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●暁の瞳 |
夜の帳が降りる。
経典を求める旅も終盤に差し掛かり、慣れと共に疲労も色濃くなってきた。
無論従者である四人はそのそぶりすら見せず普段通りを装ってはいるが、それが彼らなりの思いやりと矜持なのだとわかるからこそ、主である玄奘は感謝すると共に胸を痛める。
若干一名、旅の序盤、それこそ初日から倦怠感を全身に漂わせていた従者もいるが、彼の場合あれがデフォルトなので、そこについてどうこう言うのはナンセンスだ。
出来る限りちゃんとした宿で休ませてあげたいとは思うものの、旅の行程と路銀の都合からそうも行かない時もある。だが、自分を狙って現れた妖怪と戦った日や、大きな山を越えた日などは、やはりちゃんと休ませてあげたいし、自分だって休みたい。
(などと願ったところで、上手くは行かないものですね)
山を越えてすぐ町があるわけでもなく、それは今回も同じだった。幸い身を隠し、背にも優しい草の生い茂る場所だったが、やはり草は草で土は土だ。あたたかく柔らかい寝台とは違う。
ぱち、と、火のはぜる音がした。夜は交代で火と周囲の晩をしているが、今は一体誰がそれを担っているのだろう。疲れているはずなのに気ばかりが高ぶり、浅い眠りを繰り返していた玄奘は潔く眠ることを諦め、番をしているであろう仲間の元へと足を運んだ。
がさ、と足元でなった音に、火の番をしていた男の厳しい視線が向けられる。が、それも一瞬で、自分を認めた瞬間にその眼差しは驚きの色へととって代わられた。
「玄奘様? どうしたんです、こんな時間に」
「いえ、目が覚めてしまいまして」
だが驚いたのは玄奘も同じだった。確か、今晩の番は悟浄から始まったはずだ。なのに何故まだ彼が起きているのだろう。
「あなたこそどうしたのです悟浄。もう、誰かと番を代わってもいい時間だと思うのですが」
向かい合う場所に腰をおろしながら玄奘が問うと、はにかんだように悟浄が笑う。
「いえ、皆も疲れているでしょうし、出来ることなら休ませてやりたくて」
「それはあなたも同じではないのですか?」
「俺なら大丈夫です。こいつらとは鍛え方も違いますから」
それが虚勢ではなく事実だということは、長い旅路で玄奘にも分かっていた。悟空は論外、玉龍は術さえ使わなければ悟浄よりもタフだが、術を使えばそれなりに消耗もする。八戒は技量こそ悟浄に近いものを持ちはするが、瞬間的な力ではなく持続力を上げるとすれば、やはり悟浄の方が上だろう。
「それより、玄奘様こそお疲れでしょう。俺は大丈夫ですから、どうぞお休みになってください。まだ、夜明けまでには時間があります」
玄奘が従者を心配するように、従者である悟浄も玄奘に心を砕いている。男ですら楽とはいえないこの旅を、まして女の身である玄奘にはどれだけの負担になっているだろうかなど、想像に難くない。
しかし玄奘はそんな悟浄の心配を他所に、首をゆるく左右に振った。玄奘にしてみれば、互いに仏からの使命を負った同士という認識もあるが、三蔵法師である自分に付き合わせてしまっているという申し訳なさもある。だというのに、女性だというだけで、夜の番からも自分は外してもらっているのだ。心苦しいことこの上ない。
「私はあなたたちに守っていただくばかりで、何の苦労もしていません。夜だってこうしてゆっくりと休ませてもらえてますし」
「それは、当然です。俺たちはあなたを守る為にいるんですから」
「でも、申し訳なく思うのですよ。あなたたちばかりに苦労をかけてしまって」
