夏の天気は変わりやすい。恨みがましいほどの熱と光を投げかけていたかと思えば、不快な湿度と熱はそのままに光のみを引き上げてしまう。否、もっと苦しめとばかりに厚い雲によって光を隔つや否や、代わりとばかりに雷鳴を響かせるのだから憎たらしい。おまけに、湿度を丸めて雨粒にまでしてくるのだから。
ぼた、と音がするほどの大きさで雨粒が庭先に落ちてきた。え、と千鶴が思う間にも雨脚は激しさを増して降り注ぎ、あっという間に水幕をつくっていく。
「やだ!」
もうそろそろ洗濯物を取り込もうとしていた矢先だったのだが自分の読みが甘かった。こちらの拭き掃除を終わらせてからと後回しにした結果がこれだ。
千鶴は慌てて庭に駆け出し、ひったくるように洗濯物を回収していく。その間にもせっかく乾いたそれらがどんどん濡れていき、千鶴は自らの身体で抱え込むようにして少しでも被害が少なくてすむように努めたのだが。
「う、きゃあ!!」
本来ならとても一度では運べないそれらを半ば無理やりに抱え込み、屋敷に向かって走り出したところだった。かろうじて腕にひっかかっていた――つまり、そのほとんどがはみ出してなびいていた洗濯物を見事に踏みつけてしまい、それはもう見事に。
転んだ。
洗濯物の半分以上をすっ飛ばし、わずか腕に残ったものに顔をうずめる形で庭先に伸びる。そのおかげで顔面をすりむくという事態からは逃れられたが、あまりの情けなさに暫く動くことが出来ない。
折角綺麗に洗ったのに。
折角気持ちよく乾いたのに。
今では濡れてしまったどころか、泥にまでまみれてしまった。そして自分は情けなくも全力で転んでいる。情けないだけでなく恥ずかしさが上乗せされ、顔を上げて現状を認める勇気が出ずに暫くそのままで固まってしまった。
「……何やってるの」
表現しようのない声音が聞こえ、千鶴がよろよろと顔をあげると軒先から長身の男がこちらを見ていた。
その眼差しに乗るのは、呆れやら驚きやらいぶかしみやらのオンパレードだ。ある意味、この男がそのような表情をするのは珍しいが、喜んでもいられない。
「おき、たさん……」
夕立でびしょぬれになり、さらに泥にまみれ、盛大に庭に洗濯物を撒き散らしている新選組の食客は、いつも以上に情けない声と居出立ちで半身を起こしてこちらを見たが、憐れむどころか正直「馬鹿じゃないの」という感想しか沖田には出てこない。無論、助け起こすために庭先に下りようなどとは思うはずもない。
ないのだが。
「っきゃああ!」
一際白い光が天を割き、大した間もなく地響きに似た雷鳴があたりを包む。かろうじて腕に残っていた洗濯物を放り出して頭を抱えうずくまった子供を見、さすがにこれを見捨てるほど自分は薄情ではなかったらしい。
自分で自分に感動しつつ、沖田は羽織を脱ぐと面倒くさそうに庭先へ降りる。両腕を上げて袖で雨を避けるようにしながら駆け寄り、丸まって震えている千鶴の帯をひっつかむと、問答無用で軒下まで連れ戻した。
「……離してくれないかな」
見るに見かねて引き上げた子供は、支えを見つけたとばかりに自分にひしとしがみついて離れない。すたすたと千鶴を拾い、すたすたと戻ってきたことから思ったほど濡れなかった沖田の着物は、けれどびしょぬれだった千鶴がしがみついているお陰で徐々に重さを増して来ている。
無言のままに固まっている千鶴を見下ろし、無理やりに引き剥がすことも考えたが、しがみついて来る身体から震えが伝わってきてはそれも躊躇われた。
カッと空をつんざく光があたりを一面白く染める。途端、びくりと肩を跳ね上げて声もないままにしがみつく力を強める千鶴の肩を、沖田は一瞬の躊躇の後にそっと抱きしめてやった。本当に、女子供は面倒だ。雷の何が怖いというのだろう。
「大丈夫だよ」
返事の変わりに、きゅう、と着物が握り締められて。
「雷なんて、そうそう落ちやしない。まあ、たまに落ちるけど」
そして死ぬけど、と付け足したらまるで猫の首を絞めたような声が千鶴から聞こえた。その情けない響きに思わず笑いそうになってしまったが、襟足まで真っ白に青ざめられてはさすがに心が痛む。だからつい、「落ちたって背の高いほうに落ちるから大丈夫だよ」などと付け足してしまったのだ。
