卒業式に桜など、誰がイメージとして刷り込んだのだろう。
実際、桜など三月の半ばに咲くはずも無い。運が悪ければ季節はずれの雪すら降ることもあるというのに、どうしたって桜など咲くはずが無い。
だが折からの暖冬に背中を押されるように蕾が膨らみ、これは本当に卒業式に桜が咲くかもしれないと話していたのは先週のこと。
そして一昨日、気の早いいくつかの蕾がほころび始め、最早春と言っても過言ではないここ最近の気候が後押しをして卒業式の今日では五分咲きまでとなった。
しかしながら日の光が十分ではないのか、例年よりも色付きが薄く、桜色には程遠い。しかしそれを補って余りあるほど、卒業式にあわせて咲いてくれた桜に向けられる卒業生からの感謝の声は高かった。
「おい、まだ残ってたのか」
卒業式も終わり、名残を惜しむように残っていた生徒もすでに学校を後にして親しい友人や恋人と盛り上がっているであろう時間に、見慣れた姿を見つけた土方が声をかける。
自分の教え子でもあり卒業生でもある女生徒は呼びかけられた声に振り向き、土方先生、と自分を呼んで顔をほころばせる。
「桜が綺麗で。見とれちゃってました」
「つってもまだ半分くらいだろう。見とれるには早えんじゃねえのか?」
「だって、ずっと待ってたんですもん」
送るものと送られるもの。共に胸には在校生手作りの造花が飾られている。今更につけっぱなしだったことに土方が気付き、気恥ずかしさから誰に見られるでもなく眉を顰めた。
「仲のいいダチだっているだろうが。打ち上げとか参加しなくていいのか?」
「いーんです」
教師らしいことを言えば、彼の教え子――雪村千鶴の頬がわずかに膨れる。わかっているくせに、との無言の抗議に微苦笑が零れる。土方の口元に浮かんだそれを認めた千鶴は、膨らませた頬をあっという間に元にもどしてゆるゆると笑った。
「土方先生、お世話になりました」
「ああ、まったくだ」
「もう! 私、結構優秀な生徒だったと思いますけど?」
「自分で言うかよ」
「だって最後ですもん」
言って、千鶴が身体の正面を土方に向ける。翻ったスカートの裾と、結い上げた髪が弧を描いて何かを断ち切ったかのように見えた。
「今日で、最後です、よ」
直前までの笑顔はどこへやら、急に不安げな顔つきで土方を見上げ唇を一度かみ締める。
わずかに浮かんでいた笑みすら消して自分を見返してくる土方に、不安が膨らんでいく。だけど、負けない。
だってずっとずっとずっと、自分はこのときを待ってた。
高校に入学して初めての担任が土方だった。古文を教える土方とは、朝夕のホームルームと彼の受け持つ古文の時間だけ共に過ごすことが出来た。
最初は単純に、男の人なのに整った顔をしているなと思った。すでに騒いでいる女子が何人もいて、うんうん分かる分かる、だなんて、まるであの駅前のアイスが美味しいよねっていうのと同じくらいの感覚で。
次に、指が綺麗だなと思った。大人の男の人だから手が大きいのは当たり前で、だけどチョークを握る指がなんて綺麗なんだろうと思って。特に、握ったときに甲に浮かんだ筋がやけに色っぽく見えて困った。
好きだ、って思ったのは、出席確認で名前を呼ばれたとき。
名前なんて同じように何回も呼ばれていたはずなのに、ある日突然土方に呼ばれた『雪村』が特別に聞こえた。あまりにびっくりして、思わず返事が出来なかったくらい。
理由なんて幾らでもあった。厳しいのに異様に面倒見がいいとか、眉間に皺ばかり寄せてるくせにたまに見せる笑顔が犯罪級だとか。
どれもこれも自分が土方に心を奪われるための必然で、どれ一つだって欠けちゃ駄目で、それでもきっと一番惹かれたのはこの眼差し。深い深い視線。言葉で何を言っても、態度で何を表しても、自分自身ですら気付いていない本当の本音をさらっと掬って行ってしまいそうなそれ。
二年生で担任が変わってしまった。自分の気持ちに気付いていたはずの土方は、さらりと「次の先生を困らせんじゃねえぞ」、なんて言葉だけを残して、子ども扱いそのまんまで頭まで撫でて行ったから悔しくて悔しくて泣いた。
