** Happy C×2 **
 ●星読みの先

  星をごらん、と師匠は言った。
  星はね、一つ一つがあらゆるものの未来を示している。
  君が綺麗だと言った輝きは、それそのものが人の命だからかもしれないね、と小さく笑って。
  寒くなってきた季節の始め、二人で夜空の星を追う。
  向こうでは、小学校の頃に行った林間学校でしか見たことのないような星空を。くるりと天地が反転して、眩暈がしそうなほどの輝きを。
「くらくら、します」
  頭をぶる、と振って意識を覚醒させれば師匠が笑う。君なら、本当に空に昇って行っても不思議じゃないね、と。
「だけど、まだ早い」
  星は流れていないから。
「師匠?」
  どういう意味ですか? の問いには答えてもらえない。暫くじっと師匠の顔を見て答えを待ったけれど、その視線が私に向くこともなく、唇が言葉を紡ぐ事も無かった。
(あの時の言葉は、こういう意味だったんですか?)
  光が満ちる。溢れているようで、手招きする光。
  まばゆさが増すのは、私が泣いているせい。嫌です師匠。私、まだ離れたくない。まだ、何も決めてないのに。
(どうして師匠が私の道を決めちゃうんですか)
「――ほら、お迎えの光だ。じゃあ、ね」
  助けて欲しいときにいなくて、全てが終わってから飄々と現れて。
  頑張ったね、えらいえらい。
  弟子が優秀だと楽だなあ。
  そんな言葉でいつだって誤魔化して。
「幸せになりな」
(なのにひどい)
  こんな時だけ、導くなんてずるい。

 

「師匠、いた!」
  これを玄徳様のところに持っていって、と言われたお使いを果たして戻ってみれば、執務室から師匠の姿が消えていた。
  そこに机と椅子があるにもかかわらず、目当てのものがあった場所でそれを広げる癖がある師匠は、床や棚の裏で見つかることも多い。一通り部屋をぐるりと見渡して、それでも師匠の姿を見つけられなかった私は顎に指をあてて考え、思い当たる場所を一つ一つ見て回る。
  裏庭の木陰。備蓄部屋。馬小屋の脇に、それから。
「ここは危ないですよって、何回も言ったじゃないですか」
「へーきへーき。ボクは誰かと違ってどじは踏まないよ」
「……どういう意味ですか」
  執務室の上には、現代でいうところのロフトのようなものがある。そこについている明り取りの窓を開ければ、師匠曰くの星読み場への入り口となる。
  スカートの裾を気にしながら、うんしょ、と師匠の後を追いかけて屋根に上がる。窓の外に出る時は表向きに、屋根に上がるときは逆向きに。この、身体のひねりがむずかしい。落ちてしまっては一大事だと、慎重に事を運んでいると、「君さぁ、太ったんじゃない?」なんて声が聞こえてきたから自然と唇がとがる。う、酷いです師匠。
「もっと別の言葉はないんですか」
「例えば?」
「大丈夫、とか、危ないよ、とか」
「言ったところで君、来るのやめないでしょう」
  一ミリも表情を変えずに言い返され、それはそうなんだけどそういうんじゃなくて、なんかこう、もっと。
「余計な事考えてると本当に落ちるよ。ほら、来るならさっさと来な」
  結局言い返す言葉が見つからず、黙ったまま師匠の横に座る。1.5階分の視界は、そう高くもないけれど低くもない。
  現代と違って、夜になれば本当に真っ暗になる世界。警備の為の炎は灯されるけど、それが役目を果たすのは周辺数メートルと言ったところ。
「随分、暗くなるのが遅くなりましたね」
  地平線に滲むオレンジに目を細めながら、存在を主張し始めた夜風に髪を押さえる。
  眩しさの残る方角とは反対に、夜闇に包まれ始めたほうに頭をこてりと傾けた。すると光る星と目があって、思わず「あ、一番星」と声を上げる。するとその声に私を振り返った師匠が、少しだけ慌てたように私の肩を掴んだ。