そうしたら。
「――っ、なに」
不意に、自分の着物をぎゅっと握り締めていた少女の手が襟足に伸び、反対は二の腕を掴んで下へと引っ張る。不意打ちだったため姿勢を崩しかけたがたたらを踏んで体勢を整えながら、沖田は非難の声をあげた。
けれど千鶴は懸命にぐいぐいと沖田の身体を、着物をひっぱってはしゃがみこもうとする。
光が走る。雷鳴が、響く。
「……っう、うう」
千鶴も、怯えて。
中腰で抵抗していたが、このままでは着物が破れてしまう上に人語を話さない千鶴の目的も理解できない。
振り払うことも出来るがどうにもためらわれる。困り果てて同じようにしゃがむと、千鶴が更に自分の頭を抱え込んで来た。まるで、先ほどの洗濯物のように。
だからなんだと再度聞こうとして気付く。だって千鶴は、自分にしがみついているのではなく、自分を抱え込んでいるのだから。
(馬鹿じゃないの)
泣くほど怖いくせに。言葉も発せないほどうろたえているくせに。
自分よりよっぽど小さい身体で、それでもその全部を使って――守ろうとしているだなんて。
(馬鹿でしょう)
濡れた身体で抱きしめられたせいで、自分の着物までぐしゃぐしゃだ。おまけに重たくなった千鶴の袖が髪を撫でるからそっちまで濡れてしまって。
大丈夫だよ、とか。君に心配されるいわれはないだとか。
子供なんだから自分のことだけ考えてなよ、とか。発する候補は幾つもあるのに、どれも音にならずに喉から胸の奥に折り返していく。
何で。どうして。そんな感情ばかりが渦巻いて、沖田は珍しく本当に困ってしまった。困ってしまっている自分が一番厄介で、どうしていいのかわからない。
「息苦しいんだけど」
だからどうでも良いことを口にした。返事はない。
白い光が水に跳ねて足元から自分たちを照らしている。耳を覆いたくなるほどの轟音。時折混じる、固い息と押し殺した悲鳴。
込められる力。与えられる熱。
――おかしく、なる。
気まぐれな夕立は、始まりも突然であれば終わりも突然だ。激しさを弱めた雨脚と反比例するように、美しいまでの茜色が厚い雲から零れ始める。あれほど大声を上げていた雷鳴も、いまではその名残を遠方に残すのみだ。
全身濡れぼそった木々が枝葉から水滴を落とす音のほうが雨音よりも耳につくようになったころ、漸く千鶴の力が弱まる。あたりを伺うようにそろそろと顔を起こし、安心したのか白くなるまで固く結んでいた唇をほう、と緩めた。
その気配を察した沖田が緩慢な仕草で身体を起こせば、千鶴が大慌てで沖田の身体を解放する。
顔をあげた沖田の表情は不機嫌極まりないと言った態で、千鶴はひたすらに恐縮して謝罪の言葉を口にしつつ頭を下げたのだが、その視線の先にあった沖田の着物がぐっしょりと濡れていることに気付き、更に泣きそうになりながらただただ「ごめんなさい」と「すみません」を繰り返す。
「雷嫌いなの?」
許すとも許さないとも答えずに、沖田がそう口にすると千鶴がおどおどと頷いた。小さい頃、庭に雷が落ちてから怖くてたまらないのだと、まだ震えを残した声で告げてくる。
「雷って、勝手に落ちてきて、だから、逃げられないじゃないですか」
すん、と鼻をすすりながら言う様は、言葉だけでなく本当に怖かったのだということを示していて、沖田は益々不可解な気分になる。
だったらなおさら、自分を盾にして丸まっていればよかったのではないかと。千鶴より背の高い自分を盾にしておびえることに専念すればいい。わざわざ怖い思いを我慢してまで庇う必要などないではないか。そもそも、自分は雷など怖くはないのに。
「君、馬鹿でしょ」
そうとしか思えずにそういえば、酷く不本意だという顔を向けられた。
「う……だって」
「だってじゃないよ。君は怖いかもしれないけど、僕は怖くなんかないし。それでどうして、怖がってる人が怖がりもしない人間を庇う訳?」
「そりゃあそうですけど! そうじゃなくて、だって万が一でも落ちたら困るじゃないですか。せ、背の高いほうに落ちるっていうなら、沖田さんに落ちちゃうじゃないですか」
「うん」
「そんなの駄目です」
きっぱりと言い切られて、沖田は益々呆れる。この子供は馬鹿ではないのか。自分に落ちるということは、千鶴には落ちないということだ。それがなぜ「駄目」だというのだろう。
