** Happy C×2 **
 ●うらら、らら

  気がつけば、酒宴の席から花の姿が消えていた。
  酒を、と頼んだ杯は乾いたままで、孟徳は手にもったそれを意味もなくくるりと傾ける。
「丞相、お酒をお注ぎしますわ」
  言外に、花がいなくなったことで空いた場所へ行ってもいいか、と、微笑みながら酒壷を抱く女に、孟得は「ここはいい」とだけ言い渡した。女は屈辱にまみれながらも、表面上は何とか微笑を保つ事に成功し、軽く会釈をして場を下がる。
「おい」
「はい、丞相」
  別の女が喜びを隠そうともせずに返事をし、酒を持って孟徳の傍へと寄る。が、孟徳は杯を向ける事なく、辺りへ視線を向けながら女に質問した。
「花ちゃんを見なかった?」
「……どなたでございましょう」
  思い当たる節がありつつも、あえて知らぬふりを通す。すると孟徳は気付いているのかいないのか、「俺の傍においてた可愛い子」などと言うものだから、それではまるで自分があの娘に劣っているかのようではないかと、容姿にそれなりの自信をもっていた女は自尊心を傷つけられる。
「さあ……存じ上げませんわ」
  頬の筋肉を総動員して微笑を浮かべ、それより、と、この漢王朝において二番目の位を持つ男に酒を勧める。が、その答えは先の女に対して向けられたものと同じだった。
  その後も、酒はどうだ料理はどうだと勧められ、孟徳もさすがに断りきれずに口へ運ぶ。運びながらも視線は周囲に配られ、たった一人の娘を探す。
  どこへ行ってしまったのだろう。もう部屋へ下がってしまったのだろうか。
  そう考えて否、と結論付ける。確かに疲れたら下がっていいと自分は言ったが、彼女は自分に出来る仕事を探し、孟徳がそれを与えた。それを果たさずに下がるような娘とは到底思えない。下がるならば、自分に酒の1杯でも注いでから下がるはずだ。
「丞相、お顔が優れませんわ。何か気にかかることでも?」
「ん? ああ、いや」
  見目麗しく後ろ盾も確かな娘は、気に入ればいつでも閨に呼ぶ事が出来る。正妻の座は無理とは言え、後宮に迎え入れる事も出来よう。
  そういった肩書きがなくとも、たった一晩の寵愛でも得られれば良いという女もいる。それをわかって利用した事もあった。今まで抱いてきた多くの女の中には、孟徳の肩書きを愛していたものもいたし、純粋に孟徳自身を愛してくれたものもいた。今自分の杯を満たしてくれている女はどちらかと言えば前者だが、分かり安すぎる愚かさが逆に可愛いとも思う。
  けれど。
「少し席を外す」
「丞相?」
  立てていた膝を軸に身体を起こすと、周囲がざわめく。そのうちの一人が、内にある嫉妬を隠し切れずに「あの娘でしたら」と話を切り出した。
「先ほどご自分の部屋へ戻ったようですわ。私、酒壷を押し付けられましたもの」
「ふうん?」
  孟徳の視線を得、高揚した眼差しで続ける。
「随分とお力が強いようで、壷というか、あれは樽ですわね。厨房からお一人で持っていらしたようですわ」
「まあ」
「そんなものを渡されても、困ってしまいますわね」
  女の言葉に周囲も同調し、女への同情や花への非難をのせて囁きあう。
「丞相の気を引きたい気持ちはわかりますけど、人を巻き込んだ挙句仕事を放棄されるなんて……」
  語尾はあえて飲み込み、袖を口元へと運ぶ。孟徳は黙って女の話を聞き、やがて艶やかな笑みを浮かべると、かつん、と歩き出した。
「――ご苦労だった」
  彼女曰くの忠言を口にした女の横を、通り過ぎる際にそう言葉をかける。それをねぎらいの言葉と受け取った女は深々と頭を下げた後、周囲よりも一歩抜き出た優越感に浸った。
「どこへ行く」
「ああ、元譲か。丁度いい」
  宴会の場を離れようとした孟徳に気付き、元譲が声をかける。すると用があったのはこちらとばかりに、孟徳が指示を出した。
「あの、確か南陽から来た娘。下女に格下げしてかまわん」
「は? 突然どうした」
「俺に嘘をつくやつはいらないってだけさ。男だろうが女だろうがね」
それだけを言うと、元譲の問いには答えずにその場を去る。にぎやかな場所から静かな屋敷へと消えていく背中を見送り、主の向かう先を察した男は命令に従うべく、踵を返した。

