** Happy C×2 **
 ●闇にひとすじの

 りいりいと、虫の声が響く。
 皆と別れ、江戸へ逃げる最中。当たり前だが一昼夜でたどり着けるわけもなく、私たちは過去そうしていたように野営を取る。
 もういい加減野営にも慣れた。江戸にある家で暮らしていたころは、自分の部屋で布団に包まれて寝るのが当たり前で、まさかこんな風に地面の上や木々に寄りかかって眠る日が来るなんて思いもしなかった。
 父様が居なくなって数ヶ月。新選組と合流して数年。その間に、劇的に変わってしまった私の人生。
 変わってしまったものは、環境だけじゃない。信じていたものが、それこそ根底から覆されてしまった。
「……」
 寝返りを打つも、眠気が訪れる気配はまるでない。私は諦めたようにため息をつき、そっと月明かりの綺麗な場所へと移動した。
 昼間の太陽とは違い、柔らかな光が辺りを包む。違うのは光だけではなく、とても戦が起こっている国とは思えないほどの静けさ。
 こんな、昼と夜のように。在るものは変わらなくても、変わってしまうものがあるなんて、思わなかった。
 それは多分、私が幸せだったということなんだと思う。
(父様)
 思い出されるのは穏やかな笑顔。けれど、最近ではすぐにそれが、あの狂気染みた笑みにかき消されてしまう。
 思い出したいのに、思い出したくない。私の中には今も父様が大好きという気持ちがあるのに、向かう先がない。大好きという気持ちは本当なのに、それが生まれた理由は、私にとっては決して認められないもの。
 ただ、風間さんの妻になるためだけに。その子を孕ませるただそれだけの為に、大切に育ててくれたと。
 こみ上げてくるものを堪えるように、私は強く膝を抱える。
「それだけしか……価値がなかったのかな」
 言葉にしたら、別世界のことみたいに現実味がなかった。なのに、視界だけが滲んでいく。
「相変わらず独り言が多いのだな」
「――っ」
 全く気配を感じさせずに現れた斎藤さんに声を失う。元々気配の薄い人だけれど、別段必要がなければその気配を完全に断つことはない。つまり、私がそれだけ油断していたということ。
 その事実が余計に自分を落ち込ませる。こんなんじゃ駄目だってわかっているのに、全ての事が私を落ち込ませていく。
 零れかけた雫を引っ込ませることに何とか成功する頃には、斎藤さんは私の隣に腰を下ろしていた。
 こんな遅くにどうしたんですか? と、聞こうとして愚問だと気付く。羅刹となった彼には、むしろこれが普通なのだ。
 だけどそれでも昼間も行動している彼の事を思えば、例え羅刹の摂理と相容れないことであっても身体を休めて欲しい。
「少しでも休まないと駄目です。羅刹とは言っても、疲れないわけじゃないんですから」
「ならば人の身であるお前は尚更だろう」
「う……」
 至極真っ当な答えを返され言葉を失う。確かに、唯人である私なら尚更この時間は休むべきだ。
「……眠れないんです。色々考えてしまって」
「…………」
 斎藤さんからの答えはない。もっとも、それを期待してもいなかった。
 ただ私は喋りたかったんだと思う。1人で抱えているのが辛くて、いっそのこと笑い話にしてしまいたくて。
「実家で父に再会した時に言われた事も、何かの間違いじゃないのかって思ってました。父様にも……父にもなにか深い理由があって、だから仕方なくそうしているんじゃないかって」
 感情で物事を判断するな。外見や性別で人を判断するな。
 新選組に入ってから、何度となく繰り返し言われてきた言葉。それでもどうしたって生まれてからずっと一緒だった父様を疑うことなんて出来なかった。言葉自体が本当でも、その背景にはそうならざるを得ないほどの事情があるんだって、思いたかった。
 そんな私の願いは、僅かも報われることなく否定されてしまったのだけれど。
「皆さんはお強いから……信じるものがあるから、その為に親しいものとも道を違えられるって言いますけど……私にはそんなものないんです」
 斎藤さんは何も言わない。なのに、卑屈になった私には全てが痛い。
 迷うのは弱いからだと言外に言われているようで、言うはずのなかった言葉までもが出てしまう。そして言ってしまってから、そんな自分が更に嫌いになった。
 抱えた膝にうずめた頭上に、静かな声が降ってくる。
「だが……おまえは進んでいるだろう」
いつも通りの斎藤さんの声は、だけどいつもより少しだけ温かく聞こえる。
「世間に声高に言えるような大義名分など無理に持つ必要はない……おまえが進むだけの理由があれば、十分ではないのか?」
「……」
「傷ついても、見失っても、それでもおまえは歩みを止めることはしない。それは普通の娘が持ち得ない強さだ」
