自分は決して鈍いほうではない。人の心の機微に疎ければ、新選組などという軍隊めいた集団の副長などはやっていられない。
当然、目の前の彼女がいつの間にか自分に好意以上のものを抱いていることには気付いていた。そしてそれが、どれほどひた向きなものであるかにも。
だからこそ、自分がここで別れろと告げた時に返される言葉は、全てを悟ったような、思い込みの激しい時期にありがちなものが返ってくるのかと思っていた。好いた男の傍にいられればそれだけで幸せなのだと。どんな辛い思いをしても構わないと、そういう類の返事が。
『私は』
だから、もし目の前の彼女がそんなことを言おうものなら『ガキだなおまえは』の一言で切って捨てようと思っていたのだ。おまえの抱えるそれは、間違いなのだと。一時の感情に流されるなとそう言ってやろうと思っていたのに。
土方の言葉に泣きそうになりながらも、必死で堪えながら震える声で紡いだのは予想外の言葉で。
『私は、幸せになりたいなんて思っていません』
だから傍にいさせて欲しいと。
そこまで言った、最早少女と言えなくなった彼女に、それでも首を縦に振ることは出来なかった。
なぜならこの戦の結末はもう見えている。勝つための戦ではない。目的はもう別のところにある。
そんな、ただただ死する地に赴く自分に、千鶴をつき合わせたくなかった。
例え彼女が望まない幸せであろうと、年頃の娘として当たり前の人生を送っていって欲しいと土方は思う。それは逃げていただけなのかもしれないけれど。
同じ志を抱く同士ならば、共に目的の為に果てるだろう。向かう先につかめるものがないと分かっていても、己の信じたものを証明するためならば命すら惜しくない。
だのに、どうしても千鶴にはそのような道を歩んで欲しくなかった。彼女の心を疑っている訳ではない。それが、自分たちのものと比較しても決して軽いものではないということも分かっていた。
わかっていても。どうしても。
千鶴には生きていてほしいと、千鶴の為だけではなく自分の為にも思ってしまう。その為に彼女の心を殺すことになっても、だ。
それは彼女が『女』だからということではなく。
誰よりも誰よりも、自分の中で大切な存在だったからだと気付いたときには、彼女は傍にいなかった。
――びりびりっ
乾いた音と共に、白い破片がはらはらと床に散らばり落ちる。土方は信じられないものを見たように眼を見開き、見る影もない大鳥からの書状と、それを破った人物を見やる。
「……何してんだ、おまえ」
「辞令は受け取ってくれなくて構いません。……こんなものに頼った私が悪かったんです」
直前までの縋るような声はどこへやら、何かをふっきったようにその声は凛と響いた。
離れていたのはたったの三ヶ月。だが、気付けば三ヶ月「も」の重みになって気付かぬうちに土方を蝕んでいた。けれど、それを認めるわけにはいかない。命を自分に預けて戦いに身を投じている部下もいるという状況で、惚れた腫れたの感情にかかずらかっている時間はないのだ。
自分を迷いのない目で見据えてくる千鶴から目を逸らしたい気持ちを抑え、それを真正面から受け止める。おまえの覚悟がどれほどのものであろうとも、俺もおまえを受け入れないという強い覚悟がある。だから、認めてなんかやらねえ。
並みの男でも恐れを抱くほどに土方の眼光には言い知れぬ力がある。しかし、千尋はそれを怯む事無く受け止めている。
無駄だ。おまえが何を言おうが俺はおまえを受け入れない。
確固たる意思で、時には殺気に似た気配までまとわせて言い聞かせたというのに、それでも一向に引く気配はない。それどころか、自分の方が予想外の発言の数々に振り回される始末。あまつさえ、この自分を怒鳴りつけてきたのだ。
「ホントに……おまえってヤツは」
土方は深々とため息をつく。そういえばそうだ。こいつはこういうヤツだった。
だからこそ気付けばこんなにも大きな存在になっていたのだ。
ふいに破顔した土方に千鶴が戸惑い、何事かと身構える。土方は喉の奥だけで苦笑をやりこめ、諦めたように千鶴へと足を向けた。
「……まいったな」
元々自分は江戸の女に弱い。日頃はそこらの女と変わらず大人しくつつましいくせに、いざという時の胆の据りっぷりと迫力は土方でさえ目を見張るものがある。
だからこそ自分は逆らえない。無論本気で通そうと思えば通せる意地もあるのだが、どうにもそうしてはいけない気分にさせるものがあり、かつそれを『仕方ない』と許容させるものが彼女達には通じてあるのだ。
「土方さんはいつもそうやって……っ、お1人で辛い思いばかりされて」
抱き寄せた腕の中で、記憶より少し細くなった彼女の嗚咽が漏れる。
どうしてそうなんですか。すこしは分けてください。
そりゃあ何のお役にも立てないとは思いますが、それでも聞くだけでも少しは楽になるとかあるじゃないですか。
涙声で、時々しゃくりあげながらも言い募るさまが愛しい。こんな馬鹿な男にここまで尽くす姿も愚かだと思いながら、その愚かさですら。
