|
|
|
|
●約束 ふたつ |
「一さんは、泳ぐの得意ですか?」
なんの前触れもなくそう聞いてきた自分の妻に、一は表情の乏しいと評されている顔を疑問の態に変える。
だが妻の顔は真剣そのもので、だからこそ自分も真面目に答えねばなるまいと冷静に自分の水泳能力を分析する。
「特段得手の部類には入らないが、それなりには泳げると思う」
だが何故だ? と問い返せば、妻はいまだ真剣な表情を崩す事無く「あのですね」と続けた。
「三途の川って知ってますか?」
「それは、知っているが」
「じゃあ、そこを渡ってしまうと今生の記憶が全部消えてしまうってご存知でしたか?」
必死に言い募るさまに、思わず返事も忘れてただ頷く。すると千鶴はへにょ、と眉毛を八の字に下げた。
「私、知らなかったんです。どうしましょう一さん」
「どう、とは……」
「だって、忘れちゃったら一さんに又会えたとしてもわからないって事ですよね? それどころか、わからないって事すらわからないんですよね?」
そんなのは嫌ですと、まるで子どものような駄々をこねる。一は驚き、やがて破顔した。
「何を言い出すかと思えば」
「……一さんは私のこと忘れちゃっても平気なんですか?」
拗ねたように責めると、唯でさえ涼やかな目元が更に細められる。明らかに不本意な事を言われたとばかりの視線に千鶴が我に返って萎縮すると、ふうと息を付いてそんな妻の肩を抱き寄せた。
「そうではない。ただ、忘れないというだけだ」
「だって、駄目なんです。彼岸へ渡してくれる船頭に怒られるんですって。舟には乗せられる重さが決まっているから、魂は運べても記憶までは運べないって」
「ならば船に乗らずに泳いで渡ればいい」
「私もそう思ったんです」
だから、一さんは泳げるのか心配だったんですと。
どうやら会話を先走った結果が、先ほどの質問だったらしい。
一は口元を緩め、まるで子どもが頓智に挑むようにあれこれ案を考える千鶴を見た。
「どうやら考える事は同じだったらしいな」
「だって私、今生でも来世でも一さんのお傍にいたいんです」
「……今生と同じような苦労をするかもしれないぞ」
「今生と同じ幸せを頂けるなら喜んで」
一さんのお傍にいることが、ただその生き様を見届けられることが何よりも自分の望むことなのだと、一体いつになったら理解して下さるのだろうか。
夫の瞳が、揺れる。困ったような、だけどそれとも少し違う熱を持った色で。
自分が発した言葉への返事は、抱きしめられる強さだった。千鶴は自らも一に身を寄せて言葉を続けた。
「でも心配なんです。一さんは沢山の思い出をお持ちだから、全部抱えたままじゃ溺れてしまうんじゃないかって」
抱えきれずにぽろぽろと零れてしまった思い出の中に、自分とのそれが含まれていたらと思うと泣きたくなってしまう。半ば御伽噺めいた言い伝えだと頭では理解しているのだが、死と魂を普通の人より身近に感じてきた千鶴には真実味を帯びて忍び寄ってくるのだ。
一と今生で過ごせる時間は、あとどれほど残されているのだろう。
来世で会えれば今度こそ、という今生の暮らしを軽んじたものではない。今生も来世も両方、という、愛しい相手がいれば自然と湧き上がる願いだ。
その願いが、恐らく普通よりも強くなってしまうのは否めないけれど。
「俺よりもおまえはどうなんだ? 泳げるのか?」
「大丈夫です、泳ぎは得意です!」
「重いものを持っても、か?」
「……だ、大丈夫です」
重いものを持って泳いだことなどないから自信など皆無だが、一との思い出がかかっていれば例え溺れたとしても手放すつもりはない。多少生まれ変わりに時間がかかったとしても、この気持ちを、記憶を、失ってしまうよりはずっとずっとましだ。
千鶴の返答に含まれたものを感じ取り、安心させるように一が言う。
「無理はするな。溺れてしまっては元も子もないだろう。それに、俺が老人になった頃に生まれてこられても困る」
「う……」
「零してもいいからちゃんと渡って来い。おまえは無理をせずに舟を使えばいいだろう」
「だってそれだと」
「俺が覚えている」
おまえの分も。自分自身の分も。
