その男子生徒は、気付けば自分の周りによく現れた。
気付けば、というのには語弊があるかもしれない。元々彼が所属している剣道部に千鶴はマネージャーとして籍を置いており、そういう意味では顔を合わせるのは至極当然のことだった。
だが、いかに部活が同じとはいえ、学年が違う以上意図的に行動しない限りそれ以上の交流は生まれない。そう、つまり今の状態は片方が「意図的に」行動を起こした結果である。
「……あの、沖田先輩?」
それは今日の昼休みも同じ事だった。
一学年上である沖田は、一学年下である雪村千鶴とは当然のことながらクラスも違えば生活する階も違う。にも関わらず、その男は今、千鶴の目の前に陣取ってパックのジュースを口にしているのだ。
「ん? 何、欲しいのこれ」
言いながら沖田は口にしていたジュースのストローを千鶴に向ける。
「欲しいっていうか、それ私のなんですけどって、この際それはどうでもいいです」
「そう? なら全部飲んじゃうね」
言うなり、勢いを増して千鶴が買ってきたそれを飲み干していく。私のジュース……と、千鶴が胸中で呟くもそれは無駄な独り言に過ぎない。
「なんで先輩がここにいるんですか」
千鶴の目の前にいる男は、前述の通り本来この場にいるべきではない。無論、他クラスや他学年の人間が教室に入ってはいけないなどという決まりはないが、常識的に考えて日常的な風景ではない。
二つの机を向かい合わせにくっつけ、昼食を共にしているのは千鶴と沖田、それに千鶴のクラスメイトであり親友でもある鈴鹿千と藤堂平助だ。沖田を除いた3名は同じ学年同じクラスであり、ついでに言えば同じ部活でもある。但し、千においては女子剣道部の所属となるが。
「なんでって、いるからに決まってるでしょう。千鶴ちゃん、頭大丈夫?」
だって来なきゃいないよねえ、と、沖田は千に同意を求めるが千にとってはいい迷惑だ。千鶴をからかうのは勝手だが、その相方を担がせるような行動は避けてもらいたい。
「まあ、そうでしょうね。こなきゃいないでしょうね」
「ってさ、千鶴が聞いてるのはそーゆーんじゃないっつうか……千もさ、庇うか乗るかどっちかにしろよ、わかりにくいから」
唯一純粋に千鶴の味方である平助が、そう苦言を呈しながら綺麗に握られたおにぎりを食らう。机の上には、すでに消費されたためにゴミとなったラップが2枚に、手付かずで包まれたままのおにぎりが2つ。平均からはやや小さめとなるその身体のどこに、これだけに米が入るのかと千鶴は毎回驚かされているのだが、今の問題はそれではない。
「だってさ、千鶴ちゃんがちゃんとご飯食べてるかどうか心配で」
仰々しくため息までつき、沖田の箸が千鶴の弁当に伸びる。
「入学して半年以上。もうすぐ一年。なのに君ってば、入学当時のまま一向に成長する兆しが見えないし」
「っていうなら私のご飯食べないで下さい返してください」
軽薄な態度とは裏腹に、おかずに箸を突き刺すなどという無粋な真似はせず、綺麗な箸使いで千鶴のおかずをさらっては己の口に運ぶ。うん、これおいしいね、などと褒め言葉を紡がれようと、奪われたそれらは戻らない。
「育たないっていう意味なら、平助もだけどさ」
「っせえっつうの! おーれーはこれからなんですー! っつうかおまえ帰れ、とっとと自分の教室に帰れ!」
「うるさいなあ、ご飯くらい静かに食べられないの? ねえ、千ちゃん」
だから自分を巻き込むな、というのに。
千はちらりと視線のみを沖田に寄越し、目があったところで互いに微笑みだけを向け合う。ああやっぱり。ほんとタチ悪いわこの人。
出来るなら千鶴ちゃんには、まっとうな人とまっとうな恋愛をしてまっとうな人生を送って欲しかったけど。
「お千ちゃああん」
ついに自分に救いを求めてきた親友を見、千は心底同情を禁じえない。よしよし、と、丸い頭を撫でてやりながら、彼女に告げた「がんばって」に含ませた意味は複雑すぎる意味合いを持っていた。