だから負けないって思った。ちょっと離れたくらいで、徹底的に生徒扱いされたからって変わるものなんかじゃないんだって証明してやろうって思った。
傍から見たら、子犬が足をもたつかせながら必死に大型犬に付いていっているように見えただろう。それでも千鶴は諦めなかった。土方の教科は勿論、他の教科だって一生懸命勉強した。質問だって何度もしに職員室や準備室に足を運び、そのくせ絶対に私情は混ぜなかった。それが土方の好みだと分かっていたから。頭の良し悪しじゃなくて、「馬鹿」な女も子供も嫌いだと分かっていたから。
三年生になって再び土方が担任になって暫くの後――初めて、彼の困った笑顔をみた。困った顔じゃなくて、困った笑顔。
何も言わなかった自分に、土方の方から声をかけてきたのだ。「馬鹿だなおまえは」と。それだけ。だけどそれで十分だった。
『私、馬鹿でいる自信あります』
泣きそうだった。もしかしたら、泣いてたのかもしれない。
放課後の教室で、もうとっくに誰もいなくなって、だけど何故か自分と土方だけはそこにいて。
そこで約束した。卒業するその日まで変わらなく居続けられたのなら認めてくれると。
何を、とも互いには口にしなかった。けれどやっぱりそれで十分だった。
そして今日がその約束の日。
「ああ、だな」
土方は短くそれだけを返す。風が吹き、桜の枝が揺れた。咲いたばかりの桜の花びらが数枚風に舞う。
土方は目を細めて白い欠片を見送り、そのままであの時と同じ言葉を呟いた。「馬鹿だな、おまえは」と。
千鶴はぎゅうと両の手を握り締めて、まっすぐに担任だった男を見て返事をする。
もう、馬鹿じゃないですよと。
「だって、証明できましたから」
馬鹿じゃないです。
言葉だけじゃなくて、高校生活の全部をかけてあなたが好きだって証明できた自分を馬鹿だとは思わない。おろかだとも、子供だとも思わない。
「勿体ねえと思わねえのかよ。一番楽しい時期逃しやがって。コーコーセーなんてのは、恋愛してなんぼだろうが」
「……先生の言葉とは思えませんけど」
がりがりと髪を掻き毟る土方に思わずつっこめば、いいんだよと一蹴された。そして「付いてこい」と促されて連れて行かれた先は、見慣れた校門だった。
土方が無言で校舎を振り仰ぎ、眼差しを細める。何を思っているのだろうと思いながら、同じように千鶴も三年間通った校舎を振り仰ぐ。思い出すことなど、数え切れないほどつまったそれを。
「俺は教師だ」
校舎を仰ぎ見たまま土方が言う。
「それは一生変わらねえ。何度てめえの生徒を送りだそうが、俺が教師という仕事を辞めねえ限りは俺は教師のままだ」
だがな、と。続けながら土方の視線が千鶴に降りる。
「ここを一歩出たら少なくともおまえの担任じゃなくなる。わかるか」
あの、全てを見透かす瞳が自分を見ている。ほんのわずかな迷いも嘘も見逃さないというように。
「おまえに対しての教師のモラルなんざ無くなる線がこれだ。守ってやるだけの俺が欲しいなら一人で出ていけ」
校門の柱と柱の間に引かれた明確な線を視線で示し、今まで見たことのないような厳しい視線で土方が千鶴に告げる。最後の選択を間違うんじゃねえぞとばかりに容赦の無い声音までつけて。
千鶴の白い喉仏が震えた。それに気付いた土方がため息をつく間もなく、気がつけば千鶴の腕が自分を突き飛ばし校門から外へと押し出していた。どこにそんな力があるのかと思うほどの勢いに瞠目し、たたらを踏んでバランスを整える。 何をするのかと教え子を見れば、彼女こそが今までにない厳しい顔で自分をにらみ返していた。
「あんまり女子高生なめないでください」
どれほどの覚悟で想い続けてきたと思ってるんですか。
これだけ時間かけて証明したっていうのに、まだ疑うんですか。
「土方先生、なんて、二度と呼ぶつもりなんてないんです」
千鶴のローファーが学校の敷地を蹴り飛ばし、軽やかにラインを超えていく。
とん、と音を立てて土方の目の前に着地し、長身の土方を真下から見上げて声を張り上げた。
「三年間ずっと好きでした!」
