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●たとえ誰が決めた運命であろうとも |
本来ならば、人間が決して立ち入る事を許されない隔たれた場所――天界。
許されない、というよりもむしろ、実質不可能なのだ。人間が何をどう頑張ったところで物理的につながっていない異界へ行けるはずがない。その理を越えるほどの能力を持った者ならば可能だが、もしその能力を誰かが持っているのだとしたら、その時点でその者は人間ではない。
はずなのだが。
ぎゅ、と箒の柄を握り締めたまま、玄奘はかれこれ何回目かも分からないため息を零す。
だが彼女の足元には、その箒を使うような理由は見当たらない。綺麗に磨かれた材質不明の床が広がっており、埃一つ落ちてもいない。
「ですから、楊漸……」
「ん? なんだい、玄奘」
ため息をつくに相応しい表情を浮かべた玄奘とは真逆の表情を浮かべた高位の仙人――楊漸は、彼女の腰を攫うように抱きしめながら、無害そうな笑みを浮かべて返事を返す。無論声をかけた方もかけられた方も、言葉にださずとも会話の議題はわかっていたが、後者に至ってはあえて知らぬ存ぜぬを通す。
「このように突然天界へ連れて来るのは止めて欲しいと、何度も言ったはずなのですが。私には私の生活があって、しかも子供たちの世話という、人の命に関わる仕事もしているのですよ?」
「ああ、そんなことなら心配ないよ。木叉に誰かに頼むよう命じてあるからね」
「はあ!?」
思わず玄奘らしからぬ声が出てしまうのも当然だ。誰が誰に何を頼むと?
「あなた……まさかそんなことを、木叉様に?」
「何かおかしいことでもあるのかい? だって、君がここにいるのなら君の代わりに子供たちの面倒を見る人間が必要だろう? それとも、ほうっておいたほうが良かったのかい?」
「そ、そんなわけあるはずないじゃないですか……ですから、私が言いたいのはそういうことではなくて」
言葉が続かずに絶句する。ああ、今度彼に会ったらなんと言ってわびればいいのか。
仙である彼が、人間である誰かに頼みごとをするなど。しかも彼の性格だ、決して高圧的にものを言うことはあるまい。その構図は果たして許されるものなのだろうか。なんというかこう、世間一般のイメージ的に。
「別に木叉自身に頼んでも良かったんだけどね。それはそれで仕事が滞るから」
「当たり前です! というか、そもそもあなたが段取りというものを無視するからこういう事態になるのではないですか」
「しょうがないじゃないか。君は幾ら言っても地上で人間として暮らすというのだから」
「人間の私が地上で暮らして何が悪いんですか」
「冷たいね、玄奘」
きっぱりと言い切った言葉に、楊漸の顔が拗ねたような色を帯びる。一体どこまで自分勝手なのだと呆れながらも、そんな顔をされてしまっては惚れた弱みもあって強く出られない。
「別に会いたくないとか、会いにこないと言っている訳ではないんですよ。私だって、あなたに会いたい気持ちは一緒です」
腰に回された腕を外すように取り――かけて、邪魔になった箒を近くにあった椅子に立てかける。そして改めて楊漸の手を取り、きゅ、と握り締めた。
「ただこのように、毎回毎回攫うように連れてこられるのは困るのです。すでに、神隠しだのなんだのと、やっかいな噂が立っているのですから」
「事実じゃないか」
「だからそれが困るのです!」
犯人も原因も分かっているのは玄奘と和尚だけで、子供たちや周囲に住んでいる人たちからすれば、ある日突然玄奘が姿を消すという怪事件として映っている。
戻るたびに、ちょっと街まで出ていた、などの言い訳を繰り返してはいるが、今までの真面目な行いからしてそれがいかに不自然であるかなど、町人以上に玄奘自身が分かっている。少なくとも、途中の仕事をほっぽりだすような真似は、確かに自分ならばしない。否、したくもない。
「子供たちに、不安を与えたくないのです。私が消えることを、私だからとわからずに、いつか自分も攫われてしまうのではないかと怯えさせるようなことを、したくないのです」
「なんだ、そんな心配をしていたのか。それなら大丈夫だよ、ちゃんと説明するようにも言っておいたから」
握った手が再び腰に周り、一層引き寄せられる。会話すらしづらいほどの距離に慌てながらも彼の言った言葉を捉え、なら、と安心しかけてはたと気付く。
「……ちなみに、どんな説明を?」