そしてそれに気付いたのはやはり、ただ一人。
「ホント、千鶴ちゃんはいい友達を持ったよね」
「先輩がいなければ、もっといい友達でいられたんですけどね」
にこり。極上の笑みで。
それがせめてもの意趣返しだった。
失礼します、と、一礼して千鶴は職員室を後にする。
本来ならばとうに部活に向かっていなければならない時間だが、今日は日直だった為放課後も雑用が残っており、結果1時間近く遅れてしまっている。
理由がどうであれ、部活に遅れると副顧問である土方は良い顔をしないだろう。それ以前に、部員の迷惑になることが心苦しく、千鶴は急ぎ足で活動場所である体育館へと向かった。
一度教室へ戻って鞄を取り、昇降口へと向かう。体育館へ向かう前に部室で着替える必要があるのだが、部室へは一度外履きに履き替えなければいけない。ちょっとずるをすれば上履きのままで部室棟に向かう事もできるが、千鶴にその選択肢はなかった。
いつも部活が開始する時間から1時間が経過したということは、今頃準備運動も終わり、素振りに入ったところだろうか。
先週の練習試合で、平助が微妙に左足を気にしていたことを思い出し、あまり負担になるような練習は避けるように相談しようと思ったのに、すっかり出遅れてしまったと悔やみながら、千鶴は自らの下駄箱から外履きを取り出すと、代わりとばかりに上履きをつっこんだ。
「あ、雪村だ」
突然名前を呼ばれ、顔をあげる。するとそこには、沖田と同年代の、そしてよく隣で活動をしている運動部の男子生徒がいた。
顔を向けたものの、直接話したことなどなく無論名などわかるはずもない。それは相手も同じはずであるのに、彼は確かに自分の名を呼び、挙句こちらへと歩いてきている。
するとその心境がそのまま顔に出ていたのであろう。男子生徒は短く噴出したかと思うとそのまま笑い始めた。一体何事かと驚いたのは最初だけで、突然人の顔を見て笑うなんて失礼だと千鶴は膨れる。と、それすらおかしいと言ったようにその生徒は更に笑いを重ねた。
「ごめんごめん。いや、沖田がからかいたくなるのもわかるなーって」
ごめんな、と、のびた手が千鶴の頭を軽く撫でる。ちょっと待って欲しい。幾ら学年が上だといったところで、たった一つ年上の、しかも初対面の男子生徒に撫でられるような関係ではないはずだ。
「え、と」
「雪村さ、いっつも沖田にいじられてるよね。傍から見てて面白い面白い」
「お、面白くなんかないです!」
むっとして言い返せば、それすらもおかしかったらしい。千や平助が居れば、だからその素直すぎる反応がからかわれる要因なのだと教えてくれるだろうが、生憎と今この場に二人は居ない。
それどころか、目の前の人物の友人と思われる生徒まで新たに加わり、千鶴は完全に劣勢だ。何故かその人物まで自分を知っており、会話を面白がる始末。
「わ、私部活に行きたいんですけど」
「ちょっとくらい遅れたって大丈夫だって。剣道部だろ? だったらすでに遅れてるんだし」
「そーそー。ていうかさ、雪村ってなんで剣道部に入ったわけ? 沖田目当て?」
「は?」
「あいつ顔いいもんなー。ぜってー勝ちだって顔がいいと」
なにやら話が妙な方向に動き出している。というか、そんなことはどうでもいい。ほんとの本気で部活に行きたい。けれど自分の進行方向に二人がいて、素直に通してくれそうにもなく途方にくれてしまう。
「今からでも俺たちの部活にこない? 他にもマネージャーがいるから仕事も楽だし、顧問だってヒジセンほど厳しくねえしさ」
「あ、それいいそれいい!」
「よくないです! あの、本当に私そろそろ部活に行かないと」
やや強引に二人の脇をすり抜けるように身体をずらし、けれど完全に抜け切る前に声をかけてきた二人を見る。
