「あ」
気付いた時には、大好きな赤くて丸い物体が視界から消えていた。
サラダの付け合わせと言えばそれまで。色づけといわれればそれまでのプチトマトは、けれど千鶴にとってはとても大事なものだったのだ。
目の前に座っていた、何かと自分にちょっかいを出してくる人物の指が緑のヘタをつまんで、その先にある赤い実を己の口に運んでいく。千鶴が抗議らしい抗議を上げる間もなく、ぷつ、という短い音と共に緑と赤が切断されて、後者のみが完全に外界から消えた。
「あああああ!」
最後の楽しみに取っておいた大好物を何の断りも無く奪っていった人物は、数回咀嚼を繰り返したかと思うと大仰に喉を鳴らしてそれを飲み下す。そして学食の箸を握り締めたまま震えている千鶴に対し、「ごちそうさま」などと言ってのけたのだ。
「ひ、ひどい……」
「だって最後まで残ってるからさ。嫌いなのかなーって」
だから食べてあげたんだよ、と、さも親切心のように言う犯人に、千鶴の気持ちは益々沈む。
「逆です、大好きだから楽しみにとっておいたのに」
「え? そうなの? でもこれあんまりおいしくなかったよ?」
だからなんだ、それが人のものを奪っていい理由になるのかと、千鶴にしては珍しく強気で言い返そうとしたのだが、そうしようとするまえに視界が歪んでしまった。
「――っ、千鶴ちゃんっ!?」
これにはさすがの沖田も驚き、この男にしては珍しく眼を丸くして声をあげた。自らの眼にあふれつつある涙に驚いているのは千鶴自身も同じで、けれどだって、今日はなんだかずっとついてなかったのだ。
沖田が千鶴を構い倒すのは最早この学校の風物詩にもなっている。元々色々な意味で目立つ沖田は、何故か千鶴が入学してきて早々に彼女に目を付けてからというもの、やたらとちょっかいをかけている。
今日だって、クラスメイトと学食に来ていた千鶴と同じテーブルにわざわざ座り、そのせいで友人は変な気を回して先に教室へと戻ってしまった。無論千鶴は待ってと言ったが、沖田はと言えば笑顔で手を振って送り出す始末。本当に、どうにかしてほしい。
別に沖田のことを嫌いなのではない。ただ、からかってばかりだから、ちょっと苦手だったりするのは確かで。
それに、からかうと言っても酷いことをされるわけではない。だから、そうされる理由は分からないまでも、それなりの距離をとりつつ接してきたのに。
「ひどいです」
自分が泣くのは非常にまずいということは千鶴も分かっているが、今は悲しさとやりきれなさと憤りが勝ってしまってどうにもならない。
かろうじて下瞼の淵で雫を堪えているが、あとはもう表面張力に頑張ってもらうしかないと言ったところまできている。
「そんなにプチトマト好きだったの? 泣くほど?」
「そういう問題じゃないです! 人のものを勝手にとってくって、駄目に決まってるじゃないですか」
目覚ましをかけたはずだったのにならなくて。そのせいでお弁当を作る時間もなかった。
時間がないのに髪の毛はいつも以上にはねて大変だったし、学校の駐輪場は混んでて一番奥まで行かないととめられなかったし、日付と出席番号が同じせいで授業では指名されまくり、等々。
とにかくついてなかったのだ。だからこそ、普段だったらお弁当の無い日は購買のパンで済ませることが多いのに、友達に付き合ってもらって学食を奮発したのに。
元気を出そうと、大好きなプチトマトがついているという理由でAランチにしたのはそんな理由。学食のメニューでは一番高いそれは、けれど運を切り替えるためにもと思って頼んだのに。それなのに。
「おきたせんぱいなんて、きらいです」
涙と同時に、言葉が落ちた。
俯いてしまった千鶴には沖田の表情は見えず、ただ、沖田が椅子から立ち上がったらしい「がたん」という音だけが耳に残って。
周囲がざわついているのが分かる。あたりまえだ。沖田はただでさえ目立つのに、一緒に居た自分が泣いて、あまつさえ「きらい」などと言い沖田が席を立つ。暫く学校中で噂されるだろう。本当に、なんでこんなにも今日はついてないんだろう。
(ついてない)
きらいなんて、言うつもりなかったのに。
だけど沖田だって酷い。大好きなプチトマトを勝手に食べた。
それでも、彼にとってはちょっとした悪戯だってわかってる。だから酷いのは、酷い言葉を投げつけた自分。
ひどい、を向ける対象をぐるぐると交換しながら混乱が募り、とりあえず涙を拭こうとした千鶴が身じろぎするのと同時に、上げかけた視界一面に赤が広がった。何事かと驚いて、涙を拭く前に顔をあげれば、立ち去ったとばかり思っていた沖田が本当に困ったという顔で立っていて。
「あげる」
言われて、広がった色の正体をみれば、ごろごろと沢山のプチトマト。沖田の両手をフルに活用して運ばれてきたそれは、結構な量でもって学食の皿を埋め尽くしている。
驚きのあまり涙も止まり、ぽかん、と再び沖田をみれば、沖田は腕を縮めてシャツの袖を内側から握ると、そのまま千鶴の頬の雫を拭いていった。
「食べたら。好きなんでしょ」
頬に零れていた涙を拭き終わると、先ほどまでと同じように千鶴の前の椅子に座る。沢山の疑問が胸を占めたが、解決されたのはプチトマトの出所だけ。学食カウンターの内側にいる人物らが、いいからいいから、と言った態で何度も頷いていたから。
固まったままの千鶴に苛立ち、沖田の指が再び千鶴の皿に伸びる。そうしてつまみ上げた赤い実を、けれど先ほどとは違って己の口には運ばずに、へたを取ったそれを千鶴の唇に押し当てた。トマトの丸みの分だけ、千鶴の唇が柔らかに沈む。
