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●墨染の白、溶ける朱 |
自分の目的は、なんだったのだろうとふと考える瞬間がある。
本当にやりたかったこと。成し遂げたかったこと。この、日の本のためにか――それとも、己の生きる証としてか。
「今となっては、『生きた』証と言ったほうが正しいのでしょうが」
その答えが何であれ、ただ自分はこの新選組という組織の為に在り続けるはずだった。
羅刹の身となり、人としての生を歩めなくなったその時から、しかし己の選択を一度たりとも後悔したことはない。
土方と共に出張に出た先で発生した不逞浪士との争いの際に、利き腕ではないとはいえ刀を握るのに必須である対の手を傷物にしてしまったあの日。その日を境に、正に自分を取り巻く環境は天地が逆さになったかのようだ。
力が足りねば鍛えれば良い。心が折れるのであれば、何を目指すのかを己に問いかけ直せば良い。
そう、思って歩んできた日々が、あの日を以って終わりを告げた。鍛えたくとも腕が動かぬ。折れた心を認めずに顔をあげれば、口を出た言葉に周囲の人間が少しずつ去っていく。
何をしたかったのだろう。何を――すればよいのだろう。
(何も出来ない)
剣客としても役に立たず、参謀としてもお役御免。荒れた心が生む言葉や表情の一つ一つは、隊士達の英気を育てるどころか逆の効果しか生むことはない。自分は最早、新選組にとってお荷物以外の何物でもないのだということを、取り囲む全てが突きつけて来る。
この手が動くのならば伸ばしたい先がある。だのに、動かぬ腕が教えるのだ。掴みたいものがあるというのに、もうどうにもならぬのだと。
さやさやと、夜も更けてから吹き出した風が、中庭に植えられた木々達の四肢を揺らす。季節は移ろい始め、先日ほころんだばかりだと思っていた桜が、その身を千々に乱して墨染に溶かしていた。
陽の下で見る桜は陽光を受け、薄紅が白く透ける。だがこの夜の闇では、薄紅など元からなかったかのようにただ青白くあるばかりだった。その白はあくまでも白のまま、ただ運ばれた先の闇に溶けて、やがてその色を見失うだけ。白が染まるのは闇色のみだ。
如何に近寄って見つめようとも、温もりを宿したような色を見つけることは出来ぬ。夜の世界にある桜は、見るものの夢すら否定するように哀悼の白を纏うばかり。
山南は一人中庭に佇んでその白を見つめる。再び自由を取り戻した指先で触れた花弁は、わずかな湿り気を帯びていた。
「……山南さん?」
時間と己の立場をわきまえた声量が背に向けられ、緩慢な仕草で男は振り向く。確認するまでもないその声の持ち主は、少年として屯所預かりになっている少女だ。
山南が振り向いたのを確認すると、少女――雪村千鶴は音を立てぬように外履きを足に纏って距離を詰めた。
そして一定の距離を残して立ち止まり、どうしたんですかと問うてきた。
「どうした、とはおかしな質問ですね。羅刹である私が、この時間に起きているのは当たり前のことでしょう」
寧ろその質問はそのままお返ししますよ、と、微かな笑みと共に言葉を向ければ、形だけのそれに本能的な怯えを覚えたらしい娘の瞳が泳ぐ。が、感じた怯えを見せぬようにか、それともそれ自体を否定したいのか、次の瞬間には再びまっすぐに山南を見上げてきた。
「この時間に、ではなく、こんな場所に、とお聞きしたかったんです」
「……何故です?」
「春先とは言え、夜風は身体に障ります」
あまりに意外な回答に、山南が言葉を失う。前からおかしな娘だとは思っていたが、まさか言葉を奪われる程とは思わなかった。
羅刹の身を心配するなど、愚の極みだ。この身は人のそれとは異なる。風邪を引く事もなければ、致命傷を負ったとて心臓さえ無事ならば幾らでも再生が利くのだ。こんな、ぬるい夜風ひとつでどうこうなど、ある訳がない。
それを知らぬはずはないであろうに、ならば理解が足りていないということか。先ほどとは違い、感情が引き起こす笑みを口元に浮かべて喉で笑う。酷薄な優しさを滲ませて。
「ご心配はありがたいのですが、それこそやはり、君にお返ししますよ。私はもう人ではない。羅刹となった私にとって、暑い寒いなどというものは他人から聞くものであって、感じるものではないのです」
言葉を詰まらせた娘に、更に重ねる。
「さあ、早く部屋へお戻りなさい。それともまだ、私に用でも?」
「……でも」
人でない、と言い切った彼の、後ろを舞う白に何かが映った気がした。
揺れとも言うべきそれは肉眼で見えるはずなど無かろうに、確かに山南が零した何かを映して揺れた。この闇の中では、白であるしかないはずの桜に。
知らず、千鶴の視線が山南の左手に移る。人差し指と親指に挟まれていた白の花弁。吸い寄せられるように手を伸ばし、気がつけば両の手で山南の左手ごと花弁を手にとっていた。
「……何を」
「薄紅、ですね」
人の身体が温められることによって色味を増すように、散って果てるのみだったはずの花弁が、山南の指先から得た熱で僅かに朱をまとっていた。
それはもしかしたら、山南が指でつぶしてしまったことによる反応だったのかもしれない。生命の朱ではなく、失命の朱なのかもしれないけれど。
解かれた力により自由になった花弁が、その身を千鶴の手のひらに移す。しとり、と、ひと時その平を撫でたかと思うと、役目は果たしたとばかりに風に乗って去っていく。無意識に二人、その姿を追って暫く夜の闇に溶ける色を見ていた。
