さい頃から嫌にケンカ慣れしていた兄や、剣道の道場に通っている幼馴染たちと育ってきただけあって、平助のそれは同じ年頃の少年達よりはよほど慣れたものだったが、こうも相手ががむしゃらに突っ込んできてはどうしようもない。
それでも殴られただけは殴り返し、おまけに蹴りまでつけてやる程度には応戦した。
「い、ててて……」
「平にいちゃん、平にいちゃん」
覚えてろよ、というお決まりの捨て台詞を残して去っていった三人から取り戻した髪紐を千鶴のしっぽに結んでやる。その間も、千鶴はぽろぽろと大きな目から涙を零し続けていた。
「大丈夫か、どっか痛いところないか?」
縦にこくんと動いた頭を見て平助は満足そうに笑うと、帰るか、と立ち上がる。身体のあちこちがみしみしと痛んだが、千鶴に怪我がないなら問題ない。
「平にいちゃんだいじょうぶ? だいじょうぶ?」
「大丈夫だって! ほら」
ぶんぶんと動かした腕は凄く痛かった。けれど平助は隠し通して笑顔を千鶴に向ける。
殴られたせいで切れたらしい口の中はひりひりするし、上履きで蹴られた足は擦り傷だらけだ。こりゃあ家に帰ったらさぞかし怒られるに違いないと憂鬱になりながら、泣きやまない千鶴の手を取って歩き出す。
「ごめんね、ちぃのせいで、ごめんなさい」
「ほら、ちぃって言ってると又トシ兄に怒られるぞ?」
「ごめんなさい」
「なーんで千鶴が謝るんだよ。いいんだって、千鶴を守るのはオレの役目なんだからさ」
それから家に帰るまでの間、千鶴はずっと「いたい?」と「だいじょうぶ?」と「ごめんなさい」を繰り返した。中々泣き止まないから、本当は禁止されている寄り道を敢行し、平助のなけなしの小遣いでアイスを買って公園で半分こした。
ようやく落ち着いた千鶴を家に送り届ければ、中間テストとやらで早々に帰宅していた総司と一に絶句して迎えられる。それほど平助は満身創痍だった。
しかし絶句したのもつかの間、これはまた派手にやったねと総司がにやにやとした視線を向けてくるから腹立たしい。大体、誰のせいだ誰のと言ってやりたくなる。
「……千鶴は怪我をしていない。ありがとう平助」
一が平助に頭を下げると、その隣で総司が千鶴を抱き寄せながら「でも減点」と冷たい声で平助に言い放つ。
「お姫様が泣いてる時点で駄目でしょ。怪我させなきゃいいってもんじゃない、千鶴はいつも笑ってなきゃ駄目」
かわいそうに、と、千鶴を気遣うようでその実平助を貶める為に言っているのではないかと思う声音でそう発した総司を憎々しげに睨んだものの、それは平助自身も思うことなので反論できない。
「この子は平助が大好きなんだからさ。君が怪我したらどう思うかくらい考えてケンカしてよ」
「うん、ち……わたし、平にいちゃんだいすき」
だから、平にいちゃんがいたいといたいの、と千鶴が又泣きそうな顔をするから総司が自分を睨んでくる。だがちょっとまて、今のは明らかに総司が悪いだろうと平助は口をぱくぱくさせた。
「そうだな……相手が多勢であろうと、怪我を負うのは己の不覚。平助、精進しろ」
「ちょっ、一君までそんなこと言うわけ!?」
「だーって僕も一君も売られた喧嘩で怪我なんかしたことないし? この子を守ってくれたことには御礼を言うけど、泣かせちゃうのはいただけないよねえ」
泣きすぎて腫れあがった妹の目元に唇を寄せつつ総司が言う言葉に、もはやぐうの音も出ない。
「さて、じゃあ千鶴、向こうでおやつ食べようか」
「うん!」
「じゃ、平助君ご苦労様。もう帰っていいよ」
「総司……てめえ」
玄関先に残された平助が拳を震わせるも、口で総司に勝てるはずもない。あと数年もすれば(もしかしたら)腕の上では張り合えるようになるかもしれないが、今それを思ったところでどうしようもない。
妹のせいで怪我をさせた以上詫びに行くのが筋だという一と連れ立って自宅に戻った平助を待っていたのは、やはり総司と同様の意見を持つ兄からの鉄拳だった。
fin
コメント:
元ネタ九条ミキ嬢(@25:00)。
うちの総司兄はわかりやすく妹溺愛で。
家族設定は九条さんちを参考にさせて頂きつつ、
近藤家:近藤さん・土方さん・総司・一・千鶴(両親事故死)
永倉家:新八・左之助・平助(両親健在)
な感じでひとつ。
(20090319)
初出:20090319
再掲:20090520
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