 

  思えば、そのような嫌がらせなど数多くあったに違いない。
  身分らしい身分もなく、それどころが敵軍にいた人間がいきなり主の寵愛を得たのだ。時折自らの権利を主張して憚らず、戦をしかけてくる孫家や玄徳軍の長とは格の違う、この漢という国の丞相である男の。
  取り得と言えば、戦での采配のみ。美や教養と言った、傍に控える女性としての長所など何一つ見つからない娘。十人並みの器量で可愛いと評され、朴訥な言葉で素直だと褒められる。周囲からの――特に同じ女性からの――非難は、そうそうたるものだったろう。
  孟徳にとってみればただ感じたままに花の評価をし、受け入れただけだ。結果、好意を覚えた。
  花を「そう」としかとらえられない人間達に囲まれていたせいかもしれない。曹孟徳という名前が指す立場や権力ではなく、ただの一個人として接してくれた花に、気がつけば心奪われていた。
  彼女の前でなら、ただの自分でいていいのだと、そう思えたから。
  ようやく得た休憩時間に花の部屋を訪れ、庭へ出て茶を共にする。東方から手に入れた茶は花の好みにあったらしく、最近二人で茶を囲む時は決まってこの茶になっている。今日も花が手ずから淹れてくれた茶を前に孟徳は頬を緩ませ、にこにこと愛する娘の顔を見ていた。
「……あの、孟徳さん」
「なに? 花ちゃん」
「その……じっと見るの、やめてもらえませんか?」
「えー? だって折角花ちゃんが俺の為にお茶を淹れてくれてるのに?」
「緊張するんです!」
「見つめられるだけで緊張するんだ。可愛いなあ花ちゃんは」
  途端、がちゃん、と陶器同士がぶつかりあう音がする。動揺した花が急須の口を湯呑にぶつけ、危うく倒しそうになっていたが寸でで堪えた。
「大丈夫? 怪我してない?」
「ご、ごめんなさい、大丈夫です」
「わかった、もう見ないよ。大人しく待ってる」
  顔どころか首筋まで真っ赤になった花を見、孟徳が折れた。本当ならば一瞬たりとも花から目を離していたくない。自分が起因となって彼女が見せる表情の全部を見ていたいと思う。
  けれどそれでは茶を飲むまでに果てしのない時間がかかりそうであり、かつ自分の休憩時間は限られている。仕方なく妥協し、孟徳は美しく整えられた庭に視線を移した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
  花が生まれ育ってきた日本と言う国と、時代も場所も違うこの国おける「茶」というポジションは、どうやらそう大差はないらしい。最初こそ所謂「作法」に戸惑いもしたが、慣れてしまえば茶は茶であった。
  ただ、当然の如くコンビニもないこの世界では、喉が乾いた時に気軽にペットボトルで、という訳にはいかない。時折あの手軽さと冷たい温度を懐かしく思いつつ、花はうららかな天気の中、熱い茶に口をつけた。
「お仕事、相変わらず大変そうですね」
「そうなんだよ〜。文若のヤツがさ、次から次へと仕事を持ってくるもんだから休む時間もありゃしない」
「丞相のお仕事って、本当に沢山あるんですね……私も何か手伝えたらいいんですけど」
  自分には何の知識も知恵もない。戦で役立てた戦術も本に書かれていたことを口にしただけで、花自身が考えたものではない。無論、何かをしたいという目的と、それを達する為にはどんな形でも動かなければ始まらないということを学べたのは大きかった。が、この国を取り巻く政治問題に関しては正直お手上げだ。
  長期の視点に立って計画を練るということは、その根本にある問題を理解しなければならない。単発で起こる戦にその都度対処すればいいという事とは根本的に違うのだ。だから、下手に口を出せない。
「いいんだよ。君はそばにいてくれるだけで」
「でも……」
「花ちゃんがいてくれるってだけで、俺は頑張れるんだ。嘘じゃない、今だってこうして君とお茶を飲んでいるだけで疲れだって飛んでいく」
  その顔は信じてない? と悪戯げに微笑まれても、そうですか良かったです、なんて言い返せるほど自分は大人ではない。
  嘘だとは思わないけれど、本当ならばもっと恥ずかしい。嬉しいけれど、まだ気恥ずかしさの方がどうしても勝ってしまう。だって、男の人からそんな風に言われるのに慣れてなんてなかったから。