「危ないだろ。向くならちゃんと体勢を整えな」
「大丈夫ですよ」
「君の大丈夫は確率半々ってところだからね」
「師匠……それひどいです」
「いいから、ほら」
  さすがに目の前で落ちられたら目覚めが悪い、と、微妙な物言いで師匠が私の肩を更に強く押さえる。そのわずかな接触ですら私の心臓を暴れさせるには十分で、もしかしなくてもこっちの方がよっぽど危ないんじゃないかと思いながら、私は慎重に体勢を整えた。
  白く光る星は、薄明るい空の中でも一際目立って明滅する。小さい頃、夕方を知らせる音楽にせかされるように家へ向かう時に良く見つけていた一番星。こんな風に見るのは、その時以来かもしれないなあ。
「で? 一番星って?」
「え? 一番星って言いません?」
「聞いたことないな」
  私は空を指差す。
「あれです。一番最初に光る星のことです」
  すると師匠は納得行かないような表情で小首をかしげた。
「一番最初って、誰が決めるの」
  そんなの、見た人の時機に因るじゃないと実に真っ当なことを言われ、うう、と詰まる。すると師匠が呆れたように笑って、やっぱり君はまだまだだなあと小突いてきた。
「こんな事で言い負かされてどうするの。明確な定義がないなら、どうにでも避わせる内容だろ、今のは」
「う、はい」
  すみません、と頭を下げる。次は頑張りなさい、と言われて、はい、と返して。
  そうしているうちにどんどんと増えていく星を数えていく。数える間から増えていくそれは、やっぱり私の世界とは到底違うものだった。
「西で一番に見つかるなら、太白かな」
  花がさっき言ってたのはあれだろ? と、師匠が指差す方向を見る。
「たいはく……って、確か五星の1つでしたっけ」
「良く出来ました。まあ、基本中の基本だし、わからなかったら補習ものだよ」
  ちらり、と半眼を向けられて内心たらりと冷や汗をたらす。師匠に星読みを教えてもらったのはここ半年くらいのことで、今の話は「基本の基本だから。忘れたらただじゃおかないよ」と散々教え込まされたものだ。
「あ、ははは、忘れるわけないじゃないですか」
「じゃあ太白がつかさどるものは?」
「ちょっ、師匠、なんでいきなりテストなんてするんですかぁっ!?」
「君の言うテストが何だか知らないけど、師匠としては定期的に弟子を試すのは当然だよね。ほら、いいから答えな」
  冷や汗をたらした内心を読まれたかのように、いきなり始まったテストに私は泣きそうになりながら必死で記憶の引き出しを開けまくる。
「ううう……ええと、太白は金行ですから、方角は西、季節は秋です」
「干支は」
「丑……じゃなくて、ええと、申」
「と?」
「えっと、えっと、申と……あ、酉です!」
「及第点」
  セーフ! セーフ!
  危なかった。私の引き出し頑張った。
「顔に出すぎ」
  思いっきり喜んでいたら、やっぱりそのまま顔に出ていたらしい。呆れた声音とため息を同時に出されて、へへへと笑って誤魔化した。
「ここで生きていくなら、星読みは覚えた方がいい。兵法と同じ位大切だからね」
  口元には僅かに笑みを湛えながら、それでも師匠の眼差しは真剣だった。驚くほどに黒い瞳に、白い光が幾つも映りこむ様を見ながら、その目が本当に見つめているものは何なのかなと気になって仕方ない。
  師匠が見つめるもの。見取る先。そこに、何が見えて。私は。
「星読みって……そんなに当たるんです、か?」
「正確には、星だけじゃなくて雲の動きとか風の流れも合わせて読み取るものだけどね。本来あるべきはずの位置にそれがなかったり、おかしな色をしていたり。凶兆と吉兆を正しく見極められれば、国の行く末さえ左右できる事もある。何をしても変わらないなら、それはもう天命だ」