「ん? そのままだよ。君が仙人である私に見初められて、日々仙人になる為の修行をするために天界へ来ていると」
「ちっともそのままではないではないですか! 全くの事実無根です!!」
「うるさいなあ。玄奘、そんなに大きな声を出さなくとも聞こえるよ」
「聞こえる聞こえないではなくて、あなたはちゃんと人の話を聞いてください!」
箒を手放すのではなかった。思い切りすぱこんと殴ってやりたいくらいだ。
一体なんということを言ってくれたのだろう。今度戻った時に、一体どれだけの人に説明をしなければならないのかと、考えるだけでも頭が痛い。
「本当に……あなたという人は」
「言っただろう? 私は諦めないよ。必ず、君を仙にしてみせる」
「私も言ったはずです。決して仙にはならないと」
顔を合わせるたびに繰り返される会話。片方は困り顔で、もう片方は笑みを浮かべて――その瞳は、真剣だったけれど。
「ねえ玄奘。私は君を諦めない。君が私を置いていくことも、私を忘れる事も許すつもりはないよ」
もう置いていかれるのはこりごりだ。自分のせいであろうと、抗えない運命のせいであろうと、そのためならばなんだってする。
永きに渡った混迷の末に、それでも迷っていいのだと教えてくれた、何よりも大切な存在の為ならば。
「私も、あなたに伝える事を諦めたりはしません。ただの人間であるからこそ、有限の生しか持たぬ人間だからこそ、仙であるあなたに伝えられることを」
「でも、君はそうして、満足したら私を置いていってしまうのだろう?」
途端に子供の様な眼差しになる男の髪を、玄奘はその細い指で優しく梳いてやる。敬うべき存在のそこに触れることに僅か逡巡しながらも、決して男が嫌がる素振りを見せなかったことから、次いで平で撫でた。
「時は残酷だ。そのことを、私は人である君以上に知っている」
とこしえに近い生と、与えられた時間。急がずともあり余るそれに、生きる魂は日々老いていく。
どんなに忘れたくないと願っても記憶は薄れ、思い出ばかり色濃くなる。そしてその思い出が事実であったのかどうかすらあやふやになり、無限の時へと消えていくのだ。
思い出すことの出来ない思い出が、どれ程残酷か。そしてそのことを許容してしまう恐怖。次に、恐怖すら覚えなくなる惰性。
今ある時間が愛しければ愛しいほどに、そのことが怖い。いずれ、何も思わなくなることがたまらなく恐ろしい。
「君には、その覚悟があるのかな。置いていく覚悟と同時に――忘れられるという覚悟が」
「え」
「何も知らずに逝ってしまうわけではないだろう? 君は、自分と私の寿命の差を知っている。そして――新たに生まれるかもしれない、別の命との差も」
灰色に近い青の眼差しが、複雑な感情をのせて自分を見ている。
「私の父が人間だったことは、君も知っているね」
ふと話題が変わる。突然の切り替えに一瞬返答が遅れたが、玄奘はこくりと頭を縦に動かした。
「ええ……聞きました」
「当たり前だけど、父はとっくの昔に死んだよ。君と同じように人間であることを選び、人間のままで死んだ。そして、私には彼の記憶なんてものはほとんどない」
彼の言葉が、さす意味は。
切り替わったように思えた話題は、そう見えただけだった。
「親の記憶を持たない子供が不幸だなんてことは言わないよ。自分をそうだとは思わないし、君が世話をしている寺院の子供たちを見ても、それは同じことだ」
「……はい」
寂しい思いをすることは人よりも多いとは思う。けれど、不幸であるとは思いたくない。
同じ境遇だからという理由では無く、そのように楊漸も思ってくれているのだと、関係のないところで玄奘はほっとする。
「私が言いたいのはね、玄奘。『忘れられる方』である君の気持ちだ」
死した後には感じえぬであろう感情を、今生きている玄奘に問う。
そして想像させる。自分が消えた後、日々薄れていく己の存在を。
「君は形の無いものを私に伝えると言ったね。でもそれは本当に、君が人間で在り続けなければ伝えられないものなのかい?」
そんな想いを、してまでも。
珍しいほどに狡猾ともいえる揺さぶりをかける男に、けれどそうとは捉えず真正面から玄奘は考える。楊漸が自分に問うている言葉の意味を。
視線を外し、意識の全てを己へ向ける。そして出した結論を告げるために、再び楊漸と視線を合わせた。
「はい」
痛みはあっても、迷いのない響きに楊漸の目が見開かれる。