「マネージャーをやっているのは、剣道が好きだからです。部員の皆さんの姿勢を見て、力になりたいって思ったからです」
それと、と続けて。
「沖田先輩が人気あるのは、別に顔だけじゃないと思います」
そりゃ確かに顔はいいと思う。背格好だって、贔屓目なしで整っていると思う。
けれど、それだけじゃない。
「意地悪ですけど、よくわからないことばっかりする方ですけど」
剣道に対する真摯な気持ちを知っている。軽口の奥に隠れている優しさだって知っている。
だから、たとえ冗談であっても顔だけだなんて思って欲しくない。
そう、思ってしまう自分のこの感情は、同じ部活に所属する仲間としてのものなのだろうか――そんなの、わからない。
「何やってるのさ、こんなところで」
場が気まずくなりかけたその時、そぐわない声が割って入った。
声の方を振り向けば、胴着を着た沖田が仏頂面で立っている。土方の前にいる時以外は、目元はともかく口元には常に笑みを浮かべている男が、このような顔をすることは珍しい。
そう思ったのは自分だけではなかったらしい。声をかけてきた男子二人が目に見えてうろたえている。特段後ろめたいことは無いらしいが、何を口にしてもこの空気を取り繕えないと悟ったのか、無言のままだ。
そんな二人を沖田は一瞥し、うちのマネージャーに何か用か、とだけあえて問う。問いを与えられたことで答える権利を得た二人は、いや、だの、じゃあ、だの短い言葉を口にして去って行った。
「…………」
残された場に、満ちる沈黙。ありがとうございました、と言おうとして思い直し、けれど謝るにも何に対して謝っていいのかが分からない。
だが実際沖田が何かに怒っているのは確かで、思い当たる節と言えば部活に遅れてしまっているというその一点だけだ。けれど普段の沖田からすれば、そのことでこれほどに怒るとも思えず、対応に困ってしまう。
声をかけた二人が消えていった方向から、おずおずと視線を沖田に戻せば冷ややかな眼差しの奥に、苛立ちの熱が見えた。
「何やってるの」
「え?」
何をやっているのか、と問われたところで自発的になにかをしていた訳でもなく、千鶴は困って視線を上履きの先にやる。
すると、頭上にため息が降った。その重々しさに肩を縮こませると、沖田の手が自分の頭をつかみ、悲鳴を上げるまもなく強引に上向かされる。
反射的に相手の顔をみれば、先ほどよりもはっきりと苛立ちを浮かべた眼差しがまっすぐに自分をみていた。
「君を苛めていいのは僕だけでしょ。何で他のヤツに遊ばれてるの」
浴びせられた言葉に、千鶴が固まる。何か今、自分は信じられない言葉を聞いた気がするのは気のせいだろうか。
「あの、あの」
言いたいことがある。でもなんだか上手く言葉にならなくて、あとが続かない。
それは多分きっと、頭で理解するよりも先に「何か」が伝わってきてしまったから。
自分の頭を掴んだままの沖田の手をとり、そっと下ろす。意外にも大した抵抗なくそれは外されて、けれどその代わりとばかりに取った手をそのまま握られた。
――ああほら、やっぱり
「なんで、ですか?」
それを聞いたら多分最後で。
それでも、知りたいという欲は止まらない。生まれつき色素の薄い髪をもった目の前の男は、自分の質問に対してちょっとだけ「しまった」というような表情を浮かべた。それでやっぱり「そうなんだ」と、直感が悟る。
「なんで、沖田先輩だけなんですか?」
本当は、沖田だろうが誰だろうが苛められるのはごめんだ。からかわれるのだって好きではない。仲の良い友人が幾ら、慌てている自分の姿を可愛いなどと褒めてくれようと、千鶴にしてみれば必死なのだ。そんな褒め言葉は、ちっとも嬉しくなんか無い。
「どうして、私を苛めるのは、先輩だけなんですか?」
だけどもし、彼のいう「苛める」が字面どおりの意味ではなくて、多様性を含む意味合いなのだとしたら。