羅刹になり、昼の光が身を害するものになってからというものの、自分が失ってしまった景色は数えきれぬほどあって。
その一つである薄紅の白が、確かにこの瞬間だけ邂逅を叶えた。
きっと己だけであれば気付かぬままにいただろう。それを気付かせてくれた存在がこの娘とは不思議なものだが、事実は事実として否定する余地もない。緩やかに視線を彼女に向ければ、同じように千鶴も自分を見ていたことに気付いた。
「私……山南さんが人じゃないなんて、思っていません。羅刹を否定するわけでも、どちらが優れているとかを言うつもりもなくて、ただ」
それ、を愚かだといわれてしまえば、そうなのだろうと千鶴は思う。
だけど。
「山南さんには、山南さんでいて欲しいって思います。私が最初に会って、お世話になったのは「ひと」の山南さんでしたから、羅刹になっても、山南さんがそうじゃないなんて思えないです」
自分で自分が言っていることがわからない。ならば、言われる方はもっとだろう。
それでも、欠片でも伝わってほしくて。
伝えたいものが何なのか、明確になど千鶴自身にもわからない。ただ思うのは、己に何の価値もないと嘲りの色を乗せていた頃の彼はもう二度と見たくない。それと同じように、一切の感情を見せずに「人ではない」と言い切る彼も、見たくない。
志も、成し遂げたい何かの重さも分からずに、自分勝手な願いばかりを突きつける余所者など、ものの役にも立たず寧ろ邪魔でしかないだろう。それがわかるからこそ、居たたまれない。これ以上侮蔑の眼差しを向けられるくらいなら、逃げてしまいたいとも思う。
(だけど)
だけど、桜が揺れたから。
白でしかないはずのそれが、朱を纏ってしまったから。
「勝手に心配してすみません。山南さんが誇りに思ってらっしゃる羅刹の能力を、否定しているわけじゃないんです、ただ」
「雪村君」
言葉尻を奪われるように名を呼ばれ、千鶴が押し黙る。ああ、やはり自分は馬鹿な子供だ。声などかけずにおとなしく通りすぎるか、もしくは部屋に戻れと言われた時点でおとなしく従っているべきだったのだ。
「失礼ですが、もう少し自分の気持ちを整理してから私に話してもらえませんか。年頃の娘さんが感じられる全てをただ言葉に変えられても、自分のように歳を重ねた男には理解できないものですから」
「あ……ご、ごめんなさい!」
感情の全てを隠したような、一見人の良い笑みで意味深な言葉を向けられては、千鶴に否のありようはない。
ただひたすらに自分を恥じ、腰を折るようにして頭を下げた。
「生意気な事を言って、本当にすみませんでした。あの、じゃあお先に失礼します」
「いいえ、こちらこそつき合わせてしまいましたね。風邪など引かぬよう、気をつけてください」
山南さんも、と、懲りずに言いかけて留める。すると、その言葉は意外にも相手からもたらされた。
「私も、じきに戻ります。君に心配をかけてしまうのは、望むことではありませんからね」
「――っ、は、はい! あの、じゃあ、お休みなさい!」
ありがとうございました、と、先ほどの侘びよりも更に腰を折って頭をさげる。高い位置で結い上げた髪が、その勢いに非難するように彼女の顔をぺしりと叩いていたが、気にはしていないらしい。
夜の闇ではわからぬはずの色が、けれど確かに千鶴の頬にも乗っていた。何故それほどまでに喜ぶのか山南にはわからず、屋敷の中へと戻っていく小さな背中を消えるまで見つめた。先ほどの花弁と同じように。
千鶴の姿が完全に消えてから、最早何も残ってはいない左の手をじっと見つめる。一度握り締めて、開く。
動くその手は、羅刹の証。けれどこの羅刹の指が、白に朱を乗せた。桜と、彼女の頬に。
羅刹になったことを悔いはしない。己にとって、怖いのは命を失う事でも、人としての道を失う事でもなく目的を見失うこと。唯一と決めた、この組織の役に立てなくなる日が来てしまうこと。
羅刹となり、掴むための腕を得て、力も得た。失ったものよりも得たものと取り返せたものの方が大きいと、誰に何度聞かれてもそう答えられる自信はある。人ではない自分に、誇りすら覚えるほどに。
なれどあの娘は、そう言い切る自分を嫌だと言う。言葉には出さず、眼差しの強さで「ひと」であれと言う。
自身であれと命ずるのだ。
「……理解に苦しみますね」
どうであろうと自分は自分だ。それに、自分は人の身になど未練はないというのに――ない、はずなのに。
半ば社交辞令で告げた言葉に、心底嬉しそうな笑みで礼を告げた娘を思い出して眉を寄せる。彼女の言葉と同じくらいに、この胸に湧く感情が何であるかを理解できず、山南は苦々しく瞳を伏せた。
『否定しているわけじゃないんです、ただ――』
あれ以上の言葉を聞きたくなくて、それを奪った。苛立つ何かを認める訳にはいかぬという本当の理由には、目を背けたままに。
伏せた睫が、風ではない理由で震える。
見えぬものなど、見ようとしなければいい。
それがすでに答えだとは気付かずに。
笑みを浮かべた己の口元にすら気付くことなく、静かに眼鏡を外して花弁を追う。
ぼやけた視界に移ったのはただ、静寂を纏う白その一色だった。
了
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Comment:
そういえばサイトにあげてなかった!ということを思い出して。
山南さん好きです。
20100401up
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