  人の力如きでは、どうにもならないことだってあるんだよ、と。
「例えば、ボクと玄徳様が出会ってしまったら離れられない事だって星に出ていた。そして実際にその通りだったしね」
「星に出ていたから、諦めたわけではなく、て?」
  すると師匠は小さく鼻を鳴らす。
「馬鹿にしないでくれない? ボクがどれだけ賢くて優秀だと思ってるの。ボクの知略を活かす場所も相手も、それに相応しくなければ一欠けらだって与えるつもりはない。つまり、玄徳様はそういう相手だった、って事」
  おかげでこんな暮らしだよね、と、指す先が山と積まれた書簡やら毎日のように埋まっている軍儀等々だということが容易に分かってしまう。
「お疲れですか?」
「疲れてないって言ったら嘘になるけど。まあ、優秀な弟子が何とかしてくれるんじゃないかな」
「弟子は弟子であって、師匠の代わりになれるわけじゃありません」
「えー? 君が早く一人前になってくれると、ボクすっごい助かるんだけどさぁ。早く隠居したいなあ」
「何言ってるんですか。師匠にはまだまだやることも、私に教えてくれなきゃ困ることだって沢山あるんですから頑張ってください」
  弟子が可愛くない、と、あえて私とは反対の方向を向いて呟くのを耳聡く聞き、冗談とわかりつつ好きな人に「可愛くない」と言われてしまったショックに打ちのめされながら、ふてくされて空を見た。
「星に出てないんですか? いつ頃弟子は独り立ちするのか、とか」
  すると折り曲げた膝についた腕で頬杖をつき、師匠は私を見る。その眼差しがさっきまでとはまるで違っていて、何故か私は怒られたような気分になった。
「君の星、か」
「師、匠?」
  反対の手で、私の頬にかかっていた髪を後ろによけてくれる。そのまま離れていくと思った手の平は、私の頬を包んだまま動くことは無かった。
「この空には、もうなかったはずなのに」
  刻々と変わる空が、師匠の表情を見えにくくしていく。
「なんで、いるんだろうね」
  包む空気も冷えていく。だからこれは、きっとそのせい。
「いちゃ、駄目……ですか?」
  震えそうになる声を、スカートをぎゅっと握り締めて堪える。師匠からの返事はない。
  とろとろと沈んでいった太陽の代わりに辺りを包み始めた宵闇は、まるで今の私の心のようだ。じわじわと不安が広がって、真っ黒に塗りつぶされそうになる。
  頬に触れていた手が離れていって、私は反射的にそれを掴んでいた。師匠の目が、わずか見開かれる。
「駄目なんですか?」
「ボクに決められる事じゃないよ」
  すり抜けようとするそれを、更に強く握り締めた。
「じゃあ、誰が決めるんですか」
  夜が来る。私の心に。
「師匠はさっき天命って言いました。でも私、ここにいるのが正しくなくても、天命じゃなくても、ここに、師匠のそばにいたいです。星がどう動いてたって、そんなの知らない」
「花」
「私は自分の意思でここに残るって決めました。師匠が帰れって言ったって、邪魔だって言ったって、私」
「花、落ち着きな」
「だって」
「花!」
  びくりと肩が跳ねる。思わず離した師匠の手が、今度は逆に私の手を掴んだ。
  驚きが通り過ぎれば、残るのはうそみたいに悲しい気持ちだけだった。勝手に顔がくしゃりと歪んで、そんな顔を見せたくなくて俯く。
  そばにいたい。ただそれだけなのに。
  私が一番望んでいるのは、師匠にそう思ってもらうことだけなのに。
  天命とか、星を読むだとか、そんなことどうだっていい。それが何を指していたって、師匠さえそばにいていいって言ってくれるなら、十分なのに。
(どうして言ってくれないんですか)
  そばにいてほしい、じゃなくて、いてもいいよ、でも、十分なのに。どうして。