何一つ忘れない。仲間と過ごした日々。志を掲げた日。覚えた熱。人を斬った時の感触に失ったものと得たもの。苦悩した夜。落ちた影。
「一さん……」
おまえと出会った日。耳に響く声。俺を見つめる眼差しに、触れる肌の柔らかさ。
愛しいという言葉の、本当の意味。
「おまえが忘れても俺が覚えておく。俺が見つける」
この約束すら、おまえが忘れてしまったとしても。
片腕だけでは足りなくて、反対側の腕も使い千鶴を抱きしめる。一の温もりにすっぽりと包まれた千鶴は、複雑な気持ちが膨れ上がって胸が苦しく目を閉じる。
呼吸をすれば届く愛しい人の香り。預けた身体に伝わる体温。
幸せで、幸せで。例え死が分かつ時だって一時も離れてなどいたくない。
「約束ですよ?」
「ああ」
明確な返答を貰い安心したのもつかの間、すぐさま湧き上がる問題点に千鶴が困惑する。
全く何も覚えてない自分と思しき女性に、生まれ変わったとは言え性格が変わるとも思えない一が声をかける。というか口説く。
想像して、あまりのありえなさに絶句した。え、それはどう頑張っても無理じゃないだろうか。
だがその問いを向けられた一は涼やかな顔で「問題ない」とだけ答える。ええとええと、問題ないってだけどでも。
伺うように見れば、本音の読めない笑顔が自分を見ている。一の言う事を疑う訳ではないが、彼の性格から言って困難を極めることは必至な予感もするのだが。
「泳げるようだったら泳ぎます。無理だったら、お言葉に甘えて舟に乗ります」
「ああ、そうしろ」
「でも、思い出を忘れてしまっても、一さんの事すら忘れてしまったとしても」
一旦言葉を区切る。
「一さんをお慕いしたこの気持ちだけは、魂に焼き付けて持って行きます」
誰かをここまでひたむきに愛した気持ちだけは。
愛したひとのことも、愛を注いだ日々も忘れてしまったとしても、それがどんなに愛おしくて切なくて脆くて強い想いだったのかだけは、きっと失われない。
それほどのものだと、胸を張って言える。
「出来れば忘れないですけど、万が一一さんの事を私が忘れていてしまったとしても、見つけてくださったら来世の一さんを同じだけお慕いする自信がありますから」
だから、どうか見つけてください。
もし私が他の誰かと幸せを見つそうだとしても、それが私の為だなんて思わないで。
「……責任重大だな」
「ごめんなさい」
「いや。任された任務が大きければ大きいほどやりがいもある。それに、これは俺が望むことでもあるからな」
「……溺れないでくださいね?」
心配になってそう言ったら、一は少しからかうような笑みを唇に乗せた。
「おまえと一緒にするな」
「本気で心配してるんです! 一さんだってさっき仰ったじゃないですか、溺れたら元も子もないって」
「ゆっくり行くから心配は無用だ」
自分は確実に彼女より先に逝く。
それにより生まれた時間を、来世の再会の為に使えるならば僥倖というものだろう。
言葉にはしなかったそれを、けれど千鶴は敏感に感じ取ったらしい。自分の胸に預けていた頭をそろりと持ち上げて自分の表情を伺う。大丈夫、笑えている。
けれど、千鶴の方がそうではなかった。
「その前に、長生きして下さい」
ゆっくり逝ってください。
込められた願いに微笑むことで答える。それが叶うならどんなに幸せだろう。
1人にしないとは言えない。出来ないとわかっている約束をした瞬間、叶えられる約束までその価値を失う。
だから自分に出来ることは、全てを受け入れて微笑むことだけで。
「とりあえずは、泳ぐ練習でも始めるか」
「まだ寒いから駄目ですよ? もう少し暖かくなったら二人でしましょうね」
大きな約束と、小さな約束を一つずつ。
願わくばどうか、ただ共に在るという幸せをあともう少しだけ。
----------
Comment:
ふいにぽろりと浮かんだネタ。
相手が沖田さんだったらもちょっとコミカルになりつつな流れで、原田さんだったら
べったべたに甘く、土方さんだったら内心はともかく別の方向で諭して平助君だったら
一緒に手をつないで泳ごうぜとか言うような気がします。
20090223up
*Back*
|
|
|
|
|