「何を仰るんです玄奘様……! と……」
思わず声を高くしてしまった悟浄に、寝ている仲間を気遣った玄奘が、人差し指を自分の唇にあてて悟浄を諌める。すみません、と、慌てて声を小さくした彼に玄奘は苦笑する。
「提案なのですけれど、どうも今日は良く眠れないみたいですし、このまま私が火の番をしますからあなたは休みませんか? 平気、とは言っても、疲れていることには変わりありません」
「とんでもありません。あなたを置いて、従者である俺が休めるわけがない。それに、万が一何かあったらどうするんですか」
「何かあれば声を上げますし、それくらいなら私にも出来ます。何も、一人で戦おうなど無謀な事はしませんよ」
「駄目です。たとえご命令であったとしても、そればかりは聞けません」
はっきりと言い切られてしまい、玄奘は続く言葉を失った。盲目的に自分に従ってくれる玉龍を除けば、誰よりも自分の意見を尊重してくれる悟浄だが、一旦頑なになれば誰よりもその意見を変えない。対自分に対しては滅多にないことではあるけれど、こうなってしまえば彼を説得することなど到底無理だろう。
「ではせめて、誰かと火の番を代わってください。明日もその次も、まだ旅は続くのですよ? 無理をしてしまっては、元も子もありません」
「そう、ですね……じゃあ、もう暫くしたらそうします」
「ではそれまで私もお付き合いします」
「え? いえ、それは」
「何ですか? 私が起きていて、何かまずいことでも?」
どうせこの調子だと、タイミングを失っただのなんだの理由をつけて朝まで番を続けるに違いない。その玄奘の読みを裏付けるかのように、悟浄は先に寝るように繰り返す。だが、ここで折れるつもりなど毛頭ない。
玄奘は悟浄を頑なだと言ったが、周囲から言わせれば玄奘の頑固さも相当なものだ。言ってしまえばどっちもどっちというやつで。
「あなたの行動には、いつも助けられてばかりです。本当に、ありがたいと思っています。けれど、最近のあなたにはどこか、無理に自分をそう追い詰めているようにも見えるのです」
静かな森の空気に、耳障りの良い玄奘の声が響く。その内容に、悟浄は一瞬身を強張らせた。無論、そうと気付かせるほどのものではないが。
「今日の戦いもそうでした。いつものあなたでしたらもう少し、様子を見るか八戒との共闘を考えたはずです。なのに、あなたはそうしなかった」
「急いで、ましたから」
「そうですね。確かに、この旅は急ぐべきものです。ですが、今までのあなたであればどんな状況だろうとその時々の最善を尽くすと、そう思うのです」
結果的に問題なく戦いは終わったが、その功績はほぼ悟浄のものだ。特段彼のみが得意とする敵という訳でもない、別にそうすることに何の問題もないが、バランスを考えればもう少し他者を頼った戦い方でも良かったのではないか、と思うほどの不自然さ。
悟空あたりは最初から不自然、と感じていたが、玄奘にしてみれば微かな違和感でしかなった。それが、この短時間のやりとりで悟空と同じ境地にたどり着こうとしている。どんな小さな嘘やごまかしも見逃さぬようにじっと悟浄を見つめれば、二人の間で揺れる炎を映した眼差しが地面に伏せられた。
旅を始めてから、短くはない月日が経過した。けれど、その苦難は自分が犯した罪を贖えるほどのものだったろうかと悟浄は思う。
主の手に印された紋章が示す、旅の終わりの地は刻々と近付いている。
残された時間はきっと、あとわずかだろう。そして目的を果たした後に、自分の贖罪が叶えられるのだ――けれど。
(本当に、この程度の苦労で俺の罪は許されるのか?)