「私の事も……星にでていたから」
  自分でも驚くくらい、掠れた声が響く。
「だから……帰そうとしたんです、か?」
  天命には逆らえないと師匠は言った。ならば、私はどうしてここにいるんだろう。
  ここにいることが天命ならば、それは天命じゃないってことになる。星読みってなに。全部が空の上にいる誰かが決めてしまえるなら、ここで生きる私達は一体何だというのかな。
  ず、と鼻をすする。師匠につかまれていない方の手で、にじみかけた涙を拭った。
「星が人の行く末を指すこともあれば、人が星を動かすこともある」
  だから星読みは難しいんだ、と師匠は言う。
「ボクはね、花。たとえ君の星がこの国に残る事を最初から示していたとしても、やっぱり君を帰そうとした」
「――っ」
「だってそうだろ? 君はこの国の――この世界の人間じゃない。君が生まれた場所も、育った場所も、友達や家族がいるのもここじゃない。ものも、ひとも、在るべき場所に在ってこそ、生まれた意味を全う出来る。そして君の在るべき場所は、どう考えたってここじゃない」
  「正しい」事を紡ぐ唇が、言葉を1つ落とすたびに師匠の声が遠くなっていく気がした。
  師匠の言うことは正しい。確かに、私はこの世界の人間じゃなくて、生まれた場所だって違う世界だし、育った場所も違う、大好きな友達だって、大切な家族だってここにはいない。ここにいる限り、一生会えない。
(それでも)
「そんなこと、知ってます」
  だけどそんな「事実」は、私にとっては「今更」だ。
「そんなこと全部わかった上で、私は師匠のそばにいることを選んだんです。師匠が私の事を好きじゃなくなったって、重荷だと思ったって、それでもいいから残りたいって思って、残ったんです」
「それを決めたのは今の君だろ」
「今の私が今の気持ちを話して何が悪いんですか!」
  激昂の余りに腰を浮かしかけてバランスを崩す。踏み留められなかった左足が屋根を滑り、私の身体を重力に任せようとするのに悲鳴をあげかけると、痛いほどの力で腕を引かれ、気がつけば師匠の腕の中にいた。
「ご、ごめん、なさい」
  重い吐息が頭の上に零れ、慌てて離れようとしたところを師匠に押さえられる。師匠? と呼べば、危ないからじっとしてなと返された。
  零れかけた涙は、今の驚きですっかりひっこんだ。同時に、一方的に気持ちをぶつけてしまった恥ずかしさばかりが湧き上がってきて、師匠の顔を見ることが出来なかった。
  ばくばくと心臓が暴れる。こんな風に師匠に抱きしめられたのはいつぶりだろう。こんな、痛いほどの力でぎゅうって。
(師匠のにおいだ)
  何の香り、って訳じゃない。ただ、これが師匠のにおいだってわかるそれ。
  師匠が使った仮眠用の上掛けとか、出かける時に使う外套とか、そういうのに移ってる香り。すごく安心して、だけど胸の奥をわしづかみにされてるみたいに痛くなる香り。
(好き)
  師匠が好き。傍にいたい。
  師匠も好きだって言ってくれたけど、じゃあなんで傍にいてっていってくれないんだろう。
  どうしてあんな、帰るのが当たり前みたいに言うんだろう。
  一度止まりかけた涙が又滲んでくる。だって、私だったら無理だもん。好きな人とずっと一緒にいたい。もし師匠がどこかに行っちゃうっていうなら、しがみついたってついてく。
  だから、私の好きと師匠の好きは、きっと――違うんだ。
「う……えっ」
「何で泣くの」
「だ、って、ひっ、う、ししょ、……ったしの、こと、なんて、いらない」
「そんな事誰も言ってないだろ」
  怒るよ、と言われて悲しくて泣いた。怒ってるじゃないですかぁ、と泣きじゃくりながら言えば、途方にくれたような黒い瞳と目があった。
  あれ、師匠――困ってる?