  肯定も否定も出来ず、うう、と言葉を詰まらせて孟徳から視線をそらす。いつかこんなやりとりにも慣れる日が来るのだろうか。そんな自分、全く想像できないけど。
「そういえば花ちゃん、最近何かあった?」
「え?」
「いや、たまに複雑そうな顔してるから」
  突然振られた話題に思い当たる節がある花は、見事にばれている自分の表情の緩さに驚くべきか、それとも孟徳の洞察力に驚くべきかしばし悩み、茶器の淵を指でつる、と撫でて「あのですね」と切り出した。
「最近、周囲の皆さんの扱いが変わってきたような気がして」
「扱い?」
「ええと……少し前までは、ああ、違う世界の人間だから仕方がないんだなあって思い知らされる事が多かったんですけど」
  花が何かを言うたびに、するたびに、向けられた言葉は「そんなことも知らないのか」と言ったものが多かった。加えて、女性と言う性差をことごとく強調され、こちらの常識にとらわれない自分は、驚きに若干侮蔑の混ざった視線を向けられることが多くて。
  それがここ最近、妙に皆が親切になったのだ。以前ならば遠巻きに観察されて終わり、だったことにしてみても、向こうから積極的に手伝ってくれたり、挙句居心地が悪くなるほどのフォローの言葉を付け加えられたりもする。何があったのか、と問いたくなるほど、その変化は如実だった。特に、以前自分に対してあからさまな敵意を向けていた女の人たちには。
  孟徳の自分に対する扱いを、もう珍しいものに対する興味からだとは思わない。自分は孟徳を好きで、彼も同じように自分を好きでいてくれている。だから、周りの女の人たちが自分に向ける視線を、受け止める心構えも出来ていたと言うのに。
「ああ、そういうことか」
  花が言葉にしなかった部分を理解し、孟徳が笑う。立身出世に忙しい周囲が、敏感に「巻かれておくべきもの」を理解したということだろう。
  半分ほどになった花の茶器に、孟徳が茶を注ぐ。ありがとうございます、と恐縮する花に、どういたしまして、と別の微笑みを向けた。
「気にしなくていいよ。君は君のままでいればいい。もししつこく何かを言って来るような人間がいたら、俺に言って。そうだな……たとえばやたらと誰かを君の前で褒めたりとか、逆に悪く言ったりとか」
「はあ」
「あ、金品を渡されたら遠慮なくもらっていいよ。但し、くれた人間の名前は覚えてなくていいから」
  顔も忘れていいからね、と、にこにこと話す表情とは裏腹に、なにやらとても大事で薄ら寒い話をされている気がして笑い返すことが出来ない。
  以前孟徳は、「くれるっていうものはもらっておくけど」と言っていたが、自分は何かを貰ってありがとうございます、という言葉だけで済ませられるほど豪胆ではない。もしもそんな機会があれば、丁寧に丁寧にお断りしようと心に誓っていると、「下手に固辞すると、逆に疑惑を生むから適度にね」と言われてしまった。
  そんな器用なこと、自分に出来るのだろうか。
「だいたい私なんかに何かをくれたって、私には何の力もないのに」
  軍師という肩書きは残れど、戦がなければ意味をなさない。丞相である孟徳と違い、残る二公でもなければ、宰相でも尚書でもないし、人事をつかさどる史部に務める人間でもない。周囲が何を期待して、自分に良くしてくれているのかがわからない。
  ただの親切、で割り切れるほど、自分は無知ではなくなった。だからこそ期待されても困るし、応えるつもりもない。だから余計に周囲の親切を申し訳なく思う。
  いつかただの親切すらもうがってみてしまうようになるのだろうか。嫌だな、そうはなりたくないな。だけど、出来ないものは出来ない。自分は孟徳を助ける存在になりたいのであって、困らせる存在になりたいわけではないのだから。
「君はそう思うんだ」
  菓子をつまむ指先を見ながら、この子はそう考えるのかと新鮮な気持ちで可愛い恋人に問う。
「君が推挙する人物なら、さぞ有能な人材だろうってとりたてるかもしれないよ? そうでなくとも、可愛い君の願いならきいてあげるかもしれない。少なくとも、周囲はそう思ってる」
「それはないです」
「言い切るんだ」
「はい。だって、孟徳さんは丞相だから」
  公私を分けない人間ならば、彼は丞相にはなっていない。国の事だけを思い、やるべきことをやってきた結果今の地位にいる人間が、今更道を違うはずがない。