「君、やっぱり馬鹿でしょ」
「ばっ、馬鹿馬鹿言わないでください!」
「だって馬鹿だよ。雷怖いんでしょ? そして僕より背の低い君には雷は落ちない。それなのにどうして、わざわざ自分を苦しめる行動ばっかりするのさ」
心底呆れながら問えば、もごもごと「だって」の言葉ばかりが繰り返される。全くもって理解できない。
「僕としては君にしがみつかれたせいでびしょぬれだし」
「ご、ごめんなさ――っくしゅん!」
「で、風邪でも引いて、更に手間もかけさせられるのかな」
深々とため息をつきながら、沖田は縁側に放っておいた羽織を掴むと千鶴の頭にばさりと被せる。慌てて返してこようとする千鶴に一転苦笑を向け、「いいから使いなよ」と言葉を足した。
「庇ってくれたお礼。風邪引く前にさっさと着替えなよ。洗濯物は僕が拾っておくから」
その言葉通り、庭には千鶴が転んだ際に散らばったものや驚きに手放したそれらが点々と散らばっている。改めて惨状を認識した千鶴の頭ががくりと下がるのを見て沖田がからからと笑った。
「あの、でもやっぱり私が拾います。元はといえば私が散らかしたんですし、私の仕事ですし」
「あのさ、同じ事を何度も言わせないでくれる?」
僕が拾うって言ったよね?
笑顔で凄まれてしまっては二の句が次げない。ただでさえこの四半刻で山のように迷惑をかけまくっている以上、自分に主張する権利はないと千鶴はすごすごと引き下がった。
「……お願いします」
「良く出来ました。後はおにいさんがやっておくから、君は早く着替えてきなよ」
「あの、沖田さん」
言いつつ手を伸ばして身近なところに落ちていた洗濯物を掴むと同時に名を呼ばれ、そのままの姿勢で視線だけを呼びかけた少女に向ける。
とっとと直せばいいものを、自分が投げ掛けた羽織をそのまま頭にすっぽりと被ったままの千鶴は、向けられた視線に一瞬ためらいを見せたものの次の瞬間には力強く言葉を告げた。
「羽織、ありがとうございます」
それと。
「私、確かに雷嫌いですけど、すっごく怖いですけど」
それでもって、沖田さんもたまに怖いんですけど、と、うっかり漏れてしまったらしい言葉に大慌てしながら、「ええとですね」と誤魔化しもかねて千鶴は先を急ぐ。
「沖田さんが雷に打たれる方が嫌です」
それが、先ほど自分が問うた答えなのだと気付いたのは、千鶴が大仰に頭を下げてこの場から立ち去った後だった。
言葉それ自体はわかる。だが、理解できない。
どこまでお人よしなのかと半ば呆れながら、手を伸ばして茶色く水濡れた布を拾い上げていく。
一枚。
掴まれた腕の強さ。
二枚。
声にならない悲鳴にこもった熱。
三枚、四枚。
『だって』
五枚。
『沖田さんが雷に打たれる方が嫌です』
――六枚。
七枚目に手を伸ばしかけ、ふと身体を起こして千鶴が去った方角を見る。無論、彼女の姿はもうそこにはない。
次いで美しく染まった空を見上げ、同じく今は名残すらなくなった雷を思う。突然現れて場をかき乱し、妙な余韻のみを残して去っていったそれを。こんなにも美しい夕焼けを、残していったそれを。
『雷って、勝手に落ちてきて、だから』
「『――逃げられないじゃないですか』……か」
それはまるで。
「……僕も、馬鹿がうつったのかな」
気付きそうになったものから目を背け、苦笑を唇の端に滲ませる。
思考の先にあったそれを追い出すように大きく息を吐くと、あとは無言で庭に散らばった洗濯物を沖田は拾い続けた。
Fin
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Comment:
本当は、見捨てかけた恋愛フラグ前沖田と、慌ててかけよっていく恋愛フラグ後沖田の
比較を前面にだした話にしたかったはずなのですが…なにゆえ……。
千鶴ちゃんが思わぬ発言(「だって逃げられないじゃないですか」)を言ってくれたおかげで
軸が出来ました。
これだからお話書くのっておもしろいです。
20090604 日記にて掲載
20090611 再掲
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