「いまいち君、分かってないよね」
「し、しょ?」
  呼びきるまえに音をふさがれる。ふ、と間抜けな声というか音が漏れて、そうなったのは唇があわさっているからだと気付いたら、全身から力が抜けた。
  泣いたせいで鼻がつまって息が出来ない。苦しくて息を飲めば、ほんの少しだけ唇がずらされる。やっと得ることの出来る酸素を取り込もうとしたら、違うものが口の中に入ってきた。
「んっ、んう……」
  柔らかいものが絡む。かと思うと、ざらついた表面が自分の舌にあたって、それが同じものだと気がついた。
「っ、はぁ」
  ようやく解放された頃にはすっかり息もあがり、顔を上げる気力もなくなっていた。一度そらしてしまった視線をもう一度合わせることは難しく、私は羞恥のままにうつむく。
「ボクは君が好きだって言わなかった?」
「言、いまし、た」
「じゃあなんで『好きじゃない』なんて言葉が出てくるんだよ」
  若干の苛立たしさを含んだ声は珍しく、そうさせているのが自分だという申し訳なさと、でもそうさせたのはやっぱり師匠だから師匠が悪いという気持ちがせめぎあう。出てくるのは「でも」とか「だって」ばかりになりそうで、それも悔しくて、だから師匠の言葉を借りる事にした。
「師匠だって言ったじゃないですか。それを決めたのは今の私だって」
「だから、好きだって言ったのもあの時のボクで今のボクじゃないって? そう来たか。君にしてはいい切り返しだね。――可愛くないけど」
「うっ……」
「ああもう、泣かない」
  無理矢理顔を上げさせられて、ぐいぐいと袖口で涙を拭われる。師匠にやらせるなんていいご身分だよね、なんて言いながら、じゃあなんでそんなに優しい目をしてるんですか。
「う、え」
「……泣かないでよ、お願いだからさ」
  師匠の言葉は私がいることを否定して、なのに優しい目で私をみるからわからなくなる。そうしたら言葉までもが優しくなったから、もうどうにもならなくなって本格的に泣き出した。
「ボクは帰れなんて言ってない。君が帰りたいなら、帰っていいよって言ってるだけだ。言っただろ、もう自分から手放すことは出来ないって」
  ――一生分の気力をあの時に使い果たしたんだから。
  そう呟いた言葉は、ほんの少しだけ揺れていた。
「だけどボクは君が好きで、本当に好きですごく大事だから、君が君でいられなくなるのは嫌なんだよ。君という存在がいればいいと思う反面、君らしくない君なんてみたくない。それ位なら、君が君でいられる場所に飛んで行って欲しいとすら願う」
「よく、わからないです」
  すると師匠は、ふ、と笑う。
「ボクは君の枷になりたくない。ボクのせいで、君が何かを我慢するのは嫌なんだ。君は自由でいていい。ボクの傍にいたいと願ったことに、縛られて欲しくない」
「だったら好きにさせてください」
  反射的に言い返し、真っ黒な瞳を見つめる。
「わた、私、師匠のそばにいたいです。確かに私が生まれた所も育ったところもここじゃないですし、知ってる人だって誰もいません。だけど、それでもわたしは、し、しょうが、うの、そばが、いいって」
  だから。
「いて欲しいとか、言ってくれなくていっ、いいです……から、帰っていい、とかも、思ってても、言わ、言わないで、欲し――」
「わかった、ごめん」
  ごつん、と額が当たる。痛かったけど、じわりと新たに浮かんだ涙はそのせいなんかじゃなかった。
「ごめんね」
  抱きしめてくれる師匠の背中に、そろそろと自分の腕も回す。きゅ、と力をこめたら師匠の腕にも力が入って、余計に泣けてくる。
  夜風が火照った頬を撫でてくれるから気持ちいい。鼻先には師匠の匂いがして、全身で師匠の体温が感じられて、このままずっといられたらどれだけ幸せなんだろう。
  あたりがすっかり夜の闇に包まれ、敷地の四方に明かりが灯される。それは少しも、夜空の輝きを邪魔するものじゃなかった。
  どれくらいしてからか、独り言のような師匠の声が耳元に落とされる。
  ――本当はね、君の星はどちらにでも動いたんだ
  迷っている君を表すかのように、どちらにでもとれる位置にいたのだと。
  それは、他人が動かしていいものじゃなかった。わかっていても、あえてそれに逆らったのだと淡々と告げられる言葉を私はただ黙って聞いていた。