子供特有のまっすぐな瞳で有無を言わさぬとばかりに告げられた初めての言葉に土方が言葉を失う。駄々漏れだったくせに三年間という長い月日の間押し殺されていた言葉は、それでもみずみずしさを失うことなくただ重みと熱だけを増して自分の胸を打った。
憧れだと片付けてしまうのは簡単で、事実そうであるのなら容赦なく土方は切り捨てただろう。本人が恋情だと思っていても、若さは己の感情すらごまかすことも容易に出来る。色付けされた気持ちを本心だと勘違いして道を踏み外すくらいなら、傷つけてでも元の道に投げ返してやる。それが大人であり教師でもある自分の役目で。
けれど雪村千鶴という少女が自分に向けてくる気持ちはそれではなかった。あまりに純粋で、無垢で、だからこそ自分などに向けられて良いものではないと思ったのだ。年相応の恋愛をし、その年齢でしか得られないものを得てやがて大人になればいいと、どれほど願ったことか。
なのに彼女は自分がいいという。言葉ではなく、全身で訴えてくる。だから土方は馬鹿だと言った。
そしてそのおろかな少女に、自分も心奪われていたのだ。けれど彼女よりも大人である以上「はいそうですか」と認めるわけにもぶつけるわけにもいかない。重ねてきた時間で得た経験は、人を強くも弱くもする。臆病だといわれても、最後の一線を越えるのは自分ではいけないとそれだけを心に決めて。
それは彼女の為か、自分の弱さか。今となってはもうわからないけれど。
「こんな『線』なんて、あなたが言うなら何回だって越えてみせます。だから、」
声が震えた。
「ちゃんと……っ、生徒とか、子供だとか、そんなんじゃ、なく、てっ」
――雪村千鶴(わたし)を見てください
それで駄目なら納得できると。言えるだけの強さはどこから生まれるのか。
「……雪村、顔をあげろ」
泣き声だけは上げまいと、ぎりぎりまで堪えて堪えきれなくなったところで塊のような吐息だけを繰り返し零す存在を、どうして子供と言えようか。
愛しいという気持ちを、押し殺すことなど出来ようか。
「おまえもあんまり教師をなめんじゃねえぞ。言っておくがな、俺はおまえらを一度だって『生徒』だとか『子供』だとかいうくだらねえ肩書きだけで見たことなんざねえ」
ちゃんと見ていた。
見たくなくても、見せつけられた。
「……待ってたのが自分だけだなんて、思ってんじゃねえよ馬鹿」
花びらが舞う。早く咲いてしまった運命を、喜びもうらみもせずにあるがままに。
上げられた顔はやっぱり濡れていた。苦笑してその涙をぬぐってやりながら、ぽかんと呆けたままの額をぴしりとはじく。
「い、ったい!」
「泣くんなら制服脱いでからにしろ。抱きしめてやることも出来ねえだろうが」
さすがにここでは犯罪だろ、と、軽口を叩く土方を千鶴が益々ぽかんと見つめる。え、だの、あの、だのともごもご繰り返し、暫く黙ったかと思えば再び「え?」と今度は首までかしげる始末。
「なんだ。俺が欲しいんじゃねえのかよ」
「ほ、欲しいです!」
「だからやるって言ってんだろ」
「へ?」
まだわかんねえのかよと苦々しげに呟けば千鶴の頬に朱が広がっていく。こりゃあクセんなるな、と内心一人ごちながらあくまでも表面上は苦りきったままでびしりと右方面の道路を指差した。
「とっとと下校! 着替えたら電話よこせ。迎えに行ってやる」
「は、はいっ!」
「祝杯あげてやるよ。おまえの根性には負けた」
無意識に零れた苦笑に、千鶴の頬が綻ぶ。一足早い春の訪れのように、控えめなくせに堪え切れなかったといった態の。
胸ポケットから自分の番号を控えた紙を千鶴に渡し、もうここでの用は無いとばかりに早く行けと促す。どこまで折り曲げる気だ、と呆れるほどの一礼をしてから、千鶴は白く霞む桜の下をまっすぐに走り去って行った。
Fin
コメント:
土方さんと千鶴の欠片もない!!!
というつっこみは受けません…受けないよ。受けないってば。
パロディだからという免罪符を全力で突きつけさせてください。
初出:2009520
再掲:20100309
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