 予想もしなかった言葉の数々に顔をあげれば、月光を背後から浴びた斎藤さんの表情は良く見えない。確かめたくて目を細めれば、彼の手が私の頬に伸び、いつの間にか溢れていた涙をぬぐってくれた。
「目的が何であれ、綱道が大事にお前を育てたことだけは分かる。その結果が今のお前だろう」
 だから?
(いいの?)
 そんなつもりはなかったのかもしれない。だけど、それが私には赦しの言葉に聞こえた。
 父をどうしても憎めない気持ちを、甘さではなくそれでいいのだと。
 一層溢れ出る涙をどうする事も出来ずに顔を覆う。こんなに泣いたのはいつぶりだろうか。
 どうしたって父様は大切な人だ。私を大事に、とても大切に育ててくれた。感謝したってしたりない。出来る恩返しならどんなことでもしたいって思う。
 それでも、今の父様の考えには従えない。風間さんに嫁ぐこと自体ではなく、その最終目的にどうしても頷くことは出来ない。
 己の心に従う為の涙なら、流してもいいですよね――?
「……親に裏切られた後では、俺のような他人に何を言われても受け入れられないとは思うが」
 私がいつまでも泣いている理由を読み違えたらしい斉藤さんが言ったその言葉に、私は顔がぐしゃぐしゃなのも忘れて彼に向き直る。けれど結局上手い言葉は出ず、ただ頭を左右に振ることしか出来なかった。
「なこと、ないです。そんなことないです……」
 ようやく言えたのは、その言葉だけ。
 自分だってどうしてそう思えるのかわからないけど、親にさえ裏切られてしまったけれど、それでも斎藤さんは決して口先だけの 言葉を言う人じゃないって事は信じられたから。
 袖口で強引に目元をぬぐい、落ち着かせるために息をつく。月が雲に隠れ始め、徐々に斎藤さんの表情が私にも見える。
「斎藤さんは嘘をつくような人じゃありませんから。あと、口先だけの言葉を言う人でもないって、信じてます」
 たった数年の付き合いだけれど、今まで生きてきた時間よりも遙かに濃い密度の中で分かった、自分なりの彼の人となり。
「って……父の目的さえ見破れなかった私が言ってもって感じですよね。でもこれで斎藤さんにまで嘘だって言われたら、さすがに立ち直れないですけど」
 すっかり暗くなってしまった場の雰囲気を何とかしようと冗談交じりで口にするのと、月が完全に雲に隠れるのが同時だった。
「あの男も嘘は言っていない」
 光度が等しくなった景色に浮かぶ眼差しが、真っ直ぐに私を見つめていた。いつものあの、どんなに痛い言葉ですらそれが真実であるなら迷いなく告げる光を灯して。
「だからおまえは傷ついたのだろうが……綱道も、風間の嫁にする為に育ててきたのだという事実を、嘘ではない本当の目的を口にした」
「斎藤、さん?」
「お前は知らなかっただけだ。だまされたのではない」
 彼の意図が良く分からず訝しげに問うと、斎藤さん自身も良くわからないと言ったように小さく首を振り、珍しく苦笑する。
「何を言いたいのだろうな、俺は」
 ただ、と。
「俺もおまえに嘘は言わない。決して」
 僅かにあがっていた口角を引き締めそう告げた斎藤さんの瞳は、それが彼の言う「魂からの言葉」だと教えてくれた。
「……」
 言葉にならない。
 言いたいことはたくさんあるのに、言葉にしたとたんとても陳腐なものになりそうで出来ない。
(好き)
 この人が好きだ。沢山の言葉を操る人でも器用な人でもないけれど、だからこそ彼の一挙手が、一言が、いっそうの重みを持って泣きたいほどあたたかい。
 目尻に残っていた涙をふき取り、一呼吸する。その間もずっと私を見つめている斎藤さんに、私は笑顔を向けた。
「ありがとうございます、斎藤さん」
 返せたのはその一言だけ。だけど、めいっぱいの感謝が伝わりますようにとまっすぐに彼を見つめる。
 私の笑みが強がりではなく本心からのものだとわかると、斎藤さんはふ、と口元を緩め、私の頭に大きな手を乗せた。
「もう休め……身体が持たんぞ」
「はい!」
 勢い良く頭を下げ、斎藤さんより一足先に先ほどまで自分が寝ていた場所へと戻る。途中、ふと肩越しに斎藤さんを振り返ると彼はまだこちらを見ていた。
 再び姿を現した月の光を背に受けたその表情は、ここからでは窺い知ることは出来なかった。


 

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Comment:

結構さらっと流されちゃいますが、そうそう簡単には割り切れなくて悩んだんじゃ
ないかなと思うんです。
でもってそんなときの支えがやっぱり斎藤さんだったらいいなあと。

20090202up


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