  天命に逆らってでも、彼の思う私の「幸せ」になってほしかったのだと、わずかも揺れない言葉で言われて、その分だけ私の目から涙が零れた。それが、何のための涙なのかはもうわからなくて。
  だけど、師匠がとても私の事を想ってくれているのだけはわかったから、もう、責めることなんで出来なかった。
「ボクも困ってるんだよね。失うはずの君がここにいて、しかもボクを好きになってくれてさ……ボクが考えていたのは『あの時』までの道筋で、それ以上は存在しないはずだった物語だったから。時折、無性に怖くなるよ。何たって君はいつもボクの予想を遙かに超えていくものだから、幾ら備えたって全部無駄になるし」
  怒られてるのか呆れられているのかそれとも違うものなのか全くわからず、口を挟めずに師匠の話を聞く。
「だけど君には笑っていて欲しいし、だからと思って考えた事で、結局君がこうやって泣いたり。ボクの星読みもあてにならなくなって来たなあ」
「星、じゃなくて……私に聞いてください」
  ようやく掴んだ会話の糸を、ぎゅっと握り締めて言葉を紡ぐ。
「私はここにいるんです。ここじゃない世界にも、空にだっていません。だから、ちゃんと聞いてください」
  師匠が笑う。本当に君にはかなわないなあと、眉が少しさがった。
「笑い事じゃないです、私本気で」
「うん、そうだね……うん。君はここにいる」
「……そうです」
「うん、そうだね」
  あの言葉はもう言わない、と、約束をくれた師匠がけれど決してその考えを捨てはしないということはもうわかっていて。
  だから私はこれからの一生をかけて、与えてくれた選択は選ばれないもの「だった」と証明できればいいんだ。
「師匠、もうひとつ、私の世界で星に関すること教えてあげます」
「へえ? 何?」
  ちかちかと瞬きをする星を見ながら私は言う。
「流れ星って言うんです」
「星が流れるのはこの世界でも珍しくないよ。花だって知ってるだろ」
「はい。でも、私達の世界では願い事をするんです」
  怪訝な顔をする師匠に、にこりと笑う。
「星が流れ落ちるまでに、三回願い事を唱えると叶うんですって」
「……それ、不可能じゃない?」
  星が流れるのがどれだけ早いか知ってる? と言外に問われて、だからこそじゃないですか、と言い返した。
「無理でも叶って欲しい願いだからこそ、星に祈るんです」
  見逃しそうな一瞬。それを逃さずに気付いて、心の奥底の願いを唱える。
  それ自体がまず奇跡の出来事。
  空を見上げれば満天の星。あれ、何て言うんだっけ。小学生の時にもらった、星座を見る為のプラスチックの早見表。あれが手元にあればもっと色々、師匠に教えてあげられたのに。
  もっと勉強しておけばよかったなと思う。今の私がわかるのは、一番星の金星と、ひしゃくの北斗七星に冬のオリオン。自分の星座さえ見つけることが出来ない。
「君の世界でも、そんなことするんだ。へえ、ちょっと意外だな」
  星に願い事かぁ、と、感心したように師匠が言った。
「そうですか?」
「うん。君の世界って随分と便利そうだし、そういうある種の神頼み的なことってしなさそうに思ってた」
「そりゃあ、ここに比べたら便利ですけど……そういうんじゃない願い事って、多分、どこの世界でも変わらないんだと思います」
  空にあげていた視線を師匠に戻すと、今度は師匠が空を見ていた。
  だから私も、もう一度空を見上げて。
  すい、と師匠の腕が伸びる。星官を教えてあげる、と、星のひとつ、ふたつ。時に幾つものそれを繋げて、夜空に絵を描いていく。
「今日は二十八舎にしようか。そうだな……あれが商、真ん中にある赤い星は大火。でも五行では水にあたるから気をつけて覚えな。あれが貫索、あれは南斗六星――」
  師匠が指す先を目で追い、時に確認しながら同じ絵を描く。幾つもの星を追いながら、私は師匠を呼んだ。
「もし星が流れたら、何をお願いしますか?」
「君、真面目に聞いてた?」
  疑わしげな眼差しを向けられ、こくこくと頷く。師匠は「どうだか」と言いつつも顎をなでながら、そうだなあと考え始めてくれたから、私はわくわくしながら答えを待った。のに。
「仕事が寝て起きたら片付いてますように」
  なんてあんまりにあんまりな願いが語られる。いや、師匠らしいと言えば師匠らしいけど、もっとこう、夢っぽいのとか!
