陸奥の清浄な空気と水のおかげで、平助君の身体に巡っていた変若水もずいぶんと薄まったようで、今となっては昼間に起きるどころか動いていてもさほどの支障も出なくなった。
あんまりにお天気がいいとさすがに眠気を催すらしく、たまに欠伸をしているのを私は知っていた。
「平助君、無理しないでお昼寝していいんだよ?」
8月。山奥と言えど秋の気配を微塵も感じさせない、目に眩しいばかりの緑があたりを覆っている。
深呼吸すれば背筋が伸びるような清々しさに溢れ、何気ない毎日でも嬉しくて思わず頬が緩む。
だけど一度羅刹となった平助君にはやっぱりこの日差しはやっかいなもののようで、欠伸の数も春より増える。無理をしすぎて身体に負担になっても嫌だしと、昼寝を進める私に平助君は首を横に振った。
「平気だって。それよりさ千鶴、家の事ってあとどんくらいで終わる?」
「ん? そうだなあ、とりあえずこのお洗濯物を干しちゃえば大丈夫だよ」
「そっか。んじゃオレも手伝う」
え、と私が驚く間もなく、平助君の手が篭の中にある洗濯物を取る。そしてじっと見ていただけあって、きちんと皺を伸ばしてからそれを干した。
「へ、平助君いいよ! 私やるから!」
「いーっていーって! 二人でやった方が早いじゃん?」
「そうだけど……ってそれは、だめえ!」
平助君が次に手に取ったものが何であるかが分かって、けれど平助君に分かられてはたまらないと大慌てでそれを奪う。い、いくら夫婦になったからって、こういうものを日の元で改めて見られるのはとんでもなく恥ずかしい。
「なんだよ」
「い、いいから! ほんとにあとちょっとで終わるから待ってて?」
ぶう、と膨れた平助君は、幾つ年を重ねても失われない少年らしさが残っている。たまにふと零れるそれが私は大好きで、だからちょっと不機嫌な平助君を前にしても思わず笑ってしまう。
篭の中から新たな洗濯物を取り出し、ぱんっと音を立てて皺を伸ばしながら再び縁側に座った平助君に声をかけた。
「ねえ、何か用事?」
未だちょっとご機嫌斜めな平助君は、縁側で両足をぶらぶらさせながらも私の問いに顔をこちらに向けてくれる。
「用事っていうか、時間あるならちょっと出かけね?」
平助君の申し出に私の手が止まる。実際、ここで暮らすようになってから今の時期を迎えるまで、外出らしい外出をしたことがなかったから。
いかにここの水が変若水を薄めるといっても、一朝一夕でどうにかなるものでもない。
最初は、本当に効果が出ているのかわからなくて、泣きそうになりながら手探りの毎日だった。
けれど半月ほど経ったあたりから羅刹化するほどの発作がなくなり、一月経つ頃には吸血衝動も収まって。
二月が経ち、昼夜が本来の生活に戻った。家の中でならば普通に過ごすことも出来るようになって、三月経つころには眠気と戦いつつも庭にも出られるようになった。そうして過ごして、今。
「私は、いいけど……でも、平助君は大丈夫なの?」
「平気じゃなきゃ誘わねえよ。そりゃ多少は眠くなるけど、んなの幾らだって我慢できるし」
「我慢して悪くなったらどうするの」
「だーいじょうぶだって! 千鶴は心配性すぎ」
平助君のあっけらかんとした言い方にかちんと来て、手に持っていた最後の洗濯物をぎゅっと握り締める。
だって、そんな言い方ない。心配なんて、してもしたりないくらいなのに。
今までだって、今だってこれからだって。考えても仕方ないってわかってるけど、それでもやっぱり平助君がいなくなっちゃったらどうしようとか、ちょっと考えるだけでも怖くてたまらないのに。
私の表情が翳ったのに気付いたのか、平助君の顔も曇る。しまった、って思ってるのがわかるそれに勢いづいたかのように、私は気付けば平助君を責めていた。
「そういう言い方、ない」
本当はちゃんとわかってる。平助君が私を気遣ってわざと明るくそう言ってくれるってこと。
だけど私の心はまだ弱くて、じくじくと傷が癒えないままでいて、忍び寄る影から目をそらすことで精一杯だからふとしたことでくじけてしまう。