自分の手を握っていた沖田の手がふと緩み、千鶴は反射的にそれを捉まえていた。そして一瞬先にそんな己の行動を恥じて手を離し、胸元に引き寄せる。
「決まってるでしょう」
下校を急ぐ生徒二人が、何かを楽しそうに話しながら自分たちの脇を通り過ぎていて行った。その視線がちら、と沖田を撫でていったことに気付きながらも、今の千鶴にとって、それはただの事実でしかなく。
「――――」
怒ったような口調で沖田が続けた言葉は、千鶴が本能のまま悟っていた言葉そのものでめまいがした。
聞かなければよかった。でも、聞かずにはいられなかった。
(どうしよう)
困る。
だって。
「言わせたってことは、返事をする覚悟があるってことだよね」
そんなこと、言うし。
恨めしげに眼差しだけを向ければ、先ほどまでの不機嫌はどこへやらと言った態でこちらを見ている。なんで、想いを告げたほうがそんな態度で、告げられたこっちがこんなにも動揺しなければならないのか。
「なんでですか?」
「何がさ」
「なんで、私なんですか?」
「その質問ずるくない? 僕は君からまだ何の返事ももらってないんだけど」
「だ、だって! 沖田先輩、いつも私のことからかってばかりだし、今日だって成長しないとかなんだとか、とても先輩の好みとは思えない評価されましたし」
「ああそれ、照れ隠しだから。大体胸ばっかり大きくたってバランスってものがあるし」
「照れるような人がそんなことを堂々と言わないで下さい!」
真っ赤になって言い返せば、君が気にするなら幾らでも協力するけど、と、更にとんでもないことを言ってくるから絶句するしかない。真っ赤になって口をぱくぱくさせている自分はきっと、相当滑稽だろう。
すると、ふ、と沖田の眼差しが緩んだ。なんてね、なんて、冗談だよって言外に告げて、だから自分はわからなくなる。
視線をそらした先に、沖田の素足が見えた。昇降口から体育館の入り口まではレンガ敷きの小道で、こんな足で歩いてきたら、足裏だって怪我をするかもしれないのに。
体育館の入り口から、こっちが見えて。
自分だって気付いて。そうして来てくれたんだ。靴も履かずに、気付いたらすぐその足で。きっと、何かトラブルに巻き込まれてるんじゃないかって――心配してくれて。
「怪我、してないですか?」
足を指差せば、うん、と短い返事が返ってきた。
「僕の事好き?」
聞かれて。
はい、と、やっぱり短い返事を返した。
たった二文字の言葉を口にしただけなのに、じりじりと熱があがる。この後、どんな言葉を続けたらいいんだろう、どんな顔をしたらいいんだろうと困っていたら、そっか、と言葉を発したのは沖田の方だった。
その後に続いたのは、どうしよう、の言葉で。
何がどうしようなのかと顔をあげれば、見たこともないような表情。
「想像以上に嬉しいや」
「――っ!」
嬉しそうで、どこか本気で困っていて。いつも子供の様な顔しかしないくせに、ちゃんと年上のおとこのひとの顔で、笑う。
「部活行ける?」
「い、行きます」
「顔まっかだけど」
「誰のせいですか!」
精一杯の強がりを軽くいなされて噛み付けば、僕のせいでしょ、なんて軽くかわされる。挙句。
「僕のせいじゃなきゃ困る」
なんて言うから。
居たたまれなくて駆け出した。突然の行動に驚いた沖田をその場に残し、危ないから靴を取ってきます、と、もっともらしい言い訳をして一人で体育館に向かう。
走った事で生まれた風が頬を撫でて気持ちがいい。
目一杯吸い込んだ空気は、甘い花の香りがした。
Fin
コメント:おきちづはむしろ沖田が乙女でいいと思うんです
初出:20090925
再掲:20100309
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