  本気かどうかわからない願い事にふくれていると、本気なんだけどなあと師匠が身体を起こしながら襟足をかく。離れていった体温を寂しく思いながら、それを誤魔化すようにもっと違う願い事にしてくださいと言うと今度は師匠に聞き返された。
「ボクの願い事ばっかり聞くけどさ、花のはどうなの」
「私ですか? うーん……そうですね、早く戦が無くなればいいです」
「いやあボクの弟子は優秀だなあ。うん、そうなるように頑張って」
「頑張ってじゃないです師匠も頑張ってください何他人事みたいに言ってるんですか……って危ないです危ないです!」
  ぐりぐりと頭を撫でられ、バランスが危うくなり師匠の腕にしがみつく。ちっとも悪いと思っていない謝罪を聞きながら、体勢を整えると、「優秀な弟子にご褒美をあげよう」なんて予想外な答えが聞こえてきた。
「願いがあるなら言ってみな。星じゃなくて、ボクにさ」
「師匠?」
「自分で言っただろ。星じゃなくて、自分に聞けって」
  だから言いなと、師匠は言う。
  突然の展開に頭がついていけずに瞬きばかりを繰り返してしまう。ええと、ええと、と意味のない呟きばかりを繰り返していると、「ないなら帰るよ」と背中を向けようとした師匠の袖を掴んだ。
「何」
「ええ、と……その、寒い、です」
「そういうことはさっさといいな。ほら、戻るよ」
「じゃなくて!」
  言った傍から頬が熱くなる。寒いって言ったのに、あっという間に身体は温かくなって、だから、寒いじゃなくて。
(さびしいんだ)
「もう一度、ぎゅってして欲しいです」
  離れていってしまった体温が寂しくて、もう一度と強請る。恥ずかしい。こんなこと自分から言うなんて、どう思われるだろう。
  顔を見て返事を待つ勇気が出ずに、師匠の袖を握り締めたまま俯く。するとその腕が動き、短く「離して」という声が聞こえた。
「部屋に戻るよ、おいで」
「ご、めんなさい、私」
  嫌われたか呆れられたかと思って慌てて謝ると、師匠が先に窓まで下りて、さっきほどいた手を「ほら」」と又差し出してくれている。ごめんなさい、と、その場を動けずに謝罪を重ねれば、何で謝るのと聞き返された。
「だって……私、変なこと言っちゃって」
「変な事? ああ、さっきの可愛いお願いか。叶えてあげるからおいで」
  いいから早く、とじれた手が私を手招きし、足場に気をつけながらその手を掴む。先に下りるよう言われて、師匠に支えられながら窓の内側に身体を滑り込ませた。
  先に部屋に入った私を追うように師匠が戻り、窓をしっかりと締める。その音を聞きながら、部屋の明かりに目が慣れずにぎゅう、と強く瞑ったところで背後から抱き寄せられた。
「し、しょうっ」
「何、君が言ったんだろ」
  君は時々迂闊だから気をつけたほうがいいよと続けられた言葉の意味はわからない。わかるのは、抱きしめられた腕がさっきと同じ位に強いってことだけ。
  突然の光にくらんだ目のように、突然与えられた抱擁に胸がぎゅっとなってどうしていいのかわからない。確かにそうして欲しいって言ったのは私だけど、こ、心の準備ってものと、あとあと、それから。
「師匠、師匠」
  ぺちぺちと私の前に回った腕をたたく。確かにこれもぎゅってしてもらってるけど、だけど。
「後ろからじゃなくて、前からがいいです。だって、師匠の顔が見えないです」
  言い終わるかどうかの瞬間に身体がくるり、反転して。見えるはずだった師匠の顔は、だけど一瞬で消える。
「正面だからって、ボクの顔が見えるかどうかは別じゃないの」
  声が近付いて、反論は喉の奥に消える。
  可愛いことばかり言う君が悪い、と、二言目を聞けたのはそれよりずっとあとで、その頃には声も出せないどころが膝も立てなくなった私は、情けなく床にぺたりと腰を落としてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

Fin

 

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Comment:

大分違うお話になってしまいまし た。う。
ちなみに商はさそり座です。
色々細かいところはご容赦下さい(こればっかり言ってるな)。

 

20100714up



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