こんなんじゃ、許された時間だって穏やかに過ごせないってわかってるのに。
平助君の方が私よりずっと辛いってわかってるのに。
「千鶴」
「ごめん」
平助君が私の名前を呼んだのと、私があやまったのが同時だった。
そのあまりにぴったりの呼吸に平助君が先に噴出して、縁側から再び私の方で近寄り、子どもをあやすようにこめかみの辺りを平で撫でた。
「千鶴が心配してくれんのはすげー嬉しいけど、あんまりオレの事、情けない男にしないでくれな?」
でもごめん、と。
言ってくれたから、甘えるようにその胸に擦り寄った。
「おまえがさ、オレらんとこに来たばっかりの時の事覚えてるか?」
平助君は私の背に腕を回しながら聞いてくる。その主旨を掴みきれずに、私はただ聞いていた。
「あの頃のおまえって自由に外出も出来なくてさ、オレや佐之さんや新八っつあんが一緒に出かける時も寂しそうにしてたろ?」
「でも、あの時は仕方なかったから」
「でさ、そん時にした約束覚えてるか?」
懐かしさに流されそうになりながらも必死で記憶を辿る。けれど、皆が出かけているのに出かけられないことなんてほぼ毎日で、だからその中でどんな約束をしたかなんて覚えてなかった。
返事のない私を見下ろして、平助君が片目だけを細めて笑う。降り注ぐ陽の光をその背から浴びながら。
だからきっと、それが眩しくて私も目を細めたんだ。
「おまえが自由に出られるようになったら、おまえの行きたいところに連れてってやる、って」
確かに、覚えてる。
だけどそれは約束と言うにはあまりにも、優しさや同情に満ちていたから私はそれだけで十分で、だからこそ『約束』なんて束縛のような位置にはなかったんだ。
「そんな約束したくせに、なんだかんだ行って連れて行ってやること出来なくて、気が付けば新選組から離れることになるわ夜しか動けないような身体になっちまったわで……すげえ、悔しかったんだよな」
あんな約束しておいて、守れなかった自分が歯がゆかったのだと。
「だからさ。すげえ遅くなっちまったけど……」
「平助、君」
「何処に行きたい? 千鶴」
今度こそ本当に、おまえが行きたいところにどこでも連れて行ってやると。
言って少し照れくさそうに、でも真っ直ぐに私をみる平助君がいて。
あのね。私が本当に行きたい場所って、もう行けたの。
平助君がいる場所が、この場所が心から行きたい場所。ずっとずっと居たい場所なんだよ。
だけど平助君が望んでいるのはそんな答えじゃないって知ってるから、それでもどうしたって胸が熱くて痛くて、泣き虫だって呆れられてもやっぱり平助君の顔が歪んで見えてきちゃうわけで。
「何で泣くんだよ!」
ちょっとだけ女心に疎い平助君は案の定うろたえる。今更だったか? とか、それとも何か別の理由があるのか? とか、大慌てで聞いてくるからもっともっと愛しさが溢れて困る。
「あのね、一緒に見たいもの沢山あるよ」
「見たいもの? 行きたい場所じゃなくてか?」
こくりと頷く。
「これから降る雪と、芽吹く緑と、春の桜と」
寒い日には寄り添って。暖かな日には二人でのんびりして。
「雪解けの小川に、あと紅葉も一緒に見たい。それから他にも沢山」
暑い日には日陰で涼んで、暮れ行く空を眺めていればいい。
それは願いで。祈りで。
平助君は何かを察したように、ほんの少し笑う。許容するような、だけど僅かの寂しさをのせた瞳で。
「じゃあとりあえず今日は、近くの小川にまで足を伸ばしてみるか?」
元気良く頷き、最後の洗濯物を竿にかける。
真っ白な布が日の光とそれによって生まれる影を身にまとって揺らめく様が、そのまま人の生き様にも似て見えた。
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Comment:
平助と千鶴は一番近い目線で一緒に歩いていく気がします。
もしかしたら約束を果たしていたのかもしれませんが、こういうのもありかなと。
20090219up
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