生きたいと願ったばかりに奪ってしまった姉の命。その理由は、己が生まれながらにして背負っていた、天竺への旅の従者であるという宿命の為。だからこそ観音はただの人間の子供でしかなかった自分に救いの手を伸ばしたのだ。
けれどそれは理由では無く言い訳だ。そしてその言い訳を、決して自分は良しとすることはできやしない。
どんな理由であれ、命の対価は命の重みでしかあがなえないという事実に気付けなかったのは、自分の生きたいという欲のせい。冷静に考えれば、気付けたかもしれない。けれど。
気付けたとして、自分はどんな判断をしただろうか――。
今の自分とあの時の自分は違う。過去を都合よく仮定の話で美化などしたくない。だからこそ、悟浄はそこからは意識を逸らす。
ただ、せめて。己の役目を全うすることで生きた意味を深めることができたならば、奪ってしまった命の意味をも深めることができるのではないかと、無駄ではなかったのだと、そう。
だから己を鍛えた。いつその日が来てもいいように。それこそ同世代の友人や職場の仲間が楽しい時間を過ごしている間すら惜しむように、身体を鍛え、知識を蓄え、ただひたすらにその日を待った。
『悟浄は本当に真面目だな』
そう言われるたびに、曖昧な笑みを返すことしか出来なかった。真面目なのではない、ただ、必死だったのだ。
この赤い目が決して忘れる事を許してなどくれない、己を罪を償うことに。
世界救済の旅。目的は勿論、この人間界を救うための旅。
けれど自分にとっては、それ以上に贖罪の旅だったのだ。
(結局俺は、俺の為にしか生きていない)
贖罪だ何だといいながら、何のための贖罪か。考えれば考えるほどに笑えてくる。
こんな自分を主は頼り、信用すらしてくれている。心配までも。
(俺は、あなたにそんな風に思ってもらえるような人間じゃないんです)
こんなことを考えていると知ったら、優しい彼女は怒るだろう。そして、心を砕いてそんなことはないと、慰めではなく心の底から言ってくれるに違いない。
「……なにか、迷っているのですか?」
ほら、こんな風に。
「いいえ玄奘様。俺は何も、迷ってなどいません」
「では、何を責めているのですか?」
笑みで返した言葉に返された返事に、色違いの瞳が見開かれる。
「悟浄。あなたが誰よりも自分に厳しく、責任感のある人間だということを私は知っています。たとえそれをあなた自身が否定したとしても、こればかりは譲りません。あなたは立派な、私の自慢の従者です」
「玄奘……様」
「一人でそんな顔をするくらいなら、私にも話して下さい。そりゃあ何の役にも立たないかもしれませんが、話を聞くことくらいは出来るのですよ。それにこうして、ただ傍にいることだって出来ます。逆を返せば、それだけ、ですけれども……」
「い、いえっ! 十分です!!」
語尾が弱くなった玄奘に慌てて悟浄が否定の言葉を発する。そのせいで再び大きくなってしまった声を抑えながら、思わず浮き上がった腰も同時に下ろして主を見つめた。
「ありがとうございます……。すみません、ただ旅慣れたせいで最近野宿も歩くのにも楽になったものですから、少しばかり不安になっただけです」
「不安に?」
「ええ。こんなに楽に、天竺へたどり着いてしまっていいものなのかと。ああ、勿論その時こそが一番大変なのだとは理解しています。蘭花も、紅亥児も他の妖怪どもも、経典が解放された時こそを狙ってくるでしょうから」
柔らかく細められた色違いの目は、昼間ほどその色の差を感じさせない。けれど時折はためいた火の明かりが彼の顔を照らすたびに、感じないと思った色の差を浮き彫りにする。明滅する暗と明。それが何故か、玄奘の心を不安にさせる。
「そう、ですね……確かに、旅には慣れました」
曖昧な相槌を返し、玄奘は瞬きをする。外の明滅に惑わされず、ただ彼の本当の色を見つめる為に。
「不謹慎ですよね。楽に越したことはないというのに、いざそうなると不安になるだなんて……俺もどうかしている」
彼の声は、こんなにも頼りなかっただろうか。それとも、それは時間に合わせて顰められたせいだろうか。
火のはぜる音と、虫の鳴き声。何処からか聞こえる、微かな音。獣の遠吠え。森の中が、この地球上で一番煩いのだと言っていたのは、誰だっただろう。
――だけどこの耳がとらえるのは、あなたのこえ。
「そうでしょうか」
てっきり同意がくるとばかり思っていた悟浄は、予想外の返答に玄奘を見返した。火の向こうにある主の顔は、炎に照らされていつもより大人びて見える。
「旅が楽なのに越したことはないと思います」
「玄奘様?」
「観音様は徳を積めとは仰いましたが、苦労をしろとは仰っていませんし。人間の心理として、苦労をして得た対価の報が価値があるような気がしますけれど、徳は徳なのですし、いいではないですか」
「げ、玄奘様?」