「口開けなよ」
思わず開いた口に、ころん、と押し込まれる丸いそれ。
「食べなよ」
命ぜられるままに食む。柔らかく力を入れては噛めず、力を入れて噛めば、ぷちん、と皮が弾けてあまずっぱい味が広がった。
おいしい? と問われ、こくりと頷く。すると、不機嫌そうに見えた沖田の顔が、やわらかなものに変わった。
それを見て、なんだかもっと、なきたくなった。
「ごめんなさい」を言おうとしたら、赤い実で唇を塞がれた。恨めしげに相手を見れば、彼の下唇の方がもっと不満げで。
どうせだったら、反対の言葉で打ち消してほしい、と。
存外真面目な声で言われた言葉の意味に気付いた千鶴の頬が、唇を割って入ったそれと同じ色に染まる。
ふざけてるんですよね? と聞き返すのも、地雷な気がする。
かといって、そうと決め付けて流すには沖田の声がいつものものとは違っていて。
だけど、まさか本気だなんて。そんなことを思うこと自体おこがましいし、それになんだかきっと多分、すごく困る。
甘酸っぱかったはずの味が消えた。今ではもう、何の味もしない。
更に自分でとったそれを口に入れるも、やはり同じ。もしかして自分は、動揺しているんだろうか。
「真っ赤だね」
「――っ、そ、そんなことないですっ」
「これのことだけど」
沖田が皿の上の実を指差す。千鶴はてっきり自分のことを言われたのかと思って答えてしまったから、あまりの居たたまれなさに消えてしまいたかった。
無論沖田は千鶴をからかう意図でそう言ったのだが、予想通りの反応過ぎて苦笑が滲む。こんな反応を返してくれるから、ついつい加減を誤ってしまうのだ。
今の会話で更に赤くなった頬を見て、触れたいと思う。今はまだ怖がらせてしまうから、我慢するけれど。
「きっとおいしいんだろうね」
「おいしいですよ」
「食べていいの?」
いいですよ、と言おうとして、千鶴にしては珍しく含まれた響きに敏感に反応を示す。
それは千鶴がどう、というものではなく、恐らく沖田が滲ませた響きが男のそれで、捕食される側特有の本能というべき敏さが警告を示したまでのこと。
返事を止め、探るように沖田を見る。にこにこと人好きのするような笑顔の下にある思惑は、見破ることは出来ない。
「……え、と……これの話、ですよね?」
返事はない。ただ、細められていた瞳の奥が何故か甘やかに揺れた。
千鶴の指からつまんでいた赤い実が落ちる。ぽと、と質量に見合った軽い音で皿にもどったプチトマトは、ころりと半身分転がって止まった。
「ねえ、食べてもいいかな」
千鶴が落としたプチトマトを沖田の指がつまむ。言いながらももう食べてしまっているのに、何故今更のように許可を求めるのか。
すっかり固まってしまった千鶴を見、沖田が堪えきれないというように噴出した。ひどい、このひとはやっぱりひどい。どれだけ私をからかえば気が済むんだろう。
「お、沖田先輩なんて……っ」
いつも意地悪ばっかりで、からかってばかりで。私が慌ててるところを見ては楽しそうに笑い、髪をくしゃくしゃに撫で回して去っていく。
「先輩、なんて」
「『きらい』?」
ほら、こうやってずるい言い方ばかりして。
そうしている間にも、沖田の指は器用に緑のへたを外しては赤い実のみを千鶴の皿に戻していく。ぷちん、ころん。ぷちん、ころん。むしられて、綺麗になって転がされて。必要なはずのその作業が、ひどく滑稽に見えるのはなんでだろう。何かに重なって思えるのは、何でだろう。
「ねえ、僕のこと嫌い?」
「……じゃ、ないです、けど」
「けど?」
「意地悪なのは、嫌です」
「意地悪かな、僕」
そこで頷けないのが千鶴の弱さだ。そしてそれを知っているからこそ、あえて正面から聞くところが沖田が上手である証拠なのだが、無論千鶴は気付かない。
「まあ、嫌いじゃないみたいだしいいかな」
「だからって別にす、好きって訳じゃないですからねっ?」
「そこまで一生懸命否定しないでよ、傷付くなあ」
君って結構ひどいよね、との言葉は、沖田にだけは言われたくない台詞だ。それなのについ、「ごめんなさい」と謝ってしまうのも千鶴が千鶴たる所以で。
「あの、折角ですがこんなには食べきれないので、一緒に食べてもらえませんか?」
「千鶴ちゃんが食べさせてくれるならいいよ」
「っ、じゃあいいです!」
「あはははは」
これ以上苛めると本気で嫌われかねない。沖田は笑いながら自分が山ほどもらってきたトマトをつまんでは口に運ぶ。別に不味くはないが、特段おいしいとも思わない。
けれど。
「……沖田先輩」
「ん?」
2個目を食べようとしてあけた口に、ぽん、と違う実が押し込まれる。ふ、と唇にトマトとは違う感触が触れた気がするが、どうだろうか。
「さっき、食べさせてもらいましたから」
自分でやったくせに、真っ赤な真っ赤な頬と耳をしたままそんなことを言うほうこそ、反則ではないのか。
器用に千鶴からは見えない耳の裏だけを赤く染めて、沖田は初めて甘酸っぱさを感じる赤い実を、ただただ咀嚼し続けた。
Fin
コメント:某所とネタが被ったのですが、悔しいのでちょっと変更して拍手ネタに笑!
がっかりするのも幸せにするのも相手で自分だったらいいよね、という話です。
初出:20090723
再掲:20100309
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