まだ少し恐ろしい。自分の運命に、千鶴を巻き込んでしまうことが。
けれど三ヶ月前ならば、そして数秒前ならば出来ていた拒絶がもう自分には出来ないことに土方は気付いていた。
だって、触れてしまったのだ。
千鶴の曇りのない心に。細い肩に。零れ落ちる涙に。
そして気付いてしまったのだ。彼女が傍にいないことでどれだけ自分が病んでいたのか。彼女がいてくれたことで、どれだけ自分が助けられていたのかに。
「土方さんが気になさるなら……私、ずっと男装のままでかまわないです」
服も改めるし髪だって切っても構わないと泣きじゃくる千鶴の耳元に土方は「馬鹿野郎」と呟く。
「おまえは女だろうが。んな簡単に髪を切るとか言うんじゃねえ」
「でも」
「それに、どんな格好してようがもう誰もおまえを男だなんて見やしねえよ」
この花は開いてしまったのだ。
綻ぶ兆しを見せながらも蕾のままでいた少女は確実に娘へと、そして女へと変化した。そう変化させたのが自分への想いだというならば、どれほどの強さと覚悟で彼女はその変化を遂げたのか。
「でも、私がお傍にいるせいで土方さんが悪く言われるのは嫌です。それくらいなら髪くらい幾らでも切ります。頑張ればまだなんとか、男で通せると思いますし」
「無理だな」
一言で切って捨てれば、先ほどまでの威勢はどこへやらしょんぼりと分かりやすく落ち込む。
「いいんだよ。この俺が傍に置くって決めたんだ。誰にも文句は言わせねえ」
部下の士気に関わると言っていた矢先の言葉に、千鶴はなんと返していいのかわからない。
土方の迷惑にも、隊士の迷惑にもなりたくないが、土方の傍だって離れたくなんかないのだ。
あの、自らの半身を切り取られたような喪失は二度と味わいたくなどないから。
千鶴の不安を汲み取るように土方が皮肉げに笑う。
「仕方ねえだろ。例え反感買ったって、傍に置きてえって思っちまったんだから」
まあ、文句なんて言わせる隙を与えるつもりはないけどな。
言われた言葉が信じられずにぱちぱちと瞬きをする千鶴を、おいおい勘弁してくれと土方が眉をひそめた。
「おまえがそう思わせたんだろうが。頼むからしっかりしてくれ」
「お傍に……いてもいいんですか?」
「あ? さっきっからそう言ってるだろうが。降参だ降参。勝てねえよおまえには」
必死だった千鶴は気付かなかったのだろう。ようやくわかったとばかりに見る見るうちに笑顔になっていく千鶴の頬が朱色に染まっていく。一度認めた想いは一層千鶴を美しく見せ、土方には眩しすぎるほどだ。
「私、頑張ります! きっとお役に立ちますから!」
「ああ、せいぜい頑張ってくれ。だがくれぐれも無茶はするなよ」
「はい!」
腕を解くと妙に名残惜しい。大鳥に報告に行くという千鶴に報告なら自分がすると呼び止めたが、御礼が言いたいからとかけて出て行く。
この俺が覚悟で負けた。しかも一回り以上年下の女にだ。
だが、ふと零れる笑みがそれを決して不快に思っていないと自らに教える。そう、負けたのではなく、新たな覚悟が出来ただけだからだ。
だがそれでも揺れる。大袈裟な表現ではなく、間違いなくこれからの道は修羅のそれとなる。そこにどうして女を、しかも惚れた相手を巻き込むことが出来るだろうか。
出来るなら平穏無事な暮らしを送って欲しい。例え自分ではなくとも、それなりの頼れる男と所帯をもって幸せになって欲しい。彼女には笑顔が一番似合うと、そうわかっているのにそれももう出来やしない。
「決めたんだろうが土方歳三」
再び揺らぎそうになる心を、声に出して叱咤する。
何が彼女の為の幸せで、自分が千鶴にどうあって欲しいという希望はもうどうでもいい。ただ千鶴の覚悟を背負うと決めた。そして自分もそれを望んだ。
千鶴が傍にいる幸を思えば、この背にさらに負うものが彼女が女性として得られるはずだった幸せや命だとしたら、釣り合いとしては不足はない。
それほどの覚悟が千鶴にはあり、それを自分が背負う価値も千鶴にはあるのだ。
彼女を抱き寄せた両腕を見る。そこにはもう何のぬくもりも残っていない。
だが確かめた感触に覚悟を新たにし、何かを振り切るように固く瞑った眼を厳しく開くと空を見据える。
そこには微塵の迷いも残ってはいなかった。
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Comment:
捏造入ってすみません。
何が書きたかったって、もう男装するのは無理だよと実感を持って
言う土方さんだったりしました。
あと、千鶴を傍に置くと言ったのは自分がそうしたいという以上に
愛した千鶴の覚悟とか気持ちを引き受けて背負う土方さんの『覚悟』があったと思うし、
そしてそれは千鶴の存在の分だけ重かったんじゃないかなと。
上手くいえませんが。
20090220up
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