  もしそれが出来るのならば、良かれ悪かれもう少し別の人生が彼にはあっただろうから。
「それに、私は孟徳さんを一番に考えたいです。丞相である孟徳さんのことは、沢山の人が考えてくれそうですし。大体、私には誰が丞相に必要な人で、誰が不必要な人かなんてわからないです」
  話し終えてから指につまんでいた菓子を口に入れる。ゆっくりと咀嚼し、黙って聞いていた孟徳に言葉を続けた。
「孟徳さんに必要な人が遠ざけられそうなら口を挟むかもしれません。例えば、文若さんとか元譲さんとか。矛盾してますけど、孟徳さんが丞相として不要だって思っても、聞いてもらえるように頑張ります。私は孟徳さんが好きだから、孟徳さんが悪く言われるのは嫌です」
  綺麗事だけでは国はまとまらない。けれど、時間を経ることでたとえ遠回りでも「綺麗事」で上手く行く事だってある。
  勿論、少しでも早くこの国が安定すればいいと思う。誰もが笑って暮らせる、豊かな国になればいいと思う。けれどそのせいで、誰かが泣いたり、孟徳が悪く言われるのは嫌だ。代替案を出せないのであれば否定する権利はないとわかっているけれど、それでもいやだ、と思う。
「それ以外で、何かを言うつもりはないです」
「ごめん、君を疑っている訳じゃないんだ。気を悪くした?」
  凛と自分を見つめる花に似つかわしくない言葉を向けたことを謝ると、くしゃりとその顔が笑顔に変わる。否定の形に振られた頭につられて、髪を結っていた簪の飾りがしゃらりと音を立てた。
「良かった」
「でも、出来る事があったら何でも言ってくださいね。そばにいるだけでいいって思ってもらえるのは嬉しいですけど、私だって、孟徳さんの為に何かしたいです」
「女の子が男に向かって『何でも』なんて言っちゃ駄目だよ? 君の師匠は、言質を取られる危険性については教えてくれなかったのかな」
  含ませた意味に気付いた花の頬が赤く染まる。おどおどと言いよどむ様を見て年甲斐もなく相好を崩した男は、頬杖をつきながら可愛いなあ可愛いなあと胸中で繰り返した。
「そうだなあ、じゃあ」
「あ、あの孟徳さんっ」
「とりあえず君の手料理が食べたいな」
  どんな注文をされるのかとどぎまぎしていた花にとって、拍子抜けとも思えるリクエストが届く。思わず「へ?」と間抜けな声を出しながら孟徳を見ると、相変わらずのにこにこ顔で「それと」と続けてくる。
「眠るまでそばにいてほしい。添い寝は駄目って言われたから我慢するけど、手を握っててくれるくらい、駄目?」
  最近頭痛が酷くて良く眠れないんだ。
  そう言われて我に返り、花は慌ててこくこくと頷く。そしてそれ位なら幾らでも、と言おうとして、「それ位」と言いつつそれ以上を求められては困ると気付き、その言葉を飲み込んだ。
  すると気付いた孟徳が噴き出した。早速学んでくれたのは嬉しいが、自分に限っては除外して欲しいと笑いながら言う。
「除外したら、意味ないじゃないですか」
  ぷい、と少し膨れて茶を口に運べば、しんと場が静まった。不思議に思って視線を戻すと、きょとりとした孟徳が机の向こう側に居た。
「孟徳さん?」
  しばしの後に、頬に当てられていた手が額に移り、やがて頭を抱えるものとなった。どうしたんだろう、又頭痛かな、と花が心配し始めると同時に、「あーあ」とため息が漏れ聞こえた。
「言質、取っちゃえば良かったなぁ」
「え?」
「君が可愛くて困るって言ってるんだよ、花ちゃん」
「……どっ、どうしてそうなるんですかっ!」
  幼くも自分を振り回す恋人に白旗を上げながら、注ぎ足してくれた茶を飲んで心を落ち着ける。
  いつ頃になれば警戒と許諾が共に訪れるかと考えつつ、もう暫くはこの穏やかな関係でもいいと思う。やっと手に入れた、安寧の場所なのだから。
  君が好きだよと繰り返す。頬が染まる様が愛しくて、何度も何度も。
  私だって好きですよ、の、たった一言に、言いようのない感情が溢れるのを感じながら。

 






 

 

Fin

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Comment:

孟徳さんのアンバランスさが難しいです。
時代背景のうさんくささは見逃してください。

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