「自分の存在よりも、残したいものがあるのです。たった一瞬でも、一時でも、伝えたいと思ったあなたにだからこそ、です」
真っ直ぐに自分を見つめる、自分よりも余程弱い人間が向ける眼差し。仙からすればまばたきほどの時間しか生きぬものだからこそ持ちうる、強き光。
否。彼女、だから。
楊漸の口元がふ、と上がる。代わりとばかりに眉は下がったけれど。
「相変わらず、君はひどい人だ。こんなにも君を想っている私を、自分の目的の為に置いていくというのだからね」
「ひどいのはどちらですか。まだ生まれてもいない子供まで引き合いにだして。大人気ない」
まさか気付かれるとは思わなかった仕掛けを指摘され、楊漸の目が泳ぐ。そのことを、玄奘は決して見逃したりはしなかった。
半眼で目の前の男を睨むように見、唇を尖らせる。全く、どこまで虚勢を張れば気が済むのか。
「わかっていないようですから、何度でも言います。私は、あなたのことが好きです。自分でも非常に不本意ですが」
否定される恐怖に、自らの価値を認めようとしない。何度好きだと言っても、自分のそれとは違うと言い聞かせるように口にする。挙句、今度はこんなことまで仮定して予防線を張って。
どうしてこんな面倒な人――否、人ではないけれど――を好きになってしまったのかと、自分でも自分を問いただしたい。けれどこの胸にある感情は、彼に向かう気持ちは、どうしたってただ一つのもの。誰にも、代わることなどできない存在なのだとはっきりとわかる。
「そんな理由で躊躇うくらいなら、子供の前に、あなたの為に仙になることを選びます」
一体どれだけ私の気持ちを疑えば気が済むのですか、と、続けた言葉に楊漸は顔を逸らす。その両頬を手の平でぐいと挟み、玄奘は無理矢理に自分の方を向かせた。
「いい加減にしてください楊漸。私だって、いい加減傷付くのですよ」
往生際も悪く視線を逸らしていた楊漸が、その言葉にやっと玄奘を見る。この天界ではほぼ見ることの無い、きらきらとした感情の高ぶりは眩しく、瞬きをするたびに弾かれて粒子となり、空気を満たしていくかのよう。
そうして停滞した、この土地の空気に彩りを与えていく。老いていたはずの、自分の時間にも。
(だから私は、君を諦めたくなんかないんだ)
「……どうしてあなたが、そんな顔をするんですか」
「どんな顔を、私はしているんだい」
「あなたのほうが余程、子供の様な顔をしています」
泣きそう、とは言えずに、そう返した。きっと、伝わってしまっているだろうけれど。
「そうか……すまないね」
「謝るところが違うではないですか」
「そうかな。ごめん」
「ですから……もう」
頬に添えた手をそのままするりと滑らせて、頭を抱えるように引き寄せる。ずるいひとだ、本当に。
「殊勝なあなたなんて、あなたらしくありません。何か作戦があるのかと思ってしまうではないですか」
「……本当にひどいな、君は」
「あなたのようなひねくれたひとの相手をしていると、こうなるのです。せいぜい反省して下さい」
文字通り頭の上から降らんばかりの説教に、楊漸は小さく笑う。言葉とは相反した温もりが、彼女の優しさと強さを物語っていて。
だから、諦めない。決して。
その行為こそが、彼女をそうさせる原因なのだとしても。
「反省したら、君は仙になってくれるかい?」
「どうしてそうなるのですか」
だいたい反省する気もないくせに何を言うのか。そう思った玄奘の心の内は、正しく楊漸に伝わっているのだろう。クスクスとからかうような笑い声が響く。
「反省した子供には、ご褒美がつきものだろう? 玄奘」
「私より何百年も年上のくせに何を言ってるんですか」
「君が言ったんじゃないか、子供みたいだと」
「それは言葉のあやで――、!?」
「ああ、もういいよ。勝手に貰うことにしよう」
抱きかかえられていた男は、器用にその立場を逆転させる。
そうして短くも長い時間、部屋からは言葉が消えた。
Fin
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Comment:
真君のどーしようもない弱さというか臆病さがたまらなく愛しいです。
二人の結末を考えるとなんかもう切ないとしか言いようがないのですが、
どんな結末でも、二人ともが納得できる未来でありますように。
20110524up
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