「――と、悟空あたりなら言いそうですね」
彼女らしからぬ物言いに慌てたものの、続いた言葉にがくりと脱力する。そんな自分の様子を主はくすくすと笑いながら見、それでも確かに一理ありますねと言葉を続けた。
「結局、その人間がどれほどの苦労をしてその対価を手に入れたかなど、誰にもはかれるものではないのです。ものすごく苦労をしてもそうは見てもらえないこともあれば、その逆だってあります。要は、自分の心次第ではないでしょうか」
冷え込んできた空気が、二人の吐息を僅かに白くする。それはすぐに溶けて消えた。
「あなたがこの旅を楽だと思うならば、対価と思うものにそれだけの価値があるということです。けれどだからといって、いたずらに自身の行動を貶める行為を、私は良しとは思えません」
「玄奘、様」
「あなたは立派な人です、悟浄。そして、そんなあなたの行いに、私は数え切れないほど助けられました。もしあなたが自分の行動を価値がないものだと言うのならば、救われた私にも価値がないということになります」
「玄奘様、俺は」
「少しずるい言い方をしましたが……要は、私はあなたが大切なのです」
だから、悟浄自身にも大切にしてほしい。
彼が抱える、彼の思う罪の重さを知っていてもなお、そう願う自分が一番の大罪人なのかもしれない。三蔵法師と呼ばれこの世を救う役割を与えられている人間が、世界の平和と同じ位に願うのは、目の前の彼の幸せ。
彼の赤い瞳が持つ過去を知った以上、そのことがどれほど彼自身を責めているのかを自分は知っている。もしも自分だったら、と思わずにはいられない。だが、重ね合わせてみたところで、決して自分に彼の本当の気持ちはわからないだろう。結局、どう思うかを決めるのは当人自身なのだ。
それでも、彼に触れ合った人間として、彼を大事に思う人間として願わずにいられない。彼が決める彼自身の罪が、少しでも軽いものであるようにと。
救われるその日が、一日でも――一秒でも早いものであるようにと。
「…………」
自分を真っ直ぐに見つめる主を見つめ返しながら、胸に湧き上がる衝動を悟浄は言い表せずにいた。
このままその衝動に身を任せて腕を伸ばしてしまいたい。間にある炎に焼かれるのならそれもいいだろう。そう思ってしまうほどの、嵐。
感情をやり殺す為に固く拳を握る。短く切りそろえた爪が、平に食い込むほどに強く。
「ありがとうございます……玄奘様」
掠れた声は、夜のせいだと思ってくれればいい。
自分を贖罪の旅へと連れ出してくれた伝説の三蔵法師は、その目的を果たす為に必要な存在。だからこそ、命を懸けて守る。
(だけど、それだけじゃない)
彼女が三蔵法師で、自分が従者だからという責務だけではなく、ただ彼女が彼女で在るだけで救い上げてくれる彼女自身を、守りたい。誰からも――運命からも。
自分の持つ、薄闇の瞳と血塗られた色の瞳。
罪を負った為に印された赤の色は、同時に彼女のくれる明けを示していたのだろうか。
その赤を背負うことで彼女と会えたのならば、と、思う自分は更なる罪人なのだろう。
姉の流した血の色。罪の証。
けれど徐々に明け行く空の色も、いつも以上に赤く見えて。
「美しいですね」
寒さの為に乗った頬の赤と、明けの光に照らされた彼女の持つ柔らかな色。
薄く微笑む口元の色も。
眩しくて、目を細めるしかできないほどに。
「ええ……とても」
美しいと――思った。
「結局最後までつき合わせてしまいました。申し訳ありません、玄奘様」
「いいえ、私もあなたに休んで欲しいといいながら、結局つき合わせてしまいました。すみません悟浄」
「いいえ俺が」
「いいえ私が」
互いに自分が悪いのだと譲らず、一瞬の間が生まれる。そしてその間が過ぎ去った後に、二人の間に静かな笑い声が響いた。
「ふふっ、じゃあ、おあいこと言う事で」
「そう、ですね…ははっ」
妙な気恥ずかしさを誤魔化すように、お茶を淹れますと悟浄が立ち上がる。すると玄奘が、ゆっくり話せて嬉しかったですと言うものだから、その言葉を背に受けながら俺もですと悟浄は返す。
立ち上がった悟浄の足元から、暁に照らされた影が伸びる。そしてその影は、ともし続けた炎に焼かれて消えて。
肩越しに玄奘を見た彼の赤い瞳は、暁と同じ色だった。
Fin
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Comment:
ごじょさん初書き。
普通に三蔵と玄奘へのごじょさんからの想いを書こうとしてたら、
ごじょさんの目って夜の色と明けの色だなってぽろりとおっこってきて
こんなお話になりました。
夜に向かう色と同じでもあるけれど、明けに向かう色なのだと、玄奘が
ひっぱってってくれますように。
*Back*
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